52.揺れる心(2)
「ごめんなさいね、健介さん。父のお喋りのせいで、急にこんなことになって
しまって…」
済まなそうに言いながら美奈子はグラスについた口紅をそっと指で拭き取った。
その表情には言葉とは裏腹に嬉しさが滲み出ている。
帰り際になって今日が美奈子の誕生日であることを知った。
祖父の入院が春休みと重なってため、直哉はずっと父親の実家に預けられて
いる。誰にも祝ってもらえないことを不憫に思った滝川は、食事に連れ出して
くれないかと健介に頼んだ。
「いえ、もっと早くにわかっていれば、もうちょっと気の利いたところに
行けたのですが…」
「とんでもないわ。それでなくても私、莉江さんに申し訳なくて。
せっかくの旅行をキャンセルさせてしまったばかりか、こう毎日のように
旦那様の帰宅時間が遅いんじゃ…」
「大丈夫ですよ。彼女、宵っ張りだから朝早いのはダメだけど、夜遅いのは全然
平気だから」
笑顔で応じながらも心の内は複雑だった。
もう何日も妻の躰に触れていない。通常勤務を終えた後、満員電車に揺られての
相模原、逗子間の往復は正直きつい。疲労が蓄積しているのだろう、ベッドに
入ると精根尽き果てたように眠ってしまう。莉江に淋しい想いをさせていること
は十分わかってはいるが、心に身体がついていけない状態が続いている。
「でも、週末の夜なのに悪いわ。ほんとは何か予定があったんじゃないの?」
「そんなこと気にしないで。さあ、せっかくの誕生日なんだから…」
健介は静かに首を振ると美奈子のグラスにワインを注いだ。
予定はないが、夕べのこともあり今夜は早めに帰宅するつもりでいた。
今朝出がけにそう伝えると、久しぶりに何か美味しいもの作るねと、莉江は
嬉しそうな笑顔を浮かべた。彼女には済まない気持でいっぱいだが、混濁する
意識の中で娘のことを想う父親の心情を考えると、どうしても断ることは
できなかった。滝川の容態はすでにカウントダウンがはじまっている。
もしかしたら、これが恩師からの最後の頼まれごとになるかもしれないと
思った。が、さすがに莉江には本当のことは言えなかった。
葉山のレストランからタクシーで美奈子を家まで送り、マンションに着くと
十一時を廻っていた。
莉江は風呂に入っているようでバスルームから水の流れる音がする。
(ブイヤベースだったのか…)
レンジの上のシチュー鍋の蓋を開け健介は大きな溜息をついた。
冷蔵庫にはシャブリのボトルが冷やされている。
夫の早い帰宅に合わせ、いそいそと夕食の支度をする妻の姿が目に浮かび
なんとも言えない罪悪感に苛まれた。
(あ、帰ってたの?)
「うむ、ついさっき。莉江、今夜は本当に悪かった。ほんと、ゴメン!」
(ほんと、ひどい! 新鮮な魚介類を求めて築地まで行ったのよ!)
莉江は唇を尖らせ何度も手をすり合わせる健介の顔を睨みつけた。
「マジで、築地まで行ったの?」
(うーそ! スーパーの特売品でーす! 仕方ないわよね。仕事がらみの
お付き合いじゃ… それに、鍋物は一日寝かせたほうが美味しくなるって、
言うじゃない。あっ、それってカレーのことだっけ?!)
夫の行動に何の疑いも持たず屈託のない笑顔を浮かべる。
美奈子とは食事をしただけでなにも疚しいことはない。なのに何故か
莉江の優しさが刃物のように心に突き刺さる。
(疲れてるんでしょ、早くシャワー浴びてくれば? 明日はお休みだから、
ゆっくり朝寝坊できるね。私は、ここでもう少し仕事してるから)
ダイニングテーブルの上のPCに向かい、洗い立ての髪を指で無造作に纏め
上げバレットで止めた。濡れた後れ毛が綺麗な首筋に纏わりつく。
「莉江…」
背後から妻の躰を羽交い絞めにし、白いうなじに唇を押しあてた。
不意をつかれ驚く莉江に有無を言わさぬように唇を奪い、抱き上げると
そのまま寝室のベッドに運んだ。身体は泥のように疲れているのに気持ちが
異様に高ぶる。バスローブを乱暴に剥ぎ取ると健介は貪るように妻の躰を
求めた。




