09.毒牙(2)
「そんな飲み方したら、からだ壊してしまう!」
直美は無理やりショット・グラスを取り上げた。
すでに足元がふらついた状態で店に現れた純一は、たて続けに何杯も
ウィスキーのストレートを呷った。昔からあまり酒の強くない幼馴染の
こんな姿を目にするのは、これが二度目だった。
「いったい、どないしたん? 奥さんとなんかあったん?
純ちゃんがこんなになるまで飲むなんて、よっぽどのことがあったんやね…」
カウンターの上にうつ伏してしまった純一の背中をやさしく擦った。
「直美ちゃん、今夜はもう上がっていいからさ。その同級生どうする?」
「すいませんママ、あたしのアパートに連れて帰ります」
「こっちの方は大丈夫なのかい?」
マリエは親指を挙げて見せた。
「ここんとこ、またずっと帰って来ないから…」
直美は伏し目がちに言った。
「アンタも男運はさっぱりのようだねえ。惚れた男にゃ恋女房がいる、か…」
昔の自分を思い出したようにマリエは天井に向かって煙草の煙をふーと
大きく吐いた。
「いらっしゃい、今夜は遅いじゃん。さては、どっかに寄り道するイイ場所
でもできたかな?」
「だと言いんだけど、当直でさっきまで、し・ご・と」
「それは、それはお疲れさまでした」
マリエはおもむろに熱いおしぼりを差し出した。
「直美ちゃん今夜はオフ?」
「もう帰らせた。同級生が訪ねて来たのはいいんだけど、ベロンベロンの
泥酔状態でさ… ケン、もしかしたら知ってるんじゃないか、あの子の昔の
イイ男みたいだったよ」
「知り合いつっても、彼女とは昔ちょっこと会っただけだからな…」
直美のことはリズが開いてくれた快気祝いの席で一度会ったおぼろげな記憶が
あるだけだった。
「おや、一人かい?」
ジョージの女、明美がふらっと店に入って来た。
健介に気づくと媚を売るような笑みを浮かべ隣の席に腰を下ろした。
「ああ、ジョージのヤツは今、お楽しみの真っ最中さ」
「それで、アンタ平気なのかい?」
「まあ、相手は一応、本妻だからね。それにアイツのセックスの相手は、マジ、
うんざりだよ。ママたち、ジョージの古いダチなんだろ? アイツ昔から
ああなの? あれじゃ、異常なサディストもいいとこだよ」
健介とマリエの顔を見ながら身震いするような恰好をした。
「本妻って、不倫して男と逃げたとかいう女房と、またより戻したのかい?」
「それが不思議なんだよね。自分の方から帰って来たのさ。また痛めつけられる
のわかっていながら… 金かな? それとも、あんな虫も殺さないような上品な
顔して、マゾっ気が合ったりして…」
明美は卑猥な笑みを浮かべた。
「マリエ、直美ちゃんの同級生の名前、わかるか?」
女たちの会話を黙って聞いていた健介が突然口を挟んだ。
「どうしたのさケン、藪から棒に? ええっと、たしか… ジュンちゃんとか、
呼んでたような…」
「仁科純一… 」
健介はそう呟くと目を瞑った。
点と線が繋がり、頭の中で明確な一つのスト-リーが出来上がった。
愛し合う二人、仁科純一と芹澤莉江が鬼畜のような男、藤森譲司の卑劣な手口に
よって引き裂かれようとしている。藤森は純一のようなナイーブな青年に敵う
ような相手ではない。巧妙に法の網を潜り抜け、いざとなったら野獣の牙を剥き
出しにして狙った獲物は決して逃がさない。おそらく健介でさえ、まともな手段
で莉江を救い出すことは不可能だろう。こうなったら、一か八かの賭けに出る
しかない・・・
「俺が話があるとジョージに伝えてくれ。明日の晩ここで待ってる」
隣の明美にそう言うと残りの酒を一気に呷り店を出た。
* * * * * * *
カーテンの隙間差し込む眩しい光で目が醒めた。
起き上がろうとすると後頭部の辺りに鈍器で殴打されたような激痛が走った。
純一は再び目を閉じた。
(莉江…)
藤森との取引を阻止するため莉江は自ら猛獣の檻の中に身を投じた。
あの日、待ち合わせの場所、有賀健介の勤務する病院のカフェテリアに莉江の
姿はなく、藤森の代理人だと名乗る男が現れた。男は二通の誓約書を純一に
手渡した。一通は今後一切、藤森が画商として純一と関わりを持たない事を宣誓、
署名捺印されていた。もう一通は、莉江が純一との別れを誓ったもので彼女の
署名と拇印が押されていた。
純一はその場で藤森の携帯に電話を入れ莉江との面会を強く求めた。
だが、電話口の藤森は純一の言葉を一笑に付した。
「莉江は自分の意思で俺のところに戻って来た。おまえに二度と会うつもりは
ないと言っている。俺が無理に言わせてるわけでも書かせてるわけでもない。
嘘だと思うなら、今からおまえの携帯にメールを入れさせる。惚れた女からの
最後の 〝愛のメッセージ” だと思って大事に取っとくんだな」
電話の向こうから勝ち誇ったような高らかな笑い声が響いた。
『純、許して。こうするよりしかたがなかったの。
あなたを愛しているから・・・ 莉江』
短いメールの文面から莉江が純一の将来を案じ、覚悟を決めて藤森のところへ
戻ったことが覗える。純一は直ぐに返信した。が、すでに携帯の電源は切られ
ていた。ボストン市内のホテルに片っ端から電話をしたが、偽名で宿泊して
いるのか、所在を突き止めることはできなかった。自分の意思で夫のもとに
戻った以上、誘拐・監禁罪で警察に訴えることもできない。
八方塞がりの状態に追い込まれた純一は、なす術もなく飲めない酒に救いを
求めた。
「純ちゃん、どう気分は?」
気がつくと直美が心配そうに顔を覗きこんでいた。
「直美… ここは?」
「あたしのアパートや」
「俺、泊まったんか?」
ベッドの上で寝ていることに気づき純一は辺りを見回した。
「心配せんでも、彼、仕事で当分留守やから。これ、飲んどいたほうが
ええよ」
直美は二日酔いの薬とコッブの水を手渡した。
「あんなになるまで飲むなんて、むちゃくちゃやわ」
「迷惑かけて、悪かった」
純一は神妙な顔をして誤った。
「りえさん、言うんやね…」
「……」
「奥さんの名前。りえ、りえって、うわ言のように呼んでたよ。
いったい何があったん? ただの夫婦喧嘩やないみたいやね…」
ついこの間再会した純一の顔は幸せに満ちていた。直美は憔悴しきった
〝初恋の人” の姿に只ならぬものを感じ取った。
「またいつものお節介、世話焼きやって言うかもしれへんけど…
話してしもたら、気持ちがスーと楽になることもあるよ」
「うむ……」
いたわるよに純一の肩にそっと手を置く直美にこれまでのことをぽつり
ぽつりと話し始めた。
「純ちゃん、ちょっと待って!」
直美は突然、話を遮った。
「その藤森いう男、もしかしたらうちの店に来るジョージて呼ばれてる
嫌な客かもしれへんわ……」
幼馴染の言葉の中に一条の光を見る思いがした。
まんじりともせず夜になるのを待った純一は、藤森が現れることを
祈るような気持ちでマリエの店へ向かった。