08.毒牙(1)
すっかり冬支度を整えたケープ・コッドの色のない景色が窓の外に広がる。
灰色の空からは時おり白い小雪が舞い降りている。ベイ・ウィンドーにもたれ
莉江は虚ろな眼差しでそんな寒々とした外の様子を見ていた。
(あの男は、私からすべてのものを奪っていく…)
あの日、純一の留守を見計らうように藤森は突然アトリエに押し入って来た。
狙いは、壁に掛けてあった冬梧の初期の作品『愛娘の肖像』だった。
莉江の誕生から二十歳までの成長を描いた三部作で、一部と二部はすでに
藤森の手に渡っている。必死で懇願する莉江の身体を突き飛ばし唯一手元に
残った父の絵を無理やり奪い取って行った。
藤森が現れて以来、キャンバスに向かう純一は深い溜息をつき、ぼんやりと
窓の外を眺めていることが多い。今月末の個展に出品するはずの絵は未完成の
まま部屋の隅に置かれている。心を惑わされ絵筆を動かせない彼の苦悩が
莉江に痛いほど伝わって来る。
藤森は画商などとは名ばかりで絵を愛する心など微塵もなく、ただ金儲けの
手段として絵画を安く買い漁り高く売りつける悪徳ブローカーに過ぎない。
そんな男の手に純一の作品が渡ると思うと胸が張り裂けそうになる。
莉江のために彼は自らが毒牙の餌食になるような取引に応じようとしている。
そんなことになれば藤森は一生、純一に纏わりつき彼の画家としての生命は
奪われてしまう。それだけはどんなことをしてでも阻止しなければ・・・
愛する人を守るため莉江は苦渋の選択を迫られていた。
「莉江…」
純一は背後から莉江の肩に手を置いた。
「来月の個展、延期することにしたよ」
(……)
「オーナーにはもう了承を得ている。今週中に会場をキャンセルしにボストン
へ行こうと思うんだ」
純一がボストンへ行く目的はもう一つあった。それは、藤森との交渉である。
莉江を守るためならどんな理不尽な要求も受け入れる覚悟はとっくにできて
いた。ただ、自分の才能を見出し、これまで物心両面で支援してくれたポール・
ビショップに対し恩を仇で返すような真似だけはしたくなかった。
ポールは金のために一人の画家を縛り付けるような画商ではない。それだけに
こんどの個展だけは藤森には一切関与させないつもりでいる。そして、藤森が
持ち去った、あの『愛娘の肖像』を取り戻し莉江のもとに返してやりたい。
藤森がこの二つの条件を呑めば、純一はその場で契約書にサインするつもりで
いる。
(純、私も一緒に行っていい?)
「ああ… けど、キャンセルの手続きやなんかで時間もかかるし……」
純一は言葉を濁した。藤森との交渉の席に莉江を連れて行くわけにはいかない。
(大丈夫、あなたの邪魔はしないわ。その間、私は有賀先生に会いに行って
くる。あの時のお礼もちゃんとしたいし…)
「そうだな、すっかり世話になったもんな」
あの日、純一が病室に駆け付けた時、彼の姿はすでになかった。
莉江を発見し病院まで運んでくれたのが有賀健介だったと知ったのは後日に
なってからだった。救急車で搬送中にERと連絡を取り産科医を要請した彼の
的確な判断がなければ、莉江は危険な状態だったとナースから聞かされた。
あの病院は奇しくも四年前、純一が肺炎になりかけためぐみを運んだ同じ
クリニックだった。
「じゃあ、一緒に行って晩飯は久しぶりに旨いフレンチでも食べようか?」
(うん!)
莉江は嬉しそうに頷いた。
流産のショックから心身ともに疲れ切っていた彼女が見せる久しぶりの明るい
笑顔だった。
* * * * * * *
「ドクター・アリーガ!」
午前中の外来を終えオフィスに戻る途中、受付の職員に呼び止められた。
「これを先生に渡してほしいって、若くて綺麗な女性が来られましたよ」
悪戯っぽくウィンクすると事務員は封筒と紙袋を健介に手渡した。
「へぇ~ 俺もまだまだ捨てたものじゃないね」
「ええ、若い職員やナースの人気投票じゃ、いつも上位ナンバー5に入って
ますよ!」
「わぉ、それは光栄ですね」
事務員と軽口をたたきながら健介は封筒を開け中のカードを取り出した。
『有賀先生、
先日は大変お世話になりました。
ノーラだけじゃなく、今度は私まで先生に助けられるなんて・・・
不思議なめぐり合わせに少し驚いています。
お蔭さまですっかり元気になりました。本当にありがとうごさいました。
今朝、焼いたクロワッサンです。お口に合うかどうかわかりませんが、
召し上がってみてください。
莉江 』
「彼女、いつ来たの?」
「もう、かれこれ一時間くらいになるかしら」
事務員は腕時計を見ながら言った。
「そう…」
オフィスに戻り紙袋の中身を取り出した。
ほのかな温もりの残るクロワッサンを頬張ると、香ばしいバターの風味が
口の中いっぱいに広がる。もう一度カードを開け綺麗な文字で綴られた
文書を読み返した。莉江に会えなかったことにひどく落胆している自分を
感じた。それを打ち消すように健介は慌てて首を左右に振った。