邂逅
雨が降っている。
設楽洋介は店の軒下に立ち、灰色に染まる夜空を見上げていた。
季節はそろそろ初冬に差し掛かろうとしている。しとしとと降り注ぐ雨は肌寒く、最近クローゼットから出したばかりのコートのあわせをかき寄せた。
コートのポケットからスマートフォンを取り出して時間を確認した後、胸ポケットから名刺入れを取り出す。
中を開き、クリップで留めていたメモ用紙を取り出す。
今週の月曜日、出勤した洋介は受付嬢に封筒を渡されたのだ。
設楽さんに郵便物です、と
宛先は、「上山プロダクション 設楽洋介様」。送り主は、洋介の知らない女性。
最初はうんざりして、エレベーターの中で一読したらすぐに捨ててやろうと思った。この手の手紙はしょっちゅう届く。仕事に関係のない手紙を勤務先に送るなと言いたい。
だが――封筒の隅に小さく描かれていた「それ」を見て、洋介は息を呑んだ。そして受付嬢には礼だけ言い、逃げるようにトイレに駆け込んで封筒をまじまじと見つめる。
見た目はどうってことのない量産型の封筒。
だがその隅に描かれていたものは――
「――設楽洋介さん?」
きりりとした女性の声に、洋介は我に返る。
見ると、ライムグリーンの傘を差した女性が駐車場からこちらへとやってきていた。洋介と同じく仕事帰りらしく、群青色のスーツを着ている。
そのスーツの意匠は、「彼女」と全く同じだ。
女性は洋介の前まで来て傘を傾げ、ふっと笑った。
初めて見る顔のはず。
それなのに、こんなにも懐かしいのは――
「……サマンサですか」
「ええ、今は仁科紗英っていう名前だけどね」
傘を閉じて軒下に入ってきた二十代後半の女性――仁科紗英は微笑み、灯りの漏れる店内を手で示す。
「私の名前で予約しているんだから、先に入ってくれていてよかったのに」
「なんとなく、雨を見たい気分でして」
「そう? ……じゃ、入りましょうか。ここは個人経営で、マスターたちは口が堅いの。安心してね」
「あの子」にはばれないから大丈夫、と言外に言われており洋介は苦笑した。
紗英に続いて店に入る。マスターと顔見知りというのは本当らしく、紗英は出迎えた中年女性と一言二言やり取りした後、「こっちよ」と洋介を奥の部屋へと案内する。
奥の部屋はカーテンで仕切られており、秘密の話をするのにも向いていそうだ。
「密室で女性と二人きりなんて……前世の僕であれば、顔を真っ赤にして飛び出していたでしょうね」
「あら、今の一人称は『僕』なのね」
「二十六年もこの姿で暮らしているのですから、一人称が変わってもおかしくないでしょう」
水が運ばれ、それぞれ注文をする。
「それじゃあ、改めまして」
上着を椅子の背もたれに掛けた紗英が微笑む。
「サマンサもとい仁科紗英よ。年齢は……前世と同じだから、今年で二十八歳」
「ジークベルトもとい、設楽洋介です。僕も同じく二十六歳です」
洋介も、胸に手を当てて挨拶する。騎士だった前世でのおきまりのポーズである。
「それにしても、驚きました。リエ様――いえ、理絵さんと再会したとたん、全ての記憶が怒濤の勢いで蘇ってきたのですから」
「それは私たちも同じよ」
「たち?」
「そう、たち。……手紙には詳細までは書いていなかったけれど、記憶を取り戻したのはあなたが最後の五番目。デュークとユーフェミア、ベンはもっと前に理絵ちゃんと再会して記憶を取り戻しているわ」
「え? それじゃあサマ――紗英さんは他の皆と会っているのですか?」
「四人で合流できたのは半月前の土曜日。ほら、あなたたちがデートした日よ」
「は」
紗英はなんてことなさそうに言い、運ばれてきた前菜を食べ始めた。
だが、洋介はそれどころではない。
「デ、デートって……ああ、そうか。理絵さんから聞いたんですね」
「聞いたから、尾けたわ」
「見ていたんですか!?」
「当たり前でしょう。理絵ちゃんの言う『設楽さん』がジークベルトの生まれ変わりである線が強いと感じたから、ちょうど部活も休みだった翔平君と一緒に待ち合わせ場所に行ったのよ。あ、ベンの生まれ変わりね。理絵ちゃんのアパートの大家さんの息子みたい」
「はあ……」
「そうしたらそこで、デュークとユーフェミアも見かけたわ。今の二人は斎さんとちなみちゃんって言ってね、斎さんは理絵ちゃんの従兄、ちなみちゃんは同級生らしいわ」
「……そう、ですか」
遅れてサラダを食べつつ、洋介は思う。
自分以外の四人も転生していたと聞いて最初は驚いたが、それぞれが生まれ変わった姿を聞く限り、「それでいいのだ」とすんなり落ち着いたのだ。
デュークは、年の離れた妹のようにリエを可愛がって守っていた。
ユーフェミアは、同い年のリエに懐いており、「生まれて初めての友だち」と呟いていた。
