48.黒い画策(1)
「明美、俺たちにもやっと運が向いてきたようだぜ」
「そう願いたいわね。で、そのなんとかいう財閥企業のCEOとやらに、
いったい幾ら吹っかけるつもりなんだい?」
「そんなケチな真似はしない。これはお近づきの印の、ほんの手土産さ」
ほくそ笑むと部屋の隅に置かれた50号の絵に目を遣った。
「これ、見てみろよ」
「アンタの元妻とあのイケメンドクターじゃないか。こっちもイイ男だねえ」
明美は二組の男女の写真をまじまじと見比べた。
「やっぱ、どう見ても莉江にしか見えねえだろ?」
「えっ、違うのかい?」
「ケンの野郎の死んだ女房と木戸グループCEOの元恋人だ。
と、言っても二人は同一人物だけどな」
「?…」
『愛しき女の肖像』が高額な値段で買い取られたことに疑問を抱いた藤森は、
すっと絵の行方を追っていた。そして遂に、所有者が元財閥の御曹司である
こと、絵のモデルが結婚まで約束しながら引き裂かれた元恋人だったことを
突き止めた。一時のような絵画ブームは去り商売に翳りが見え始めていた矢先、
即座に金の匂いを嗅ぎつけた藤森は、ある計画を思い立った。
仁科純一の追悼展に貸与される機会を利用し、運送会社に潜りこませた手下を
使って紛失事故を装い『愛しき女の肖像』の略奪に成功した。
当初は単に巨額な値段で買い取らせるつもりだったが、木戸崇之のかつての
恋人が有賀健介の亡妻だった事実を知るに至って、もっと陰湿な策略を巡ら
せた。
藤森譲司は海軍基地のある港町、長崎県の佐世保で生まれた。
母親は米兵や船員相手に夜の街角に立つ女だった。譲司は父親の名も顔も知ら
ない。商売相手の一人であることは確かだが、身体的特徴から白人や黒人との
混血児ではない。色が浅黒く東南アジア系のエキゾチックな顔をしている。
大陸的な容貌を持つ日本人にも見える。客の中の一人というだけで、当の母親
さえも我が子の父親を特定できない。
五歳の時にそれまで育ててくれた祖母が死亡し、母親に連れられ横須賀の町に
流れて来た。母親は譲司を『ホーム』に預けると、再び米兵相手の商売を始め
クスリとアルコール漬けの生活に転落していった。子供に対する愛情など微塵
もなく、酒代欲しさに非行を重ねる息子に金をせびりに来るような女だった。
有賀健介が『ホーム』に来たのは中学二年の時だった。
ネイティブのような流暢な英語を話し甘いルックスを持つ同い年の美少年に
譲司は異常なまでのコンプレックスとジェラシーを覚えた。
当時すでに地元の暴力団と繋がりがあり、汚い手を使って健介を陥れることを
試みた。だが、アメリカ国籍を持つ健介は里親制度を利用してさっさと日本を
脱出した。
チンピラのままで埋もれてなるものか、と一大奮起し横須賀の町を出た。
新宿や六本木のホストクラブを転々とし、親子ほども年の離れた有閑マダム
たちの相手をしながら虎視眈々とチャンスを狙っていた。
十年後、闇の世界でドンと呼ばれる男を夫に持つマダムに寵愛され、美術品
売買のノウハウを教わりフランスに渡った。当時の絵画ブームに乗ったおかげ
で面白いように大金が転がり込んできた。金に物を言わせ絵画を買い漁り売り
捌く藤森は、一躍やり手の画商として名を馳せるようになった。
金と名声を得たにわか成金が次に欲しがるもの、家柄や学歴のない男が上流
社会の仲間入りをするために必要不可欠なもの―― ステータスである。
それは、金の力だけでは簡単に手にすることのできない代物だった。
だが、悪運はまたしてもこの男に味方した。
フランス画壇の巨匠、芹澤冬梧が聾唖の一人娘に婿養子を探していると言う
話を耳にした藤森は、手話をマスターするなど周到な準備を整え巧みに
冬梧に近づいた。そして計画通り、芹澤の家名、全財産、美貌の妻を手に
入れることに見事成功する。富、名声、ステータスのすべてを手中に収め、
思惑通りこの世の春を満喫するはずだった・・・
だが、人形のように美しく物言えぬ従順なはずの妻は夫に反逆し、若い男の
もとへ走った。野獣の本性を剥き出しにし卑劣な手段を使って男から妻を
奪い返したのも束の間、二十年ぶりに再会した有賀健介の鮮やかな手口に
よって、大事なステータス・シンボルは再び奪われてしまった。
「あの野郎、この俺を虚仮にしやがって! これからたっぷりと、
思い知らせてやる!」
拳を握りしめた藤森の目から獲物を狙う野獣のような鋭い眼光が放たれた。
* * * * * * *
「おかえり亜希…」
壁にかかる50号の絵に向かって呟いた。
行方不明になっていた『愛しき女の肖像』が、やっと手元に戻ってきた。
『ギャラリー・フジモリ』という画廊のオーナーから突然、崇之の携帯に電話が
入った。--パリの画廊に届いた商品の中にこの絵が紛れ込んでいた。
送り状を運送会社に照合し所有者の連絡先がわかった。商用でちょうど東京に
行くので、よかったら持参する――と言ってきた。
あの絵が見つかっただけでも朗報なのに直接届けてくれるというのは、崇之に
とって願ったり叶ったりの話だった。ただ、親切を押し付けて高額な謝礼を
要求される可能性もある。世間にはそういう類の輩が大勢いる。
だが、あの絵が無事に戻ることを考えれば多少の出費はやむを得ないと思った。
数日後、約束通り成田空港から宅配便で指定した葉山の家に絵が届けられた。
直ぐに男の滞在するホテルに電話を入れ謝辞を述べ謝礼を申し出た。
ところが、男からは『お礼などとんでもない。絵を商う者として当然のことを
したまでで、大切な絵が所有者のもとに無事戻っただけで充分ですよ』と、
真摯な言葉が返ってきた。それではこちらの気が済まないと言う崇之に対し、
『今回はトンボ返りでお会いできないが、パリに来られる機会があれば、
旨い酒でもご馳走してください』とさらりと言い、ギャラリーの所在地と
電話番号を告げた。
(藤森、譲司か… この世の中もまだまだ捨てたもんじゃないな…)
崇之は携帯に画商の名前と番号を入力しながら苦笑した。
性悪説に立って男の純粋な好意を疑った自分が少しばかり恥ずかしくなった。
携帯を閉じようとすると新着メールを知らせる電子音が鳴った。
--パパ、きょうはおねえちゃまとマドレーヌをつくるから、
こんやは、はやくかえってきてね!--
誕生日に買い与えた携帯電話がすっかり気に入り、美希は日に何度もメールを
送ってくる。普通なら五歳の子供に携帯を持たせるのは早すぎるだろうが、
美希の場合コミュニケーションの手段として大いに役立っている。
(〝料理教室” 覗いてみることにするか……)
愛娘に返信メールを送る崇之の口元が緩んだ。




