密林の悪夢
パヂッ
コンマ数秒、砂嵐のようなノイズが混じった直後に地面へ叩きつけられ、息が止まった。
歯をくいしばり、泥と草にまみれた目をぬぐい、顔を上げると――
――飛び込んだ『黒い穴』の向こう側は、雑草だらけの空き地だった。
しかも辺り一面に『巨大植物』がびっしりと生えている、気味の悪い景色の只中に俺は横たわっていた。
『ジャン……グル!? ……ケホッ』
ようやく息を吸い込めばサウナのような湿気と熱気が、ねっとりした緑の香気を肺の奥まで流し込んでくる。
『夕凪! 夕凪はどこだ!?』
キッキキキッ
妙な鳴き声に振り返ると、毛の青い二匹の猿が夕凪へ馬乗りになっていた。
猿たちはボディバランスの崩れた長い四本の腕で、交互に夕凪のスカートをめくり、三つの眼で中を覗き込んでいる。
「起きろ夕凪!」
打ち所でも悪かったのか、彼女は草地に横たわったままでピクリともしない。
「このクソ猿ども!シッシッ!」
拾った石を投げつけ猿を威嚇した俺は、自身の感覚を疑った。石の質感と質量感がリアルすぎ、手元が狂いそうになったからだ。
ムキキキッ!
一度は目を吊り上げて逃げていった猿たちだったが、引き返してきた二匹は俺を前後に挟む位置取りで、再び接近してきた。
「出杉!いないのか出杉!?」
二対一の劣勢。ただでさえ体格負けしているのに、腕が四本あるせいで四方八方から波状に乱撃されると防御のしようがない。
後ろから羽交い絞めにしようとしてくる猿の顔面に、腕をほどいて振り返りざま、俺は角張った石を叩きつけた。
グギィアィヤアアアア!!
飛び出そうなほど目玉を見開いた手長猿が、絶叫しながら殴りかかってくる。ガードをすり抜けた拳が脇腹に直撃し、息が止まる。
『殺られる……このままじゃ袋叩きにされて蹂躙される!!』
俺は乱打の激痛をこらえて石を握り締め、化け猿のこめかみを強打した。
尖った先端が頭蓋骨にめり込む生々しい感触が、指先から心臓まで伝わってくる。
血濡れた青毛を数本散らし、光の粒子となって猿は消えたが。指先の震えと、過呼吸で波打つみぞおちの痺れは、残ったままだ。
……バーチャル・リアリティ……なのに何で……殴られた全身が痛いんだ?まさかSVR界隈で最近、話題になっている『幻痛現象』なのか?
もう一匹の手長猿はすでに見当たらなかったが、鬱蒼とした熱帯植物の葉音が、ガサガサと騒めいている。態勢を立て直すならチャンスは今しかない。
「夕凪! 起きろ夕凪!」
軽く頬を叩いてみたが意識が、夕凪の意識は戻ってこなかった。
落ち着け。一昨年のプール授業で『救急救命』を習っただろ?
眼を閉じ深く息を吸って俺は、救助の講習を思い起こした。
あれだ、ABCだ!……人工呼吸と胸のマッサージと、あとは……最後のCは何だ??
落ち着け……どこが機能していないのか、冷静に観察しろ。
触れた夕凪の肌の柔らかさに、乾いた喉が裏返りそうなほど心臓が高鳴った。困ったことに自分の鼓動がうるさすぎて、夕凪の心音が判別できなくなる。
心臓は動いているようだが、気道が詰まっているのか呼気が感じられなかった。俺は覚悟を決めて夕凪の鼻をつまみ、軽く息を吹き込んだ。
…………VRでこんなことをして意味があるのか…………??
ゲホッ
むせるように息を吹き返した夕凪が、うっすらと口を開いて、もう一度むせた。
「夕凪!! 大丈夫か!?痛い所は!?」
「大丈夫……だけど…………ここ……なんなの?」
「…………VRゲームの中だよ」
「これがVR???嘘……でしょ?」
夕凪が疑うのも不思議ではない。
彼女のアバターの髪の質感や肌の滑らかさの描写が、まるで…………
自分自身にしても体中の痛みから、のどの渇きに至るまで感覚が…………リアルすぎるのだ。
粘り気のあるツバを飲み込んでいると、夕凪が密林の木陰を指さした。
振り返って見れば、傘ほどある葉を持った植物が茎の途中から折れ、コポコポと水をこぼしている。
「私、喉がカラカラなんだけれど。あれ……ゲームにしては、飲めそうなぐらいリアルじゃない?」
湧き出る茎汁の滴りはとてもリアルで、確かに飲めそうなほど澄んでいるが。どんな毒が設定してあるかわからない未知の植物を、口にできるだろうか。
「どこまでリアルなのか試してみたいのは同感だけど、やめておこう。リスクが計り知れない」
「ゲームなのに?」
「ゲームだからだよ」
一区画だけ草丈の短い空き地の周りは、10m以上の木々が生い茂るジャングルのようだった。鬱蒼とした草木に全方位の視界が遮られている。
風や土の匂いが、まるで三日三晩ひき籠ったゲーム三昧から、玄関で現実に引き戻される時ように頬を叩いていく。
これまで色々なVRに没入してきたが、それらすべてが色褪せてしまった。感動のフタがこじ開けられ、涙腺が緩んでくる。
