06.黒い策略(2)
「くそっ! どこまで、卑劣な男なんだ!」
純一ははらわたが煮えくり返るような激しい怒りを覚えた。
(純、どうすればいいの?)
「大丈夫、パリへ戻ってヤツとはっきり話をつけて来る」
純一はきっぱりと言った。が、その必要はなかった。
数日後、藤森のほうから二人の前に姿を現した。
「いったい、どういうつもりなんだ?!」
純一は声を荒げて藤森に詰め寄った。
「その様子じゃ、もう事情は解ってるようですね」
藤森はわざと慇懃な物言いをする。
「それじゃ、話は早い。莉江、もうこんなオママゴトのような暮らしは
お仕舞にして俺と一緒にパリへ戻るんだ」
「やめろ! 彼女には指一本、触れさせない!」
莉江の腕を掴もうとする藤森を制し彼女を抱き寄せた。
「そんな大きな口を利いてもいいですか、仁科画伯?
こっちは別に法に触れるようなことをしたわけじゃない。不倫男と駆け
落ちした妻に対して夫として当然の権利を行使したまででね。他人の妻を
寝取ったそちらさんの方がよっぽど非道じゃないんですか。世が世なら
姦通罪で刑務所行きですよ」
藤森は不敵な笑みを浮かべ平然と言ってのけた。
(すべての遺産を放棄したのよ。渡すものはもう何も残っていないわ。
私はとっくに用済みで、あなたにとって何の価値もないはずよ)
莉江は必死で訴えた。
藤森は冬梧に取り入るため手話をマスターしている。
「それがそうでもないんだな… パリでは芹澤冬梧のネームバリューは
まだまだ大したもんだ。商売上、藤森譲司より芹澤譲司のままのほうが
ずっと仕事がし易い。それに、みんなに聞かれるんだ、綺麗な奥さんの
姿を最近見かけないがどうしてる、ってな。芹澤画伯の愛娘、美しい
〝聾唖の妻” の存在は俺の商売にとって不可欠なんだよ」
莉江は怯えるように純一の胸に顔を埋めた。
「愛し合う男女の姿はいつ見ても美しいねぇ… 」
薄笑いを浮かべ、おもむろに煙草を銜え火をつけた。
「俺は極悪非道な人間じゃないんで、愛する男女を引き離し嫌がる女を
無理やり連れだすような手荒な真似はしたくない。そっちさえその気なら
取引にはいつでも応じますよ」
天井に向けて大きく煙を吐いた。
「取引の条件を聞こうじゃないか」
純一は努めて冷静を装ったが声が上擦っている。
「新進気鋭の画家、仁科純一はこれからどんどん商品価値が高くなると、
画商として見込んでいるんでね。ぜひ、これからの作品を一手に引き受け
たい。まずは手始めに、来月の個展の出品作をすべて任せてもらえません
かね? ポール・ビショップよりよっぽど高値で売り捌いてみせますよ」
「……」
「それじゃ、いい返事を期待してますよ、仁科画伯」
連絡先を書いた名刺をテーブルの上に置き藤森はアトリエを出て行った。
(純、ダメよ、絶対にダメよ!)
莉江は激しく首を振った。
(あの男はあなたの才能を食い物にして一生纏わりつくつもりよ。
そんなこと絶対ダメだから… ゴメンね、純。私なんかと関わり合いに
なったばっかりに、こんなことになって…)
莉江は泣き崩れた。
「何があっても俺は絶対、莉江を離さない。あんなヤツに大事な君を
渡してたまるもんか!」
例えどんな犠牲を払っても、あの男から莉江とお腹の子はこの手で守って
見せる。純一は心の中で自分に誓った。
* * * * * * *
臨床医の道を選んだ健介は再びボストンに戻って来た。
感謝際の週末を『リズの家』で過ごすためケープを訪れていた彼はその
帰途、海辺の駐車場に車を停めた。
穏やかな秋の海はすっかり姿を消し海岸に打ち寄せる白い波しぶきは、
すでに冬の海の厳しい表情を覗かせている。
淡い期待を胸に砂浜へ下りた。が、辺りに人影はなく鈴の音も聞こえて
こない。あの日ここで彼女に再会しなければ、あのままずっと狭い
研究室の中で喪に服すような生活を自らに強い続けていたかもしれない。
物言えぬ莉江と過ごした僅かな時間が、健介の固く閉ざした心の殻を
破り迷いを吹っ切ってくれた。
彼女はもしかしたら、めぐみがよこした使者だったのかもしれない・・・
健介はふと、そんな思いを抱いた。
(ずいぶん乱暴な運転だな…)
駐車場から通りに出ようとすると健介の車の前を黒塗りのポルシェが
猛スピードで走り去った。その後を追うように白い子犬が坂道を下りて
来た。犬は道路脇で止まりキャンキャンと吠え立てている。
「どうした、ノーラ?」
駐車場に車を停め直し道路を渡って子犬を抱き上げた。
興奮状態でキャンキャンと泣き続けるノーラは健介の腕をすり抜けて
坂道を駆け上がり出した。彼が後に続いているのを確認するように
少し進んでは後ろを振り返りまた前に進む。それを何度も繰り返し健介を
高台の家の前まで導いた。
家の中に入ると莉江が床に倒れていた。
躰を捩るように苦しんでいる。イーゼルが倒され絵具やパレットなどの
画材が床の上に散乱している。
「しっかりするんだ!」
健介に抱き上げられた莉江は彼の手首を掴むと自分の腹部に押し当てた。
そして、(あ、か、ちゃ、ん…)と懸命に唇を動かした。