54.葉山の家(2)
「へぇー そんなことがあったの… じゃあ、あの家には昔の恋人との忘れよう
としても忘れられない想い出が、ぎっしり詰まっているんでしょうねえ」
「うん、そうみたい。きっと崇之さまにとっては誰にも入って欲しくない神聖な
場所なんだわ。なんせ大奥さまはもちろん、運転手の磯部さんでさえ葉山には
一度も車をまわしたことがないらしいから」
「悲しくも美しいラブストーリーだわねぇ… なーんか、超ロマンチックっー!」
時子はすっかり夢見る乙女の表情になっている。
「分かっていれば、外からだけでも見物に行くんだったわ」
「はあ?」
「その 〝愛の隠れ家” へよ。実はね、金曜に湘南まで行ったのよ。
春休みにどこへも連れて行かなかったでしょ、子供にせがまれてドライブした
帰りにマリーナ近くのレストランで夕飯食べたの」
「オーシャン・ビューのレストランで食事なんて、うらやましいー!」
「そんないいもんじゃないわよ。ファミレスに毛の生えたような、と・こ・ろ」
時子の言い方が可笑しくって莉江は思わずくすっと笑った。
「あっ、そうだ。そのレストランでさ、超イケメンのハーフの男の人見たの。
どっかで見たことあるような気がしたんだけど、私に外人の知り合いなんて
いないし、よく考えたら、この前見せてもらった莉江さんのダンナさんの
写真とその人、凄く似てたのよ」
以前、時子にせがまれて財布の中の健介の写真を見せたことがあった。
(人違いだと思う。金曜は町田の居酒屋で送別会があった夜だから…)
「そう、でも良く似てたけどなあ…」
「時子さんの目にはイケメンは皆同じように映るんじゃないの?」
芳美はからかうように笑った。
「イケメンって、まさか僕のことだったりする?」
帰宅した崇之はいつの間にかキッチンに入って来た。
「あっ、お帰りなさいませ」
「すみません、気が付かなくて…」
「大丈夫、そのまま座ってて。今日は母も美希もいないことだし、ここで
ゆっくり井戸端会議を続けているといいよ」
慌てて立ち上がろうとする二人を制し笑顔で言葉をかけた。
「やあ、いらっしゃい」
(お邪魔しています)
崇之は莉江に向かって軽く手を挙げた。
「実はね、例のものここにはないんだ」
(……)
「パリから戻ってからずっと葉山にいたんで、あっちの家に置いたままなんだ。
今朝オフィスについてから気が付いてね。時差ボケかな、それとも、僕ももう
年かな?」
苦笑しながら腕時計に目を遣った。
「今ならまだ混んでないから、ドライブがてら葉山に行ってそのまま相模原
まで送るよ。いいかな?」
(えっ? ええ…)
今しがたまで散々話題に上った『葉山の家』が崇之の口をついて出たことに、
莉江は一瞬たじろいだ。
* * * * * * *
高台に聳える一軒家の前でBMWは停車した。
眼下に湘南の青い海が広がる。白い外壁のこじんまりとした家は、愛する人と
人目を忍んで暮らす 〝隠れ家” の名に相応しい佇まいである。
「中、散らかってるからここで待ってて。すぐ戻るから」
エンジンをかけたまま崇之は車外に飛び出して行った。
玄関の向こうに消えて行く後姿を見ながら、時子たちの会話を思い出した。
彼にとってここはやはり誰も立ち入ることを許さない神聖な領域なのかも
しれない、と思った。
親の猛反対を押し切り木戸の家を捨ててまで一緒になろうとした相手、
愛する男のために自ら身を引き姿を消した恋人とは、いったい
どんな女性だったのだろう・・・
「お待たせ!」
助手席に駆け寄って来た崇之は手に持った紙袋を莉江の前に大きく掲げた。
口元から白い綺麗な歯が零れる。その姿がふと、あの夏の日の純一の眩しい
笑顔と重なり合った。




