50.黒い画策(2)
一週間後、崇之はドゴール空港に降り立った。
今年もやはり満開の桜を避けるように日本を脱出した。行く先は別に何処でも
よかった。パリを選んだのは、この機会に藤森譲司という画商に会って礼を
述べておきたかったからだ。四月に入ったとは言えパリの街は東京に比べると
かなり気温が低く、まだ春にはほど遠い。タクシーを降りた崇之はコートの
襟を立て足早に『ギャラリー・フジモリ』のあるビルの中へ入って行った。
「いらっしゃいませ、木戸様。お待ちしておりました。オーナーはまもなく
参りますので、こちらへどうぞ」
藤森から知らされていたのだろう、若い受付嬢は丁寧なフランス語で応対すると
奥の部屋へ案内しようとした。
「オーナーが来られるまで、ここで少しコレクションを見せてもらっています」
謝礼の代わりに一、二枚購入するつもりで約束の時間より早めに来た。
ギャラリーに展示されている絵は一応どれも名の知れた画家の作品ではあるが、
一様に派手な色使いの華やかさが強調されたものが多く、崇之のテイストとは
異なる。だがその中の一点、セーヌ川のほとりの冬景色を描いた油絵に目が留
まった。モノトーンの銀世界がオイルペイント特有の筆遣いで見事に表現され
ている。画家の名を見た崇之の顔に驚きの色が走った。
芹澤冬梧の作品を目にするのは初めてである。パリ在住の日本人画家の名を
耳にしたことはあったが、まさか自分の遠縁にあたる人物、ましてや母雅子の
初恋の相手だったとは夢にも思わなかった。
「何か、お気に召したものでもありましたか?」
冬梧の絵の前にじっと佇む崇之の背後から声がした。
振り向くと、イタリアンメイドのスーツに身を包んだ男がにこやかに立って
いた。
「お待たせしたようで申し訳ありません。藤森譲司です。今日はわざわざ足を
運んで頂いて恐縮です」
藤森は慇懃に挨拶した。
エキゾチックな顔立ち、欧米の男性ファション雑誌に出てくるアジア系モデルの
ような風貌、想像していた画商のイメージではなかった。
「こちらこそ、その節はありがとうがざいました」
「いえ、無事にお手元に戻って何よりです。私も、あの絵とは満更縁がない訳
でもないので…」
「?…」
「まっ、その話は後ほどゆっくりするとして… こんな風にお知り合いになれた
のも何かの縁です。とにかく、今夜は大いに飲みましょう」
意味深な笑みを浮かべた藤森はパリ市内にある会員制の高級クラブへと誘った。
* * * * * * *
「そうですか、やはり『冬のセーヌ』がお気に召しましたか…」
シャンパングラスに並々注いだドンペリを一気に飲み干すと、藤森は感慨深
そうな顔をして天井を仰いだ。
面の表情とは対照的に腹の中ではほくそ笑むでいた。すべてが計算通りに
進んでいる。木戸崇之の絵画に対する趣味を調べ上げ、冬梧の作品の中でも
彼が好みそうな一点をギャラリーに展示した。
「いや、失礼。あの絵を描いた画家芹澤冬梧は、実は別れた妻の父親、つまり
私にとって義父にあたる人物だったものですから…」
驚きの表情を見せる木戸に、藤森は莉江との出逢いから別れまでの、自分に
都合よく脚色したストーリーを話はじめた。
「……お恥ずかしい話ですが、私はまだ妻のこと愛しているんですね。
彼女が幸せになってくれることを心から望んでいるんですよ。だから、父親を
安心させるために私との不本意な結婚を承諾した彼女が不憫で、若い画家の
もとへ走った行為を責めることはできなかった。仁科純一はあの若さで
『愛しき女の肖像』を描き上げるくらい才能溢れる、将来有望な青年で、
彼女に相応しい相手でしたからね。彼となら幸せになれると確信し離婚にも
応じました。ただ、今回の相手だけは、どうも…
あ、すいません。くだらない話を長々としてしまいました」
木戸の反応を伺うように話を中断した。
「いえ、どうか続けてください。黙っていましたが、実は私も芹澤冬梧とは
遠戚関係にあります。つまり、貴方の別れた奥さんとも…」
