49.料理教室
玄関のドアを開けると家の中から濃厚な発酵バターの風味、焼き菓子特有の
香ばしい匂いが漂ってきた。
崇之は甘い香りに浸るように暫くその場に立ち奥の様子を窺った。
いつもは整然と静まり返っているキッチンの中に揃いのエプロンを着けて、
楽しそうに両手を動かす二人の姿がある。溢れんばかりの明るい笑顔がある。
カウンターの上には菓子作りの材料や調理器具が散乱し、オーブンからは
温かい空気が洩れている・・・
生活反応のなかった厨房が、まるで息を吹き返したように生き生きとした
空間に生まれ変わっている。それは、この家の中でずっと形を潜めて
いた 〝スイートホーム” の芳香のある光景だった。
桃の節句のホームパーティー以来、莉江は週に一度世田谷の家で美希と一緒に
菓子作りをしている。それは、孫娘を不憫に思った雅子の提案だった。
誕生会の席で手作りのクロワッサンの話題が出た時、母親の作るホームメイド
のケーキやクッキーなど口にしたことがない美希が不思議そうな顔をした。
莉江は最初は躊躇っていたようだが、最後には美希と雅子の熱い要望に押し
切られる形で承諾した。
朝の通勤・通学ラッシュが終わるころにマンションを出て、午後のラッシュ時
にかからないように世田谷の家を出るため、これまで崇之と顔を合わせること
はなかった。
(あれっ、パパどうしたの?)
突然帰宅した父親の姿に美希は不思議そうな顔をした。
(美希のメール読んでたら急にマドレーヌが食べたくなって、夜まで待てなく
なったんだ)
(そっか… 見て、もうすぐ焼きあがるよ)
(う~む、ほんとに美味しそうだなぁー)
(でしょ! でも、きょうはこれだけじゃないの。お肉のおりょうりもあるの)
(お肉?)
(うん、ねっ、おねえちゃま?)
傍らの莉江の顔を見上げた。
(お帰りなさい、お邪魔しています…)
美希と同様、崇之の帰宅に少し驚いたような表情を浮かべた。
(…実は、今朝バターを買いに広尾のマーケットに寄ったら、シャロレー牛を
見つけちゃって…)
「へぇー シャロレー牛なんて珍しいなあ… あ、そうか、あそこはフランス
大使館に近いから、向こうの食材がけっこう揃っているんだね」
(ええ、それで、いつも後片付けや何かでお世話をかけてる文江さんと時子さん
に、私の数少ない家庭料理のレーパートリーの一つをご馳走しようと思って…
あ、棚にあったワイン、黙ってちょっと拝借しました)
莉江はぺろっと舌を出した。
「て、ことは、僕も本場の家庭の味を相伴させてもらう権利があるわけだね?」
(もちろん!)
「シャロレー牛とブルゴーニュワインを使った名実ともに本物の 〝ブフ・
ブルギニョン” が味わえるなんて、午後の仕事をサボった甲斐があったよ!」
崇之は大げさに親指を掲げた。
「ねえ文江さん、ブフ、何とかって、いったいどんな料理か知ってる?」
二人のやり取りをじっと見ていた家政婦の時子は、少しきまり悪そうに声を
潜めて尋ねた。
「直訳すると、牛肉のブルゴーニュ風の意味なの。フランス原産の赤身の
多いシャロレー牛をブルゴーニュ産の赤ワインで煮込んだ牛肉料理のことよ。
ブルゴーニュ地方の家庭料理、言うなればフランス版おふくろの味って、
とこかしら」
「そうなの… それにしても文江さん詳しいわね。もしかしてフランスに
住んでたことがあるとか?」
「そんなわけないでしょ。偶々、料理の雑誌か何かで読んだことがあるだけ。
さあさあ、せっかくだから私たちもご馳走になりましょ」
文江は慌てて否定すると話題を変えるように時子をダイニングルームへと
促した。
* * * * * * *
(うーむ、このマドレーヌ、お店で売ってるのよりもずうっと美味しいよ)
(ほんと、パパ?)
父親に褒められ美希は嬉しそうに瞳を輝かせた。
(それで… 来週は何に挑戦するんだ?)
(次は、お休みなの)
不服そうに唇を尖らせ莉江の方をちらっと見た。
(来週は、ちょっと用があって…)
莉江は済まなそうに首をすくめた。
ネットで見つけた温泉へ花見を兼ねて行くことになっている。
(パパ、し・ん・こ・ん・りよ・こう って、な~に?)
「ええっ?!」
娘の唐突な質問に崇之は思わず声を上げた。
(だから、来週はお休みだって。さっき、フミさんと時子さんが話してるの
見たんだもん)
「あらまあ、美希ちゃまったら、いつの間に……」
時子と文江は顔を見合わせた。
莉江の行く温泉が熱海と知った時子が、かつては新婚旅行のメッカだったという
話から、新婚旅行談義に話を咲かせていた。
「なーんだ、そうだったのか。五歳の娘から突然、新婚旅行なんて質問されると
ドキッとするよ。そうか、今年の桜は来週あたりが見頃になるんだね…」
崇之は母屋の庭の方に目を遣った。
祖父が初孫の誕生を祝って植樹したソメイヨシノの大木が、うっすらと色づき
はじめている。この桜の木が満開に花を咲かせる姿をここ数年目にしていない。
正確には亜希が葉山の家を出て行った年以来、この季節を避けるように崇之は
日本を脱出している。
「大奥さまも来週から妹さまたちと神戸にいらっしゃるそうです。
その打ち合わせを兼ねて今日はお食事会に行かれました」
文江の言葉に崇之ははっと我にかえった。
「そう、どおりで今日はここに姿がないわけだ… 莉江さんも誘われたでしょ、
六麓荘行き?」
(ええ…)
「よかったね、先約があって。姦しいお三方と花見見物なんて、疲れに行く
ようなものだからね」
(まあ、ひどい…)
莉江はくすっと笑った。
「それにしても時子さんじゃないけど、熱海とはえらく昭和レトロの香りが
する所へ行くんだね」
(偶々、温泉と桜が楽しめる宿が見つかって…)
『子宝の湯』があるからとは言えなかった。
「愛する人とお湯に浸かりながらの花見酒か、羨ましいな…」
恥じらうような笑顔を浮かべる莉江に向かって、崇之は冗談とも本気とも
つかない言葉を吐いた。