ベンは素直ではないが、姉のようにリエを慕っていたのがよく分かった。
そして紗英は、姉のように母のようにリエを見守っていた。職場が同じとのことだから、今でも理絵の世話を焼いているのだろう。
そして、自分は――
「……私たちは『リエ様定期連絡会』ってグループに入っていてね。あ、洋介も入る?」
「定期連絡会?」
「そう、最初は斎さんとちなみちゃんの二人だけだったけれど、デートの時に合流してからは私と翔平君も入ったの。ここにあなたも入ったら、かつて――聖女の護衛に選ばれた五人のグループになるのよ」
聖女の護衛に選ばれた五人。
無礼を承知だと分かっていて、紗英は洋介の職場宛に個人的な手紙を送った。理絵情報で洋介の名前と職場を知っていても、自宅の住所は分からなかったからだ。
そしてそんな怪しい手紙を開封されることなく洋介に捨てられたら困るので、封筒の隅に「印」を描いたのだ。
一見すればただのおしゃれな模様。だが前世の記憶を取り戻している洋介には、その印の意味が分かった。
聖女の紋章。
前世で洋介たちが掲げていた、聖女リエの護衛である証。
白百合と剣のマーク。
だから洋介は紗英の呼び出しに応じた。
手紙の内容は日時と場所をしているするだけのもので、前世の名前などは一切記されていない。だが紗英の文字や雰囲気から、ひょっとして彼女はサマンサの生まれ変わりでは……と予想は付いていたのだった。
主菜が運ばれてきた。紗英の前にはチキンソテー、洋介の前には白身魚のムニエルが置かれる。
「……グループアドレスは後で教えるけれど、私たちの目的は一つ。理絵ちゃんの幸せを願うということよ」
紗英の言葉に、魚にナイフを入れていた洋介は顔を上げる。
紗英はチキンを一口頬張り、静かな笑みを浮かべていた。
「前世であなたと理絵ちゃんが相思相愛状態だったってのは、私たちだってよく分かっている。でも、あなたも分かっているだろうけれど、理絵ちゃんは私たちの前世のことを知らない」
「……はい。あの世界にトリップする前の状態に戻されたのですよね」
「ええ、私も偶然その瞬間になりうる場面に同席したんだけれどね。……斎さんが幼少期から、ちなみちゃんが学生時代に、翔平君が下宿中、私が仕事中に理絵ちゃんを見守ってきたのは、今度こそ幸せになってもらいたいから」
「……」
「だから、私たちの目的は『あなたと理絵ちゃんが結ばれること』ではないのよ」
かつん、と洋介のフォークが皿の縁に当たる。
幼少期からマナーや礼法に関しては非常に厳しく躾られてきた洋介にあるまじきミスである。
「……分かっております」
「物分かりがよくて素直なのは、前世と同じね」
「僕だって、理絵さんには幸せになってもらいたい。あの国の時のように――望まぬ関係を強いられてひとりぼっちで閉じこめられるなんて、僕には我慢なりません」
リエのことが好きだから。
リエも、確かな愛情をジークベルトに向けてくれたから。
だが、そのリエは「存在しない」のだ。
今この世界にいるのは、洋介たちの過去を知らない「吉崎理絵」なのだ。
「しかし……もし僕が理絵さんを幸せにできるのならば、そうしたいのです」
「前世にできなかった分も、ってこと?」
「はい。それに僕はやっとしっくりきたのです」
設楽洋介として生まれてから、どことなく違和感があった。
何がおかしいのかは、分からない。だが何かにせき立てられるように、洋介は勉強も運動も頑張った。
容姿も優れていたので、中学生になった頃から告白されまくった。学校一の美少女もモデルにスカウトされたという年上の女性も、洋介からの愛を求めた。
だが、やはり頭の奥で誰かが叫んでいるのだ。
違う、その人じゃない、と。
「……ずっと胸の奥がもやもやしていました。でも、理絵さんと出会ってから全て分かったのです。前世の僕は――ジークベルトは、転生しても理絵さんを見つけたかった。見つけて、記憶を持たない理絵さんにも愛してもらえるように自分を磨かなければならないと訴えていたんですね」
「そう。それで、理絵ちゃんと再会して気持ちはどうなった? 理絵ちゃんのこと好き?」
「むちゃくちゃ愛してます!」
「それは結構なことだわ。……私たちも別にあなたに意地悪したいわけじゃないからね。理絵ちゃんにとってあなたが一番になるなら、全力で応援する。そうじゃないなら全力で排除する」
「はは……あなたは昔から、おっとりしているのに本気になると怖かったですね」
「あの子のためならね」
くすっと笑い、紗英は目を細めて洋介を見つめてきた。
「……頑張りなさい、設楽洋介。理絵ちゃんの幸せがあなたの幸せであることを願っているわ」
「……はい、ありがとうございます、紗英さん」
洋介は、元戦友に笑みを返すのだった。