「密林のサバイバルも経験があるけれど、さすがにここまでの体験は――」
「あそこ、人がいるよ!!」
乾いた喉をヒリヒリさせながら空き地の外を索敵していると、離れた密林の中に気配が見え隠れしていた。
褐色の肌に土色のシャツを着た人影が、長い棒を構えて周囲を警戒している。無人島かと思っていたが、現地人が住んでいるのか。
いや違う。ネクタイは外しているが、あのパンツはウチの学校の制服だ。
「立ち振る舞いが、中村君っぽく見えない?」
夕凪の言う通り、背格好は『登山部の中村』なのだが……そうか。顔とシャツを泥で汚して、迷彩しているのか。
「お~い! 中村~!」
大きく手を振り応答を待っていると、夕凪が俺の手を掴み、中村とは別方向の茂みへ走り出した。
「おい夕凪、どうした?」
「!”#$%#”$!$&#$”#’%$#」
「何で中村から逃げるんだ?」
テニス部主将の全力疾走に追いつかない足が、徐々にもつれだしてゆく。それでも血相を変えた夕凪は木々の間を真っ直ぐ縫うように、俺の手を引き続けた。
「ストップ、こう見えてもリハビリ中なんだよ、俺の足」
「止まったらダメ!うしろっ!秋葉原君、バカっうしろっ!」
ズズン ズズン
全力疾走しながら背後の地響きを振り返ると。真っ黒な鱗状の肌、シマウマのような赤い縞模様、鋭い鉤爪と長い牙の『大型爬虫類』に猛追跡されていた。
あの走り方はヤバイ。トカゲじゃなくて恐竜だ。
俺は『喰われる者』としての本能的な恐怖を頭ごなしに捻じ伏せ、夕凪を追いかけた。けれども俺の脚力ではモンスターを振り切ることができず、どんどん距離を縮められてゆく。
「夕凪、俺もう 足が限界。先に 行って くれ!」
勢いよく開いた恐竜の大口から、フォークを並べたような鋭い歯牙が顔をだした。高圧電流でも流れているのか、牙と牙の間で青い火花がバチバチと糸を紡いでいる。
「バカ言ってないで、足を動かして!」
チィン バチッ
あわやの一噛みが、ウツボカズラのような巨大植物を無残に喰いちぎった。噛み跡はほのかに焼け焦げ、煙のすじが揺らめいている。
こんな序盤で恐竜と遭遇するのに、プレイヤーの身体能力に何のバフもないなんて、ゲーム・バランスがおかしい。こんなクソゲーを世に出したら、初日に大炎上すること間違いなしなほど、致命的に破綻している。
いや。それ以前に、没入型VRにおけるホラー&パニックの『体感演出・倫理規定』に、明らかに違反してるだろ!?
追跡を再開した黒竜の低く重い足音が、草木を掻き分けジクザグと稲妻のように木々の合間を接近してくる。
徒手空拳じゃ無理だ。木でも骨でもいい、何か『武器』が欲しい。
「ダメ! 危ない!」
折れそうな細さの木の枝に手をかけた瞬間、黒竜が二足歩行の筋肉を膨張させ、急加速した。
『しまった!』
走馬灯が回りかけたが間一髪。夕凪が俺を掴んで引いてくれたおかげで九死に一生を得る。
「止まらないで!」
ショックの暗転から回復すると、虚空を噛んだ竜が頭を振り、仲間を呼ぶように咆哮して密林を振るわせた。
だが、その雄たけびに反応したのは仲間ではなく、周囲の『樹』だった。
いっけん普通に見える樹から無数のツルが伸び、竜の体を拘束しようと取り巻いたのだ。
「秋葉原君、今のうちに!」
地を這う木の根に足を取られ、視界を阻む硬い葉に頬を叩かれながら。揺れる夕凪のポニーテールを全力で追い駆けると、色あざやかな視界が酸欠で歪んでくる。
息が苦しい。
汗が頬をつたう。
眼がかすむ。
「そんなっ!やだ!」
脇目もふらずに全力疾走していた夕凪が、急ブレーキをかけて立ち止まった。
「どうした!?」
「川、行き止まり!」
!!
熱帯植物をかき分けると、地面を3mほど削った深さで激流が轟いていた。
向こう岸は遠く、助走をつけて跳んでも指さえ届きそうにない。
シャッ シャシャッ
振り返ったジャングルに黒い影が数体チラついている。
「後ろ!来てるよ!?――」
影の正体は、ラプトル系の小竜たちだった。おそらく先程の咆哮で集まってきたのだろう、獲物を狩る群れの動きでピンと伸びた尾を躍らせている。
迫っているのは小竜たちだけでは無かった。引きちぎったツルをなびかせた大型竜が、電光石火の速さで後詰めしていやがる。
「――どうするの!?」
どうするもこうするも。生きたまま齧りつかれる体験なんて、たとえゲームの中でもまっぴら御免だ。
「離すなよ、夕凪!!」
「秋葉原君!!」
ヨダレにまみれた捕食者たちの跳躍をかわしながら、俺は夕凪の手を握りしめ、激流へ飛び込んだ。
ゴボボ
鼻から空気が漏れて鋭い痛みが眉間を貫く。
息も絶え絶え激流に巻かれるうちに、夕凪の手が離れた。
ゴプッ
もう限界……息継ぎ……水面は、どっちだ?
ひと掻きふた掻き、浮かび上がって顔を出そうとした瞬間。
ふわりと流れの向きが変わり、俺は呼吸のタイミングを逃した。