05.黒い策略(1)
「うーん、やっぱ、朝はこれにかぎるな」
純一は手作りのクロワッサンをカフェオーレに浸し旨そうに頬張った。
「食べないの?」
(うん、なんだかあまり食欲がなくて…)
「疲れが出たのかな? けっこう強行軍だったからな」
心配そうに莉江の顔を覗きこんだ。
長旅と気疲れのせいか帰国してから顔色が冴えず体調が優れないようだった。
「お袋と姉貴に引っ張りまわされて大変だったもんな」
(ううん、そんなことない、いろんなところへ連れて行ってもらって凄く
楽しかったわ。心配しないで、きっと時差ぼけのせいよ)
純一のマグに新しいカフェオーレを注いだ。
(純の方こそ、夕べも遅くまで頑張っていたようだけど、からだ気をつけてね)
「俺は大丈夫。個展までにどうしても仕上げたいんだ」
窓際に置かれているイーゼルに目を遣った。
ポール・ビショップはパリから戻った純一に個展の話を持ちかけていた。
来月末にはボストン市内のギャラリーで開催されることが正式に決まり、帰国の
翌日から仕事を再開している。
「ノーラ、おいで」
二週間ペットホテルに預けられていた子犬は嬉しそうに純一の膝に駆け上がって
来た。
「ほら、おまえにも、おすそ分けだ。旨いだろ?」
クロワッサンを小さくちぎって口の中に入れてやった。
アトリエ近くに捨てられていた白いスピッツの子犬を拾い、野良と
名づけ二人はとても可愛がっている。
「さあ、そろそろ仕事に取り掛かるとするか」
(じゃ、私はノーラをお散歩に連れて行くね)
テーブルから立ち上がった莉江は、苦しそうに口元を抑えバスルームに駆け
込んだ。
* * * * * * *
ベイ・ウィンドーに寄りかかり莉江はぼんやりと夕暮れの秋空を眺めていた。
市販の検査薬は陽性を示した。喜びを露わにする純一とは対照的に彼女の
心はどんよりと曇っている。
「早くちゃんと診てもらわないとな。もっと広い家も探さなきゃいけないし、
これから忙しくなるぞ」
いつの間にか後ろに立っていた純一は莉江の躰を抱きしめ、そっと腹部を
撫でた。
(純……)
「ん?」
(……)
「どうした? からだ、辛いの?」
(ううん…)
莉江は首を横に振った。顔色が悪く表情がさえない。
「戸籍のことなら心配いらないよ。ちょっと時間はかかるかもしれないけど、
ちゃんとクリアできるから」
帰国後すぐにパリの日本大使館に問い合わせ離婚届が受理されていることを
確認済みだった。離婚が成立しなければ、生まれてくる子供の父親は戸籍上、
芹澤譲二になってしまう。
(そうじゃないの…)
「?…」
(不安なの… 純も知ってるように、私の障害は後天的なものじゃないわ。
耳の聞こえない子供が生まれる可能性もあるのよ…)
莉江はうな垂れた。
「五体満足に生まれてきても、藤森のような卑劣な人間はこの世の中には
うじゃうじゃといる。たとえ障害を持って生まれても、君のような綺麗な心を
を持つ素敵な人もいっぱいいるじゃないか。障害の有無なんて関係ないよ。
確かに、生まれた時からずっと音のない世界に居る君の苦しみや悲しみは、
俺なんかには想像もつかないものだと思う。でも、芹澤画伯が愛情を持って
莉江を立派に育ててくれたように、俺も父親として君を助けて子育てする」
(純……)
「だから、たのむからそんな悲しい顔しないで、二人でこの子の誕生を歓迎
してやろうよ」
莉江は目に涙を溜め純一の言葉に頷いた。
* * * * * * *
「そ、そんな、馬鹿な!」
書状を読み終えた純一の顔色が変わった。
パリの日本大使館から莉江宛てに書簡が届いた。内容は、大使館で受理した
離婚届を本籍地のある市役所に送付したところ返還されたきた。詳細は本国の
役所に照会してくれという、簡潔なものだった。
「心配しなくていいよ。何かの間違えに決まってる」
今にも泣きだしそうな莉江を抱き寄せた。
「日本はもう金曜の夜中だな…」
純一は時計を見ながら舌打ちした。
市役所に問い合わせるにも日本時間の月曜の朝、ここの日曜の夕方まで
待たなければいけない。
腕の中で莉江の身体が小刻みに震えている。
離婚届を提出し、やっと藤森との地獄のような結婚生活から名実ともに
解放されたはずなのに、戸籍の上ではまだあの男との婚姻関係が継続して
いる。彼女の心中は察するに余りあるものがある。
「大丈夫、お役所仕事はいつも時間がかかってミスも多いから…」
莉江を安心させるためにそう口にしたものの、純一自身なにか漠然とした
不安を感じていた。
三日後、抱いていた不安は現実のものとなった。
国際電話で芦屋市役所の戸籍課に問い合わせたところ、パリの日本大使館
で離婚届が受理される以前に申立人、芹澤譲二によって『離婚届不受理
申し立て書』なるものが提出されていた。そのため離婚届が不受理となった。
日本の民法には『戸籍の不受理申し出で制度』といものがある。
婚姻、離婚、養子縁組、養子離縁など届け出をする意思のない者が、自己の
意思に基づかない届け出がされる恐れがある場合、事前に不受理の申し出を
することにより不本意に受理されることを防止するための制度である。
藤森はこの制度を悪用した。
用意周到に莉江との法的離婚成立を阻止した上で協議離婚に同意し、
何食わぬ顔で離婚届に署名・捺印していた。