表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Samsara~愛の輪廻~Ⅴ  作者: 二条順子
41/61

41.恩返し(3)

「美奈子、ケンが成田に着くのは来週だったな?」

「ええ、金曜の午後の便よ。日曜には奥さまを連れて来てくれるそうよ」

「そうだったな… また旨い魚を食べさせてやらなきゃな。今は金目鯛が

旬だから、鍋がいいだろう」

「そうね、お野菜たっぷりのヘルシーなのがいいわね」

「相模の地酒も忘れるなよ」

「はいはい。さあ、少し横になった方がいいわよ、お父さん」

「うむ、そうだな。じゃ、一眠りするかな…」


在宅治療に切り替えてからは徐々に食欲を取り戻し、病院にいた頃よりも体力

も気力も回復している。癌は着実に進行を続け肉体を蝕んでいるにも関わらず、

精神は充実しているようだ。住み慣れた自宅での緩和治療が功を奏していること

は言うまでもないが、健介の来日決定が大きく作用していることは明白だった。

まるで息子の帰郷でも待つかのように到着の日を心待ちにしている父親の姿に

美奈子の心も和んでいく。健介の来日が近づくにつれ彼女自身、何か胸の

高鳴りのようなものを感じていた。それはまだ十代の頃、一つ下の美少年に

抱いた淡い恋心にも似た胸のときめきだった。



有賀健介とはじめて出会ったのは、彼が『ホーム』に来て間もない頃だった。

ハーフ特有の彫りの深い端正な顔立ち、すらりと伸びた綺麗な肢体を持つ少年は

とても自分より年下の中学生には見えなかった。

鳶色の大きな瞳、長い睫、少しウェーブのかかった亜麻色の長髪が太陽の光を

浴びて金色に輝く様は、当時美奈子が夢中になって読み耽っていた少女漫画の

主人公そのものだった。

健介は『ホーム』の孤児の中にあって一種特異な生い立ちを持っていた。

ほとんどの孤児たちは横須賀基地の米兵と日本人母との混血で、生まれてすぐに

捨てられたり幼児のうちに『ホーム』に預けられたため、身体的特徴を除いては

父の国の言葉や文化とは無縁の子供たちだった。

それに対し富裕な日本人養父母の深い愛情に包まれて幼児期を過ごし、インター

ナショナル・スクールで英語を取得した健介は、孤児の中ではエリート的な存在

だった。『ホーム』の少年たちは皆どこか粗野で、いつもギラギラした目で

美奈子を見ていたが、彼だけは違っていた。澄んだ瞳と優しい笑顔を持つ美貌の

少年に、思春期の少女の心は一瞬にして奪われてしまった。

今思えば、それが美奈子の初恋だった。

だが、そんな健介も一年も経たないうちに『朱に交われば赤くなる』の言葉の

通り、周りに感化され非行の道へと走って行った。

彼と最後に会ったのは、危うく少年院行きを免れて渡米が決まった時だった。

仲介者のアメリカ人神父に伴われ、別れの挨拶に逗子の家を訪れた健介は神妙な

顔で父の前で頭を下げていた。真新しいスーツにモデル体型の身を包んだ十六歳

の高校生には、もはや少年の面影はなく大人の男の匂いを漂わせていた。

目を合わせることも言葉を交わすこともなく、切ない想いを胸の奥に秘めたまま

初恋の人の旅立ちを物陰からそっと見送った。


数年後、地元の女子大を卒業し丸の内の商社での就職が決まった。

そこで知り合ったのが別れた夫の桂木昌哉だった。東大経済学部出身の昌哉は

当時、海外事業部の若手社員の中で将来を有望視され、ひと際輝いて見えた。

地方の旧家の次男坊で五歳年上の昌哉との社内恋愛・結婚・寿退社は、同僚OL

たちの羨望の的だった。

挙式と同時に赴任先のシンガポールで新婚生活をスタートさせて以来、中東や

東南アジアでの海外生活がずっと続いた。時には家庭を顧みず仕事に没頭する

こともあったが、仕事のできる有能な夫は自慢でこそあれ何の不満もなかった。

異国の地で幼い直哉と母子家庭のような生活にも耐え、商社マンの妻として

夫を支え出来る限りの努力をしたつもりだった。


『彼女は君のような聡明な女じゃない、僕がそばにいてやらないとダメなんだ。

たのむ、別れてくれ…』

夫を信じていた美奈子にとって昌哉の不倫はまさに青天の霹靂だった。

しかも相手がキャバ嬢で、二人の関係が二年も続き女がすでに臨月だと知るに

至っては怒りを通り越し呆れ果ててしまった。

仕事だと称し東京の本社へ戻るたびにせっせとキャバクラへ通い娘ほども歳の

離れた若い女を孕ませた挙句、身勝手な台詞を吐き妻に土下座して離婚を乞う

夫の姿に虫唾が走った。

一流企業の管理職にあり分別ある中年男が、浮気と本気の区別もつかず不倫の

処理さえ満足にできない。そんな男の妻であることさえおぞましく美奈子の方

から離婚届を叩きつけ、十二年間の結婚生活にピリオドを打った。


自分でも驚くほど潔い決断だった。誰もが羨むエリート商社マンの妻の座を

捨て、あっさりと離婚に踏み切れたのは夫に対する失望の大きさも然ること

ながら、実家という帰る場所があったからだろう。いくら慰謝料や養育費が

入るとは言え、専業主婦だったアラフォー女が子供を抱え一人生きていくのは

容易なことではない。娘の心情を理解し優しく受け入れてくれる父親の存在が

なければ、やはり二の足を踏んでいたにちがいない。

美奈子は昔から父を尊敬し信頼を寄せている。進学や就職、結婚といった

人生の節目には必ず父に相談した。教職者だった滝川は自分の意見を押し付け

るような真似は決してせず、娘の意思意向を尊重した上でいつも適切な助言を

与えてくれた。どんな時にも穏やかな口調で諭され頭ごなしに叱られた記憶など

まるでなかった。

今回も娘のために奔走してくれた父のお蔭で泥沼のような醜い争いになること

なく直哉の親権を得て、スムーズに協議離婚が実現した。

夫の裏切りという精神的苦痛を乗り越えやっと、息子と父親のもとで平穏な

生活を取り戻すことができた。そんな矢先の末期癌宣告は、美奈子にまたしても

大きな精神的ダメージを与えた。


二十三年ぶりに再会した初恋の人は、あの頃と同じ瞳の輝きを失わず優しい心を

持つ、本物の大人の男になっていた。

ボストンから届くメールは、時には絶望感で打ちひしがれそうになる美奈子を

励まし心の苦痛を和らげてくれる。医者としての専門的なアドバイスだけでなく

人間味溢れる温かい言葉の中に、暗闇に差す一条の光を見る思いがした。

健介がそばにいてくれれば残された父との時間を穏やかに過ごし、辛い別れを

乗り切れるような気がする。

偶然を装いながら、私生活を犠牲にしてまで父親のために日本に来ることを

決心した彼の優しさが堪らなく嬉しかった。



「ママ、健介おじちゃん、また遊んでくれるかな?」

畳の上いっぱいにミニカーを並べながら直哉がぽつりと言った。

「直哉、そんなにおじちゃんのこと好き?」

「うん! だって、車のことすげぇーくわしいんだもん」

「そう…」


無邪気に遊ぶ息子の姿を眺める美奈子の顔に久しぶりに明るい笑顔が戻って

いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