43.母国の生活(2)
翌日の午後マンションに莉江を残し健介は滝川家へと向かった。
日本に来てから週一回のペースで恩師の様子を診に逗子へ行く生活が続いて
いる。大抵は勤務先の病院が休診となる平日の午後で週末に一人で滝川家を
訪れることはめったになかった。
「ほんとうに残念だったな。冬場の鮟鱇を食べれば風邪なんぞ、一気に
吹っ飛んだろうに… おっ、もうそろそろいけるぞ、直哉」
滝川は鍋の煮え具合を確認しながら魚や野菜を孫の器によそってやった。
在宅治療に切り替えてからは主治医も驚くほど癌の進行が遅滞し体調が改善して
いる。人間の生命力とは不思議なもので、末期癌で医学的には余命幾ばくもない
患者が、生きたいと言う強い精神力で免疫力を高め数年も生き延びた実例が
数多くある。
「莉江さん、慣れない生活で疲れが出たのかしらねぇ…
最近は日本の住宅やマンションもかなり良くなってきてはいるけど、トイレや
お風呂にまで暖房が入っているところなんて少ないし、欧米に比べるとまだまだ
遅れているものね。冬場にお年寄りの脳卒中が多いのも納得できるわ。
風邪、拗らさないといいけど…」
美奈子は気の毒そうに言った。
「なぁーに、名医がそばについているんだ。それに若いから十分な休養と栄養を
取ればすぐに良くなるさ。何か精のつく物でも作って、帰りにケンに持たせると
いい」
「そうね、それがいいわね」
「いや、どうぞご心配なく」
健介は恐縮するように手を振った。
「遠慮はいらんよ。確かに美奈子の言うように、外国で生まれ育った莉江さん
にはこっちの暮らしは大変だろう…」
「そうよ、私の知っている帰国子女の娘さんなんか、日本に帰って来た直後から
早く向こうに戻りたいって嘆いているもの。特に莉江さんのような上流家庭で
育ったお嬢さんには辛いことも多いでしょ?」
「……」
莉江の素性については、画家の娘でパリで生まれ育ったとだけ話してある。
健介の表情を見て取った美奈子は話を続けた。
「言われなくても莉江さんが 〝良家の子女” だってことくらい、彼女の立ち
振る舞いを見れば一目瞭然よ。初めて二人でお食事に来てもらった後すぐにね、
とっても丁寧な手書きのお礼状が届いたの。ねえ、お父さん」
美奈子は父親の顔を見た。
「うむ、字も達筆で文章もしっかりしていた。よほどの教養を身につけていない
と、とてもああはいくまい。今時の若い娘にはとうてい真似のできんことだ。
清楚で上品で、まさに『深窓の令嬢』という言葉がぴったりとくる、実にいい
お嬢さんだ」
「それに、すっげぇー美人だしねっ!」
黙々と鍋の具を頬張っていた直哉が突然口を挟んだ。
「ほぉー 直哉、おまえにも分かるか?」
「分かるよ、ママとちがってスリムで肌がツルツル、それに超やさしいし!」
「こらっ、直哉! よくも言ったな!」
「ほんとのことだもん!」
「お待ちなさいっ!」
直哉は母親の拳骨をかわすように座敷を飛び出し美奈子も息子の後を追った。
「まったく、しょうがない親子だな。いつもあの調子で先が思いやられるよ」
言葉とは裏腹に滝川の口元は綻んでいる。
「ケン、人間とはどこまでも貪欲な生き物だな…」
「……」
「とっくに覚悟は出来ていたはずなのに、こうやって苦痛もなく住み慣れた
我が家で娘と孫に囲まれて平穏に過ごしていると、つい欲がでてしまう。
ここで新年を迎えられれば本望だと思っていたのが、次は庭の梅の花が咲く
までは、になり、それが叶うと今度は満開に咲き誇る桜が見たくなる。
ほんとうに困ったもんだ…」
苦笑を浮かべ相模の地酒を旨そうに飲み干した。
「先生… 花見だけじゃなくて五月の新緑も、夏の花火も、秋の紅葉も、
雪見酒も、また一緒に楽しみましょう」
力強く言うと健介は空になった盃に酒を注いだ。
「そうだな… ありがとう、ケン。君と莉江さんには本当に感謝しているよ」
滝川は深々と頭を下げた。
美奈子の明るい表情、直哉の屈託のない笑顔に包まれ穏やかに最期の時間を
過ごす恩師の姿を目の当たりにし、健介は無理をして日本に来たことが
間違えではなかったと確信した。




