38.冬の雨、それぞれの再会(4)
最終日のレセプションを早々に切り上げた健介は、滝川の入院する病院へと
向かった。病室を訪れる前にあらかじめアポを取っておいた主治医と面会した。
同年代の医師は健介が同業者だと知ると、検査結果の詳細と自らの所見を率直に
述べた。予想していたとは言え、実際MRIやCTの画像に映し出された腫瘍は
大きさや数から明らかに末期癌の様相を呈している。これでは抗癌剤投与も
肝内に蔓延る癌細胞には、もはや焼け石に水である。
もし自分の父親なら延命治療よりも苦痛を取り除くターミナルケアを選択すると、
ふと漏らした主治医の言葉に健介も同感だった。
病室の前まで来ると気持ちを切り替えるように大きな深呼吸を一つした。
滝川はベッドに起き上がり、検温に来ていた若いナースと何やら談笑していた。
顔に少し黄疸が出ているものの、思っていたより窶れた様子は見られない。
「やあ、ケン、よく来てくれたね」
健介に気づくと大きく手を挙げ、傍らのナースに何か囁いた。
「ホント、滝川さんの言ってたとおりだわ! 『見かけはハリウッドスターも
顔負けだが、中身はワシントンの医大を首席で卒業し今はボストンの総合病院
のエリート内科医なんだぞ!』」
孫ほども年の差のありそうなナースは滝川の口まねをすると、健介の方を見て
にやっと笑った。耳に複数のピアス爪にアートネイルをした茶髪の看護師は、
少し前までの日本の病院では考えられないような 〝白衣の天使” である。
「なっ、超イケメンだろ?」
「うん、かなりイケてるっ! じゃあ、またあとで検温にくるねぇ~」
平成版白衣の天使は、友達にでも話すように言うと軽やかに病室を出て行った。
「お父さんたら、あの調子で若い看護師さんたちに健介さんの自慢話ばかり
しているのよ」
父親の胸元を直しながら美奈子は呆れたような顔をした。
「いいじゃないか、本当のことなんだから。なあ、ケン?」
「いやぁ、あんな風に今時の若い娘と会話できるなんて、先生は凄い
ですよ」
それは満更お世辞ではなかった。近頃の日本の雑誌やテレビに出て来る若者の
言葉や文化には到底ついていけないものがある。
「お父さん、買い忘れたものがあるので、私ちょっと駅前のデパートまで
行ってきてもいいかしら?」
美奈子はタイミングを見計らうように切り出した。
「ああ、ゆっくりしてくるといいよ。ついでに直哉へのクリスマスプレゼント、
適当に見繕ってくれないか?」
「ええ、じゃ、行ってきます」
健介に目礼すると美奈子は病室を出て行った。
「もう、今年も終わりだなあ…」
感慨深げに言うと滝川は眩しそうに窓の外に目を遣った。
昨夜まで続いた雨がすっかり上がり綺麗な冬の青空が広がっている。
「先生、肝硬変の治療のことですが…」
意を決して切り出した。
「ケン、そんな深刻な顔をするな」
滝川は笑みを浮かべながら健介の言葉を遮った。
「ドクター・有賀、アメリカ式にはっきり教えてくれないか。あと半年、
それとも三ヶ月かい?」
「先生…」
「黄色い顔、それにこの腹を見れば名医じゃなくてもわかるさ…」
腹水のために膨張した腹を両手で摩った。
「もうこの歳まで生きたら充分だよ。延命治療なんた真っ平ごめんだ。
逗子の家で静かに寿命を全うできたら最高だが、そうもいかんだろ。
在宅治療は家族への負担が大きすぎる。娘や孫に迷惑をかけたくないからね。
海の見えるホスピスにでも入って、若いナースに看取られながら終わるのも、
悪くはないな…」
すべてを悟り死を覚悟した滝川の顔は穏やかだった。
「ただ一つ心残りは、美奈子のことだ。子供を抱え女一人生きていくのは
生易しいことではないからな。いざという時、頼りになる兄姉でもいれば
いいのだが… まさか、別れた亭主のところへ泣きついて行くような真似は、
あいつの性格からしてできんだろう。桂木、美奈子の元夫は悪い男じゃない。
地方の旧家の息子で東大をストレートで入った真面目で優秀な男なんだが、
どうも少し前の日本の企業戦士のようなところがあってね。仕事人間で
家庭を顧みないところがある。子育ても教育も女房に任せっきりで、その
せいか、直哉はすっかり母親っ子になってしまった。
そんな男がふと魔が差したと言うのか、根が真面目だけに女に免疫がない分、
浮気が本気になってしまったんだろうな。相手が自分よりずっと年下で、
子供まで出来てしまったことを知った美奈子は、夫をどうしても許せなかった
ようだ」
滝川はふーと溜息を洩らした。
「ケン、こんなこと君に頼むのは筋違いかもしれんが、これから先、もし
何かあった時は、美奈子の相談相手になってやってはくれないだろうか?」
居住まいを正し懇願するように教え子の手を握った。
自分の身体のことよりも残していく一人娘を案じる父親の心情が伝わって
くる。健介は黙って頷くと恩師の手を握り返した。
滝川は正月を自宅で迎えた後、希望通り湘南の海を臨むホスピスに転院する
ことが決まった。最初のうちは難色を示していた美奈子も、静かな最期を
迎えたいと言う父親の意思を尊重し、一切の延命治療を受けないことに同意
した。メールで連絡を取り合うことを約束して健介はアメリカに帰国した。




