04.海辺の再会
窓の外に晩秋の景色が広がる。
ポトマック河畔の桜が終わると、初夏まで可憐な薄紅色の花を楽しませて
くれるハナミズキの季節となる。その葉もすっかりオレンジ色に染まり時折
風に舞い散っている。この四季の移り変わりを研究室の小さな窓から眺め、
まもなく四度目の冬を迎えようとしている。
健介は迷っていた。
このまま研究医としてここで黙々と研究を続けるべきか、それとも内科医と
して臨床の場に戻るべきか・・・
ボスジェネラルの血液内科に欠員ができ早急に後任を探していると、元上司の
医長から打診されていた。次のボストン行きまでには返答しなければならない。
彼が臨床医を諦めた一番の理由は、車椅子の生活を強いられていることだった。
それが解消された今、願ってもない話のはずなのだが・・・
ボストンにはめぐみとの想い出があまりにも多く残っている。やっと彼女の
死を現実のものとして受け入れられるようになった。
彼女と暮らし、彼女を愛し、彼女を失った街にまた舞い戻るのは、やはり辛い。
半月後、結論を出せないまま健介はボストンに向かった。
常泊のホテルにチェックインするとその足でマリエの店を訪ねた。
週末にもかかわらず、時間が早いせいか客の数は疎らだった。
「金曜に姿を見せるなんて珍しいじゃん」
「週末をケープの海を見ながらのんびり過ごそうと思ってな」
「まーた、そんなこと言って。まるで隠居した爺さんの台詞じゃないか。
さあ、景気よく乾杯しょうよ。これはオン・ザ・ハウスだからね!」
健介に水割りのグラスを渡すとマリエは勢いよく自分のグラスを傾けた。
「この絵、どうしたんだ?」
前回来た時には見かけなった小さな油絵が壁にかけられている。
「例のジョージがくれたんだ。いいって言ったのに、昔の仲間が店を一軒
構えた祝いとかなんとか言ってさ。ビジネスでまたこっちに来てるとかで、
キンキラキンの女連れて来て遅くまで飲んでった。
金回りはいいようだけど、話聞いてると相も変わらずアクドイことやってる
みたいだよ。まさか、これもヤバい絵じゃないだろうね…」
マリエは壁の絵をじろりと見上げた。
「ねえケン、ちゃんと離婚届出しても、正式に離婚できないってこと、
あるのかい?」
「それ、どういうこと?」
「学のあるアンタにも解せないこと、あたしにわかるわけないか…」
マリエは独り言のように呟いた。
「いやさ、ジョージのヤツがえらく自慢してたんだ。なんでも、逆玉の結婚
相手が不倫して離婚を要求したんでハンコついてやったけど、慰謝料として
全財産を巻き上げた挙句、実際はまだ籍に入ったままだとか何とか…」
「?…」
「あっ、噂をすれば何とかだよ…」
マリエの視線の先に高価なスーツに身を包み、派手に着飾った女を伴う
男の姿があった。
「やあ、なつかしいなあ。あれからもう二十年以上になるなんて
信じられないよ。立派なドクターになったってマリエから散々聞かされた
けど、これじゃ街中で遇っても誰だかわかんないな」
ジョージは大げさなジェスチャーで握手を求めてきた。
「そっちこそ、大した成功を収めたそうで何よりじゃないか」
健介は社交辞令でさらりと交わした。
「いやあ、運が良かっただけさ。画商なんて商売、お医者さんとちがって
明晰な頭脳がいるわけじゃないからな。
明美、俺もたいしたもんだろうが、医学博士のお友達がいるんだぜ」
不敵な笑みを浮かべ傍らに侍らす女の躰を抱き寄せた。
「再会を祝して、今夜は大いに飲もうじゃないか。マリエ、この店で一番
高い酒じゃんじゃん出してくれ!」
横柄な態度でマリエを促した。
「悪いが、これから人と会う約束があるんで失敬するよ」
健介は立ち上がるとカウンターの上に勘定を置いた。
