51.揺れる心(1)
小さな子供が父親に甘えるように健介の広い背中にそっと顔を埋めた。
湯上りの石鹸の匂いと体温の入り混じったぬくもりが頬に伝わり、なんとも
心地良い・・・
二人で行くはずだった熱海の温泉は、直前になって滝川の容体が急変したため
お流れになった。在宅治療が限界をむかえ、結局、当初予定していた湘南の
ホスピスに入院することになった。危篤状態は脱したものの意識が混濁する
時間が多くなり、いよいよ最期の時が近づいている。
健介はほとんど毎日のように病院勤務を終えると、その足でホスピスに向かう。
ここ数日は帰宅が遅く、食事もそこそこにシャワーを浴びると、即ベッドに
潜り込む生活が続いている。
「ごめん、疲れてるんだ」
済まなそうに莉江の額に口づけすると、くるりと背を向けまたすぐに寝息を
立てはじめた。
(ちがうの、そんなつもりじゃないの。ただ、あなたに触れていたいだけ…)
心の中で呟くと莉江は妙に虚しい気分になった。
すっかり目が冴えてしまい深夜を過ぎてもなかなか寝付けない。
よほど疲れているのだろう、傍の健介は大きな寝息を立て熟睡している。
莉江はそっとベッドを抜け出しダイニングのテーブルの上でPCを開いた。
仕事関連に混じって木戸崇之からのメールが届いていた。
莉江さん、
文江さんたちから聞いたよ。そっちは花見どころじゃなくて
大変だったみたいだね。
僕の方は、一昨日パリから帰国しました。久しぶりに昔住んでいた
19区のあたりをぶらついて、『カフェ・ラ・ヴィレット』で
君が話していた例のオリジナルクッキーをゲット! 相変わらず
凄い人気らしく、もうちょっとで買いそびれるところだった。
次の 〝料理教室” まで待っていたら賞味期限が切れてしまうので
できればその前に味わってもらえたらな、と思いメールしました。
もし都合がつくようなら、駅前のロータリーまで届けに行きます。
それとも、宅配便の方がいいかな?
じゃ、返信ヨロシク!
メールを読み終えた莉江の口元が思わず綻んだ。
崇之があのクッキーの話を覚えていてくれたことがひどく嬉しかった。
(最後に食べたの、いつだったかな…)
莉江は頭の奥の記憶を辿った。
それはパリを経つ前の、真夏の暑い日だった。
暫くは口にできないからと純一が早朝から店の前に並んで買って来てくれた。
日に数十個の限定品を大事そうに抱え、額に汗を滲ませ息を切らして戻って
来た。そして、まるで宝物でも見つけたように誇らしげに紙袋を莉江の前に
掲げてみせた。少年のような目の輝き、口元から零れる真っ白い歯、目映い
ばかりの笑顔・・・
あの時、莉江ははじめて父親以外の異性から愛されている自分を実感した。
純一は決して腕力で女を守るような強く逞しい男ではなかった。
むしろ繊細でナイーブではにかみ屋のところは、年下の男さえ感じさせた。
ただ、彼の持つ純真さ、優しさ、莉江を想う一途な情熱は藤森に追われている
恐怖も、知らない土地で暮らす不安も一掃させてくれた。そして、文字通り、
命を懸けて莉江を愛し守ってくれた。
あれから、間もなく二度目の夏を迎えようとしてしている。
19区の小さなアパルトマンで彼と暮らした短い日々が、もうずっと遠い昔の
ことのような気がする。
莉江はメールをもう一度読み返した。
さっきまでの索漠とした思いが消え、なにか胸の辺りがジーンと温かくなる
のを感じた。




