40.恩返し(2)
「そうかい、あの滝川先生がねぇ… あたしもあの人には迷惑のかけっ放し
だったからな…」
中学卒業と同時に『ホーム』を飛び出したマリエは当時のほろ苦い思い出が
甦ったのか、いつになく神妙な顔つきになった。
「でもさケン、いくら恩人のためとは言え給料半減させてまで日本で暮らす
なんて、アンタよく決心ついたね」
「ああ、正直迷ったけど、莉江が後押ししてくれたこともあってさ」
「それはそれは、良くできた奥さんで、ようござんしたね!」
「はい、さいざんす!」
健介はニヤリと笑った。
「それで、住むとこやなんかは決まったのかい?」
「いや、それがまだなんだ。今いる医者は病院側が用意した1DKのマンション
にいるらしいけど、そこは独身寮だから莉江と住むわけにはいかないし、病院の
近くにアパートでも借りようと思ってる」
「たしか、米軍のキャンプ座間の近くとか言ってたよね?」
「うむ、陸軍の家族住宅がある相模原市。小田急線で新宿や渋谷の都心、横浜
までも一時間以内で行ける。逗子までもそう遠くはないし、交通の便のいい
とこなんだ」
滝川は結局、ホスピス行きをやめて自宅での在宅治療をすることになった。
健介は病院勤務の合間に逗子を訪れ苦痛緩和や精神面で滝川父娘をサポート
するつもりでいる。
「けどさ、日本のアパートって相変わらず狭くって、薄暗くって、壁も超薄なん
だろ? 隣の夫婦喧嘩や、あの時の声がモロ聞こえるとかさ…」
マリエは卑猥な笑みを浮かべながら傍らの直美の顔を窺った。
「それは、ママが日本にいたころの大昔のイメージです! 最近のは小洒落た
造りになってるとこも多いんよ。けど、やっぱり広さはこっちとは比べもんに
ならへんわ。なんせ、日本でマンションって呼ばれているのがアメリカの
アパートより狭いんやもん。純ちゃんのプロバンスの安アパートも、広さなら
あっちでは立派なマンションやわ…」
最愛の男、純一と暮らしたプロバンス・タウンでの日々を思い浮かべるように
直美は天を仰いだ。
「あの辺りは都内や横浜の物件に比べれば安くなるけど、六本木ヒルズや広尾に
あるような月100万の外人用高級マンションに住む外交官やビジネスマン
みたいにはいかないよ。まっ、当分は貧乏ぐらしになっちまうな」
「けど、ほんとに大丈夫かな…」
マリエは心配そうに呟いた。
「?… やっぱ、入籍を延ばしたのはマズかったかな? 男と違って女はそういう
の、けっこう拘るんだろ?」
マリエと直美の顔を交互に伺った。
学会のために入籍を遅らせてしまい、健介の方から『イブの入籍』を言い出して
おきながら今回もまた自分の都合で半年先に延ばしたことに、やはり後ろめたい
ものを感じている。
「あたしが言ってるのは籍のことじゃないよ。紙切れ一枚で莉江さんの気持ちが
どうこうなるとは思っちゃいないさ。ただ、ちょっと、彼女に日本での貧乏
暮らしができるかなって、思ってさ…」
「?」
「余計な心配かもしんないけど……」
マリエは少し言い難そうに切り出した。
「…秋に日本に行った時に、莉江さんあたしと直美ちゃんにお土産買って来て
くれただろ… アレってさ、半端な代物じゃなかったよ。
なんかやっぱ、こう、我々ド庶民とは金銭感覚がちがうっつうか。いや、別に
彼女が浪費家とか言ってるんじゃないよ。いいとこのお嬢さんだから、きっと
ああいうのが普通なのかもしんないけど… 莉江さんがさ、商店街の八百屋や
肉屋で晩ご飯のおかずを買ってる姿なんて、なんかちょっと、想像できない
じゃん。ねえ?」
同意を求めるように直美の顔をちらっと見た。
「うーん、確かにそれって言えてるわ。広尾や白金台の高級スーパーにベンツ
で乗り付けてショッピングする方がやっぱこう、莉江さんにはぴったしくる
感じがするもんね」
マリエに賛同するように直美は大きく頷いた。
二人の言うことは満更当たってなくはないと思った。
たしかに、お嬢さま育ちの莉江に貧乏生活を強いるなんて酷な話かもしれない。
彼女が父親とパリでどんな風に暮らしていたか詳細は知らないが、16区の
高級住宅街にある大きな屋敷に多くの使用人と住んでいたことから、ブルジョワ
階級の暮らしであったことは容易に想像がつく。
フランスに渡り一代で成功を収め財を成したようなにわか成金の娘とは違い、
父親は戦前の華族や皇族とも繋がりのある木戸財閥と遠戚関係を持つ由緒ある
家系の、本物のお嬢様なのだ。彼女自身はそのことを隠すように、懸命に庶民
レベルに合わせようとする節がある。が、ちょっとした言動や仕草の中に育ちの
良さが出てしまうのを健介も感じていた。