これ以上この男と付き合わされるのは御免だと思った。
「そいつは残念だな。今度どっかでまたゆっくり飲みなおそうじゃないか。
当分こっちにいるつもりだから」
おもむろに名刺を取り出すと裏に滞在先のホテルを記し健介に手渡した。
高級なブランド物で身を隠しいくら紳士面を装っても、笑顔の下に潜む狡猾で
野獣のような眼光の鋭さは昔とちっとも変ってはいない。
胸糞が悪くなるような不快感を覚えた健介は足早にマリエの店をあとにした。
* * * * * * *
健介は誰もいない早朝の浜辺に寝ころび澄み切った秋の空を眺めていた。
まだ決心がつかないでいる。研究医も臨床医も人の命を救う医者であることに
変わりはない。だが、医療の現場で患者と直に接することができる臨床医には
やはり魅力がある・・・
(メグ、俺、いったいどうすればいいと思う…)
目を瞑ると暗闇の中にめぐみの笑顔が浮かんだ。
問いかけに黙って優しく微笑むだけで彼女は何も応えてはくれない。
突然、足元の異常を感知した健介は飛び起きた。
白い子犬が足に纏わりついている。
「まーた、おまえだったのか…」
抱き上げて頭を撫でてやった。
健介の匂いを覚えているのか子犬は嬉しそうにクンクンと鼻を鳴らした。
傍らに、その様子をにこにこしながら眺めている飼い主の姿があった。
彼女は軽く会釈すると健介の横に腰を下ろした。そして、バッグの中から
筆記用具を取り出した。
『先日は危うく 〝迷子の子犬” になるところを助けていただいて、
ありがとうございました。』
綺麗な文字でしたためられた紙を健介の前に差し出した。
「な、ま、え、は?」
子犬を指差し、ゆっくりと大きく口を動かした。
『この子の名前はノーラ、野良犬のノーラです。私は莉江といいます、
ヨロシク。唇が読めるので普通に話して下さっても大丈夫です。』
「ノーラか、ずいぶん洒落た名前だな。言われなければ、野良犬のノーラだ
なんて想像もつかないよ」
健介はなるべく普通に喋ろうとしたが、不自然な口の動きになるのが自分でも
わかった。
「莉江さんか… とても素敵な名前だね」
「ありがとう」と言うようにぺこりと頭を下げた。
「そう、読唇ができるの… じゃあ、あの時、君の前で大口開けて、大げさな
身振り手振りで話す姿は、ずいぶん間抜けで滑稽に映っただろうね?」
莉江は大きく首を左右に振りながらも思い出したようにくすっと笑った。
「ほら、やっぱりそう思ったんだ!」
じろりと睨みつける真似をする健介に、彼女は「ちょっとだけ」と言うように
親指と人差し指を掲げて見せた。二人は顔を見合わせ可笑しそうに笑った。
『ここに住んでいるのですか?』
「いや、でも以前この近くに住んだことがあるんだ。たったの三ヶ月だった
けど…」
めぐみと暮らした海の家での想い出が脳裏を過ぎる。
健介は立ち上がると水平線の遥かかなたへ目を遣った。そして、暫くじっと
静かな海をみつめていた。
微かに聞こえる鈴の音で健介は我に返った。
うしろを振り向くと、莉江が鈴を鳴らしノーラを呼び寄せていた。
駆け寄って来た子犬の首輪にリーシュを付けると立ち上がった。
「帰るの? 家はこの近く?」
莉江は頷くと高台の方を指差した。
「じゃあな、ノーラ。迷子にならないように気をつけろよ」
子犬は嬉しそうに尻尾を振って応えた。
莉江は「失礼します」と言うようににっこりとお辞儀をすると子犬と伴に
道路の向こう側に消えて行った。
あんな風に声を出して笑ったのは何年振りだろう・・・
不思議なくらい心が和み、冷え切った躰が何か温かいものに触れた時のような
安堵感を覚えた。それはまるで、めぐみがそばにいるような穏やかで柔らかな
心地良い感触だった。