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Samsara~愛の輪廻~Ⅴ  作者: 二条順子
39/61

39.恩返し(1)

「莉江、入籍のことなんだけど… 半年先に延ばしてもいいかな?」

クリスマスを数日後にひかえたある日、健介は神妙な顔つきで切り出した。

二人は純一の追悼展が終わるのを待って婚姻届を出す予定だったが、急遽

決まった日本行のため帰国後のクリスマス・イブに入籍することにしていた。


「実は、半年間休職して日本の医療現場に行こうかと思ってるんだ」

(日本の病院で働くってこと?)

「うむ、働くと言っても日本の医師免許がないから、正式採用ではなく

ほとんどボランティアのようなもんだけど。いろいろネット上で検索した

結果、一件いいのがあったんだ。ただ、それは未婚者に限るという条件が

ついててね。おそらく既婚者だと扶養家族の手当や住宅、滞在ビザなんかの

問題があるからだと思う。俺はもちろん君を連れて行くつもりだけど、日本の

住宅事情からして、ここよりはずっと狭いアパート暮らしになるだろうし、

それに収入も今より激減するから生活もタイトになってしまう…」

健介は済まなそうな顔をした。

(それって、滝川先生のご病気と関係があるの?)

「うむ、実はそうなんだ」

帰国した健介は滝川が末期癌で余命いくばくもないことを莉江に話していた。

美奈子から送られて来たメールは、父親の体力が日に日に衰えていくのを

何もできず傍観していることが辛くてたまらない。一旦は父親のホスピス行き

を受け入れたものの再び迷いはじめ、逗子の自宅での在宅治療を考えている

という内容のものだった。文面から彼女が精神的に相当まいっている様子が

伺える。ターミナルケアは患者ばかりでなく家族の心のケアも必要とする。


「前にも話したように横須賀時代、先生には世話になりっぱなしで何の恩返し

もできていない。俺が医者としてこうしていられるのも先生のお蔭なんだ。

命を救うことができないなら、せめて最期の時くらいそばにいてあげられたら

と、思ってるんだ」

別れ際に健介の手を握り、残していく一人娘の事を案じていた恩師の顔が頭から

離れず、帰国以来ずっと滝川父娘のために何か自分にできることはないかと模索

していた。


現行の日本の医師法では外国の医師免許を取得していても、日本の医師国家資格

がないと国内での医療行為はできない。ただ昨今の慢性的な医師不足を解消する

ため、外国人医師に対しても徐々に門戸が開かれつつある。

例えば『臨床修練制度』と呼ばれる外国人医師の日本での研修・実習制度を利用

すれば、日本の医師免許や予備免許がなくても一定の条件下で処方箋以外の診療

や、助手として手術などの医療行為ができる。

また地方の総合病院などでは研修医獲得競争が激化する中、海外の優れた医療の

一端を研修医に経験させると言うふれこみで、研修医教育を目的として欧米から

外国人医師を招聘しょうへいしているところもある。

ただ、いずれにしても査証ビザ名目の研修・留学のため診療対価としての

報酬は受けられず、指定病院が限定される等いくつかの問題がある。


健介が外国人医師仲介サービスのサイトで見つけた病院は、神奈川県下にある

民間病院だった。米軍基地が近くにあるため、ベース内の診療所での医療行為が

受けられない軍属やその家族の緊急時の指定病院になっている。

今いるバイリンガルの医師が本国に帰国するため早急に後任を探していた。

契約期間は最長二年で半年ごとに更新できる事と神奈川県内にある事が健介の

目を捉えた。ただ、いくら恩人のためとは言え、莉江との入籍を伸ばしてまで

日本で暮らす事には、やはり迷いと抵抗がある。と言ってこのまま黙って何も

しないでいればいつかきっと後悔するような気がする・・・

健介は決めかねていた。


(そうね、あなたがそばにいれば美奈子さんも心強いよね。籍のことなら

心配しないで、ケン。私は平気よ、だって私たちとっくに事実婚しているもの。

後になってあなたの心残りがないように、できる限りのことをしてさしあげて)

健介の心の中を読み取るように優しい表情を浮かべた。

同じように父親を癌で亡くしている莉江は、一人娘の美奈子の心情を理解し

同情していた。

「ありがと、莉江。俺はほんと幸せ者だなあ~ 君のように若くて、綺麗で、

優しくて、理解のある嫁さんがいて!」

(はい、はい、お世辞でもそう言ってもらえると、とっても光栄です!)

莉江はぺこりとお辞儀をした。

二人で冗談交じりのやり取りをしながらも、健介は彼女の気持ちに心底

感謝していた。



* * * * * * * 



(また暫くのお別れになるけど、リズのところでいい子にしててね、ノーラ)

淋しそうな眼をして荷造りの様子をうかがう愛犬を抱き寄せた。


莉江の理解を得て心を決めた健介は、さっそく日本行の計画を実行に移した。

受け入れ先の病院からは彼の経歴を知ると即座にOKの返事があり、できれば

一月中に着任してほしいと言って来た。そのため二人はクリスマスや新年を

ゆっくり祝う暇もなく、年明け早々から引越しの準備に追われ慌ただしい毎日

を送っている。


恩師に対する健介の気持ちを思い日本行きを快諾したものの、莉江の本心は

複雑だった。入籍が遅れることに関しては何の不満もないが、日本で暮らす

ことに戸惑いと不安があった。日本国籍を有する日本人でありながら、パリで

生まれ育った莉江は日本で生活した経験がない。幼い時に父と伴にひと夏を

過ごした祖母の家でのおぼろげな記憶があるだけで、実際に日本の家庭

生活を体験したのは純一の実家で過ごした二週間だけである。

平均的な中産階級の仁科家の生活は莉江にとって驚きと戸惑いの連続で、自分の

育った環境と文化の違いを痛感させられた。


芹澤冬梧は一人娘に華道や茶道、書道といった日本の伝統文化や風習、礼儀

作法など高い教養を身につけさせた。だが、それはあくまで彼が育った上流

階級の作法に則った非日常的な『良家の子女』としての躾けや教育であって、

一般市民の生活とはかけ離れたものだった。

純一と暮らし始めるまでの莉江は、洗濯機や掃除機の使い方さえ知らず、

アイロンがけやトイレ掃除などといった家事とは無縁の生活を送っていた。

一流シェフから伝授された三ツ星レストラン並みの料理や菓子は作れても、

米の砥ぎ方や味噌汁の作り方は知らない。ウサギ小屋のような狭い家の中で

家事をてきぱきとこなす純一の母親の姿を目の当たりにして、『おまえの

ような何も知らない何もできない女には日本の主婦なんか一日も務まりは

しない。俺に貰ってもらえて感謝しろ!』と、よく藤森に罵られた言葉の

意味がようやく解ったような気がした。


パリからケープ・コッドへ来た当初、同じ西洋文化圏にありながら仏米間の

生活習慣の違いに少なからず困惑した。文化の違いに加え、日本の社会は

欧米に比べまだまだ障害者に対して優しい国とは言えない。

二十年ぶりに母国を訪れそのことを実感した莉江は、日本での生活に対する

不安をどうしても拭い切れないでいた。





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