61.夏、それぞれの決別(3)
(ノーラ、大きくなったでしょうね。私たちのことちゃんと覚えてるかしら?)
「……」
(ケン!)
「え? ああ、そうだな…」
(どうかしたの? さっきからずっと難しい顔して…)
帰国の日程が決まり心弾ませる莉江とは対照的に健介は何か思いつめたような
表情を浮かべている。
「実はね、直哉君の検査結果が出たんだ。やっぱり悪性リンパ腫だった。
幸い、まだステージ1で他のリンパ節への転移は見られないけど…」
法要の席での直哉の様子から健介は嫌な予感がした。
懸念通り血液検査の腫瘍マーカーが陽性を示し精密検査の結果、悪性リンパ腫
の診断が確定した。
(じゃあ、命に別状はないのね?)
「うむ、でも抗癌剤と放射線で今のうちに徹底的に治療しておく必要がある」
(そのこと、美奈子さんには?)
「いや、まだ。明日にでも逗子へ行って直接伝えようと思ってる」
健介は宙を仰ぎ大きく息を吐いた。
父親を癌で見送ったばかりの美奈子にはあまりにも酷な現実である。
「二か月くらいの入院治療になると思う。それで… 実は、君に相談が、」
(いやよ!)
健介の心中を見透かした莉江は大きく頭を左右に振った。
(もうこれ以上はいや! 日本にだって優秀な専門医はたくさんいるでしょ?
ケン、あなたはもう十分恩返しをしたはずよ)
健介は視線を落とした。
「分かってる、それは分かってるけど… 父親を亡くしたばかりなのに今度は
直哉君まで…」
(だから、またずっとそばにいてあげるの? 私たちの生活を犠牲にしてまで
そんなに、そんなに美奈子さんのことが大切なの?)
「え?」
(私、知ってるのよ、彼女とあなたが昔、恋人同士だったってこと!)
健介の顔を睨みつけるように見た。
「ち、ちょっと待てよ、いったい誰がそんな馬鹿げたことを!?」
(ずっと黙っていたけど、先生が亡くなった日、藤森がここに来たの…)
「藤森が? ヤツが何を言ったか知らないけど、まさか君はあんな男の言う
ことを本気で信じるのか?」
(私だって信じたくはないわ。でも、あなたは嘘をついた。送別会だなんて、
あの夜ほんとうは、美奈子さんの誕生日を祝ってあげてたんでしょ?)
「……」
(それだけじゃない… 私、見たの。あなたと美奈子さんが霊安室の前で…)
胸の奥に仕舞い込んでいたものが涙とともに一気に溢れ出た。
「誤解だよ! あれは、ただ、その場の成り行きで… 誕生日のことは、
先生に頼まれてどうしても断れなかった。君に嘘をついたことは本当に
悪かったと思ってる。けど、美奈子さんとは昔も今もなにもない。
それだけは信じて欲しい」
言っていることは真実だが莉江に嘘をついたことに変わりはない。
二人の間に重苦しい空気が流れた。
健介は頭の中であの日のことを時系列に整理した。
突然現れた藤森からあることないこと吹き込まれていた莉江は、霊安室の
外で目撃した光景にショックを受けた。そして偶々、捻挫したところを
木戸に助けれ葉山の家に行った。
莉江は彼の家に泊まった理由を、『後ろから走って来た自転車に気づかず
怪我をしたことで自分が無力な障害者であることを、嫌と言うほど思い
知らされた。どうしようもなく悲しくて惨めで、あのまま誰もいない
マンションに帰り一人になるのが怖くて心細かった』と釈明した。
人妻が、例え親戚とは言え男と二人きりで一夜を過ごした言い訳としては
釈然としないものがあった。が、これで彼女の不可解な行動が納得できる。
「確かに莉江の言う通りだ、日本にも血液内科の専門医はたくさんいる。
ずっと俺の我儘に付き合わせて君には我慢ばかりさせてしまった。ごめん、
本当に済まなかった。もう絶対、嫌な思いや寂しい思いはさせないから。
そうだな、ノーラが俺たちのこと忘れないうちに戻ってやらなきゃな」
莉江の気持ちに気づいてやれなかったことを健介は心底後悔した。
美奈子との仲をきっぱり否定はしたが、遠い昔、彼女に密かに想いを寄せて
いたことは事実である。滝川への恩返しのためにと、莉江との入籍まで
延期した帰国ではあったが、恩師に対する思いとは別に潜在意識の中に
初恋の人の存在があったのかもしれない・・・
女神のような優しい微笑を湛えるセーラー服姿の美奈子の顔が、ふと脳裏を
過ぎった。
* * * * * * *
「なぜ!? どうして直哉までが…」
最愛の息子を襲った突然の病に美奈子は絶句し唇を噛みしめた。
悪性リンパ腫という予想もしなかった恐ろしい病名に全身がわなわなと震える。
まだ初期の段階で必ず治ると言う健介の力強い言葉も美奈子の耳には届かず、
頭の中が真っ白になった。
「もし、もしもあの子に万一のことがあったら、私……」
癌に蝕まれて逝った父親の姿と元気な直哉の笑顔が重なり合い、涙が止めどなく
溢れ出る。
「美奈子さん、酷なようだけど今は泣いている暇はないんだ。
直哉君が辛い治療に耐えるためにも、あなたがしっかりしないと。今週中に
入院し来週早々から放射線と化学療法をはじめることにしたから」
学会で面識のある血液内科の専門医とすでに治療方針を検討し入院の手筈を
整えていた。一刻も早く治療を開始し、帰国前の少しの間だけでも経過を
見守りたいという思いがあった。
「分かってはいるの、母親の私がめそめそしてちゃダメってことは。
一番辛い思いをするのは直哉ですものね… でも、もし父のように…
怖いの、怖くて怖くてどうにかなってしまいそう…」
美奈子は悲痛な声をあげ大きくうな垂れた。
「大丈夫、直哉君の場合はまだごく初期のステージだし、この病気に対する
日本の医療水準の高さは世界でも有数だから、絶対に治る!