「え、本当に? そうですか、莉江をご存知でしたか…」
予想通り話に喰いついてきた木戸に向かって大げさに驚いて見せた。
「優秀なアメリカ人医師と聞いていますが… 彼に何か問題でも?」
「ええ、確かに今は有能なエリート医師の仮面を被っていますがね…
有賀健介は最低の男ですよ。あの男が障害のある莉江のことを本気で愛して
いるとは私にはとうてい信じられない。心配なんですよ、彼女もまた、亡く
なった奥さんの二の舞いになりはしないかと…」
「二の舞い? どういうことですか?」
かつての恋人のことを示唆すると案の定、木戸は身を乗り出すように聞き
返してきた。してやったりとばかり、藤森はダメ押しをするように、横須賀
時代の傷害事件からめぐみの最期まで、健介を卑劣極まりない男に仕立て
上げた話を怒りを露わに語りはじめた。
「……仮にも医者ですよ、ましてや白血病は自分の専門分野じゃありませんか。
抗癌剤治療に苦しむ妻を裏切って不倫をし子供まで作るなんて普通の人間の
することじゃない。亡くなった奥さんの心情を思うと、男として絶対に許せ
ない! 莉江とのことにしても、妻にそっくりの美しい女が目の前に現れ、
自分が死なせた妻に対する贖罪の念から彼女に近づいたとしか思えない。
また新しい女ができれば障害者の莉江など紙くずのように捨てるに決まって
いる。あいつはそういう男です」
熱弁を奮う藤森は喉の渇きを潤すようにグラスの酒を呷った。
「現に今日本にいるのだって、表向きは世話になった恩師を看取るためとか
なんとか綺麗事を並べているようですが… まっ、少年院行きになるところを
救い出しアメリカに逃がしてくれた大恩人に対して当然と言えば当然ですが。
あいつのことだ、案外本心は離婚して家に戻っている一人娘にあるのかも
しれない。二人がかつて恋人同士だったことは、当時の仲間の間では周知の
事実ですからね」
「莉江さんは、彼の過去を知っているのですか?」
黙って話を聞いていた木戸が口を開いた。
冷静を装ってはいるが、膝の上で固く握りしめられた拳が有賀健介に対する
怒りを露わにしている。
「いや、おそらく詳細までは。特にダークな部分については何も知らないで
しょうね。こんなことになるのが分かっていれば、莉江と別れるようなことは
絶対しなかった… もし、彼女が不幸になるようなことになれば、大事な
一人娘を私のような男に託してくれた芹澤画伯に申し訳が立たない……」
いかにも口惜しいと言うように藤森は眉間に皴を寄せぎゅっと唇を噛みしめた。
藤森譲司の話の内容は俄かには信じがたいものだった。
有賀健介とは一度だけ面識がある。記憶を取り戻す前の亜希がコンサートの
会場でフィアンセとして崇之に紹介した。
美形の容姿は往年の正統派ハリウッドスターを彷彿とさせるものがあり、
愁いを含んだ鳶色の大きな瞳が印象的だった。あの目でじっと見つめられれば
大抵の女はひとたまりもないだろう。今思えばあの瞳の翳りは、彼の不幸な
生い立ち、暗い過去を反映していたのかもしれない。
だが、亜希の前夫、高村耕平やアレックスから聞いていた彼の人となりは、
藤森が今口にした残忍非道な男の人物像とはどうしても合致しない。と言って、
莉江の前夫が嫉妬のあまり嘘八百を並べているとも思えない。
亜希の最期について詳しい事は知らない。ただ、アレックスから死因が白血病
と聞かされた時、ちょっと意外な感じがした。白血病は、もはや不治の病では
ない、ましてや血液疾患の専門医である夫がそばにいて手遅れになることなど
ありえないと思ったからだ。だが、何はともあれ、愛する男に見守られながら
最善の治療と手厚い看護の中で安らかに最期の時を迎え、天国に召されたもの
だと信じ、彼女の早過ぎる死を受け入れていた。
藤森の言うように、もし亜希が夫の裏切りと病魔という二重苦の中で死んで
逝ったのなら、もし莉江が本当に騙されているのなら、絶対に有賀健介を
許すことはできない・・・
かつての恋敵に対する激しい感情が崇之の中で静かに再燃しはじめた。




