四話『名前がないのなら、付けてやればいい』
『お前を、連れて行きたい場所がある。……共に来てくれないだろうか?』
彼に言われた言葉に頷いたは良いけれど、私はいったいどこに連れて行かれるのだろう
少女は今、三年振りに外から出ていた
いや、寧ろ初めてと言った方が正しいかもしれない
なにしろ少女は産まれてからずっと“檻の中”にいたのだから
「…あの、まだ着かないんですか?」
「………まだだ」
森の中を歩いても歩いても未だに目的地らしき場所に辿り着かない事に少女が問いかけると、彼は渋い顔をしてまだ先だと言う
(…人間の足で行くのはこんなに遠く感じるものなのか?)
彼が目指す場所はかなり遠くにあるらしく、彼自身も歩く事がめったにないので距離感を掴めないでいた
少女はひたすらに彼の後を追うが、何せ彼の歩くスピードが少女と違う為に小走りで行かないと追い付けない
屋敷を出てもう何分経っただろうか
少女は少しばかり疲れてきていた
「あ、あの……少し、休憩…してもいいですか?」
とうとう少女は足を止めて乱れた呼吸を整えはじめた
そんな少女に彼は気付いて進める足を止める
そして更に気付いた
己と少女の歩く距離の違いに
(……やはり人間の足では無理があったか)
森の中、少女と彼の間は人一人が入れるくらいに空いていて、たとえ今自分が人の形をしていてもこうも違うのかと思い知らされた
よく考えれば、少女との違いは沢山ある
足の大きさから長さまでも違い、手すら違う
顔も少女の方が小さくて、髪の毛も…身体つきも何もかもかなり違うではないか
(…三年前よりは成長しているんだがな…)
三年前、初めて少女に出逢ったあの日の事を彼は思い出していた
今よりも手足は短く、髪も短かった
(…顔つきも、あの日より大人に近付いた…)
彼はそこでハッとする
何故今更になってこんなにも少女の変化に気づくのかと
何故少女が成長した事に対して、こんなにも興味があるのかと
だが、未だその正体に彼は気付いていない
(……人間は、我らよりも早く成長するのだな…)
「……えっと、もう大丈夫です」
「…ああ」
少女はあまり待たせてはいけないと考え、彼にそう言うのだが彼は歩みを進めようとはしなかった
不思議に思って少女は声を掛けようとする
しかし、急な強い風によってそれは阻まれた
(な、なに?急に風が…)
「…ナモナキショウジョヨ。イマイチド、オマエニトウ」
「…っ!」
風が止むと、そこにいた筈の人間の彼ではなく初めて見た”あの化け物“がいた
「オマエハ、ワレノシンノスガタヲミテモ…オソロシクハナイカ」
「────いいえ。たとえ貴方が私を殺そうとしても、私は貴方を恐ろしいとは思わないわ」
少女は真っ直ぐな瞳で彼を見つめて言う
その答えに彼は驚いて目を見開いた
初めて会った少女は、恐ろしくはないかと聞いた時に恐ろしいと言って、けれど怖くはないと答えたのだ
あの時は薄暗く、少女は彼をハッキリとは見えていなかったのだが今はハッキリと見えている
その差からだとしても、人間でない彼に対して殺されようとしても恐れないと言う少女に、彼は不適な笑みを浮かべた
(…やはり、この少女は他とは違うようだ…)
少しずつ、彼が少女に興味を持ち知りたいと思いはじめている証拠である
そして少女自身も興味を持ち初めている
あの時はハッキリとは見えなかったが、彼の本来の姿を間近でハッキリと改めてみるとその姿は獣のような漆黒の毛で被われていて、鋭く尖った爪と牙がチラついて見えた
二メートル程ある身長と、闇に溶け込む暗い紫色の瞳が少女を真っ直ぐに見つめる
「ユクゾ」
「っえ?行くってどこに……きゃっ!」
少女が聞こうとすると、遮るように彼は少女の首の襟を口に加えて己の背中に乗せた
「…オチルナヨ」
「っ!」
彼はそれだけを言って走り出した
少女は言われた通りにしっかりと彼にしがみつく
すると、四本足で走っている筈の彼の足元が浮き始めて森の上にまで飛んでいるではないか
翼は無い筈の彼に、少女はただ驚く事しかできずひたすらにしがみつくしかなかった
「…ツイタゾ」
ものの数分で目的地にたどり着いて、彼は地面に降りる
少女が背中から降りるのを確認するとまた人間の姿に戻る彼
先程まで苦戦していた目的地に直ぐに着いた事を少女は驚きながらも周りを見渡した
しがみつく事で頭が一杯だった少女はどんな場所にいるのか分からないでいた為、地に足をつけると目を見開いてその光景を見つめる
「……綺麗…」
少女は驚くばかりだった
真上にある満月が野原一面に咲く花を引き立てるように輝いている
時々風が靡いては花びらが舞い、その美しさを引き立てているようでとても神秘的な場所だ
「……連れてきた甲斐があったな」
「っえ?」
「今、初めてお前のキラキラした顔が見れた」
満足げに彼は少女を見つめると、少女の前を通り背中越しに話はじめた
「…これは、百年に一度しか見られない幻の花だ」
「幻の花…」
「ああ。百年に一度、一回限りのめったに見られない花で名前はない」
黒に包まれた彼の服に満月に明るく照らされ、彼自身も輝いているように見える少女はその言葉に己の事を重ねてしまう
「まるで、私のようですね。名前がないなんて」
「………………」
「……私、産まれた時から名前がないんです。最初は…それが当たり前だと思っていたけれど、後々それが意味する理由を知って…納得したんですよね」
彼の後ろで儚く話す少女は、それでも花に目を奪われていた
「────なら」
「えっ?」
「名前がないのなら、付けてやればいい」
彼が振り向くと同時に風が吹いてまた花びらが舞う
その姿に少女はまた思うのであった
(……綺麗…)
「お前の名も、いつか我が付けてやる。そうすれば、お前はもう”名も無き少女“ではなくなる」
この一言は、少女の胸にこの場所と共に刻まれていくのであった
そして、少女ははじめて心が何かに満たされる思いをした
彼の揺るぎない瞳に嘘はないと、少女は思いながら今この瞬間を一生忘れんとばかりに目に焼き付ける
いつか、そのいつかが早く来ればいいと密かに思いながら頷いた