すぐに元気な腕白坊主に戻って、また二人で楽しい親子喧嘩ができるように
なるよ。残念ながら今度はずっとそばにいることはできないけど、主治医と
連絡を取り合ってできる限りの力にはなるから、また一緒にがんばろう」
小刻みに震える美奈子の肩に手を遣り健介は穏やかな口調で諭すように言った。
顔を上げると目の前に優しさを湛える鳶色の綺麗な瞳があった。
はじめて『ホーム』で出逢った頃のどこか線の細い美少年、心をときめかせた
初恋の人は、すっかり頼もしい大人の男に変貌している。
(そばにいて、どこへも行かないで、ずっと私のそばにいて!)
思わず叫びそうになる衝動を抑え、美奈子は小さく頷いた。
「じゃ、入院の日時が決まったらすぐに連絡するから」
「待って、健介さん」
立ち上がろうとする健介を制するように肩に置かれた彼の手を握りしめた。
「帰らないで。ここに居て、今日だけでいいの、お願い…
私、ずっと… ずっとあなたのことが好きだった。分かってる、迷惑だって
ことは分かってるの。あなたには私なんかとちがって、あんなに若くて
綺麗な奥さんがいるんですもの、でも……」
堪え切れないように胸の奥にしまっていた自分の想いを一気に吐き出した。
「……」
美奈子の突然の告白に健介の顔に困惑の表情が浮かぶ。
「いやだわ、私ったら、いったい何を言ってるのかしら… どうかしてるわね。
ごめんなさい、変なこと言って。忘れて、ぜんぶ忘れて下さい…」
口にしてしまったことを後悔するようにしどろもどろになった。
そんな美奈子を健介はそっと抱き寄せた。
驚きと恥じらいで全身がかーと熱くなる。
「あなたはとても魅力的な女性だよ…」
火照った耳元に優しい声が囁く。
「知ってた? 『ホーム』の男子たちがあなたのことを 〝マドンナ” って
呼んで憧れていたのを。実は、俺もその中の一人だった。あれから、もう
何年になるかな… 確かに、今の俺には守ってやりたい愛しい妻がいる。
けど今でも、いや、これから先もずっと、あなたは俺にとってあの頃のままの
優しくて聡明で美しい、永遠のマドンナだよ」
(ありがとう…)
健介の優しさと想いやり溢れる言葉がたまらなく嬉しかった。
初恋の人のぬくもりの中でこのまま時間が止まって欲しいと美奈子は何度も
思った。
* * * * * * *
日本から帰国して一年が過ぎた。
夏の喧騒が去りケープ・コッドはまた鮮やかな紅色に染まる季節を迎えた。
静かな朝の海辺を寄り添いながら歩く二人の表情は目映いくらいに輝いている。
「どうかした?」
急に立ち止まった莉江の顔を訝しげに覗きこんだ。
(今ね、動いたみたい…)
「ほんとに?」
膨らみはじめた妻の腹部にそっと手をあてがった。
「ほんとだ、元気に動いてる!」
健介の口元が思わず綻ぶ。
「この分だと、相当お転婆な女の子のだな」
(パパそっくりの、腕白坊主かもしれないわよ)
くすっと笑うと夫の大きな手に自分の掌を重ねた。
莉江の中に芽生えた小さな命が力強い胎動を開始した。
このケープの海で出逢ってから四年、それぞれに愛する人を失った
悲しみと苦しみを乗り越え確かな愛を育んできた。
そんな二人に来春やっと待望の弟一子が誕生する。
「ほんとに、どっちか知りたくないの?」
莉江は超音波画像診断による性別判定をあえて望まなかった。
(ええ… 男の子でも女の子でも、障害があってもなくても、暖かく
迎えてあげたいから)
穏やかな微笑を湛える顔はすでに母になる自信と悦びに溢れている。
「そうだな…」
健介は大きく頷くと莉江の手をしっかりと握りしめた。
「そろそろ戻るとするか… ノーラ、行くぞ!」
水際で戯れる愛犬に声をかけた。
二人の出逢いのきっかけを作った子犬のノーラはすっかり逞しい成犬に
成長し、白い尻尾を風に靡かせ二人のもとに駆け寄って来た。
(じゃ、先に行ってるね)
莉江はノーラを連れ駐車場へと向かった。
一人浜辺に残った健介は水平線に向かって静かに目を閉じた。
この季節になると毎年欠かさずここに来る。
この海を愛しこの海に眠るめぐみに逢うために・・・
長い黙祷を終え目を開けると、朝日に照らされた穏やかな秋の海原は
きらきらと黄金色に煌めいていた。
ー了ー
Samsara~愛の輪廻~Ⅵ(最終章)につづく・・・




