表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Samsara~愛の輪廻~Ⅴ  作者: 二条順子
35/61

35.冬の雨、それぞれの再会(1)

(困っちゃったねえ、ノーラ…)

莉江は恨めしそうに空を見上げた。

冷たい雨に濡れたノーラの白い毛が寒そうに震えている。

散歩の途中で降り出した小雨は本降りとなり、いっこうに止む気配がない。

公園のそばのバス停の屋根で辛うじて雨宿りする二人の前をダウンタウンに

向かうバスが何台も走り過ぎて行く。

途方にくれる莉江の前に突然、一台の車がバス・ストップに横付けになり、

運転席から一人の男が降りてきた。


「さあ、早く乗って!」

助手席のドアを開けると、驚いている莉江に手招きをした。

(でも、シートが濡れてしまう…)

「そんなの気にしないでいいよ。これ、レンタカーだから」

戸惑う莉江に男はウィンクすると、ずぶ濡れの犬を抱き上げ後部座席に

座らせた。アレックスのアトリエで飲み明かした崇之はホテルに帰る途中

だった。美希が迷子になった例の公園の前を通過する際、白い犬と立ち

往生している莉江の姿を発見した。



(ありがとう、おかげで助かりました。今、タオル持ってきますね。

よかったら、ちょっと中に入って下さい)

自分のコートで莉江の身体をすっぽりと覆い、玄関の前まで送ってくれた

崇之はずぶ濡れになっていた。


「うーむ… これって、まさか焼きたてのクロワッサンの匂い?」

莉江に促され部屋の中に入った崇之は犬がするように鼻をくんくんさせた。

ベーカリーのような香ばしい匂いが漂う。

(ええ、今朝焼いたばかりなの… お好きですか?)

「うむ、学生時代住んでいたアパルトマンの近くに毎朝焼きたてのを

食べさせてくれるカフェがあってね、朝食はいつもそこのクロワッサンと

カフェ・オレだったな…」

(そのお店って、もしかして19区の公園の傍にある『カフェ・ラ・ヴィ

レット』?)

「そう! けど、なんで知ってるの?」

(崇之さんがコンセルヴィトワールに留学していたこと、おばさまから伺って

いたの。それに、私もあそこのオリジナル・クッキーの大ファンだったから。

今は16区のパッシーの近くにもお店を出しているのよ)

「ほんとに? あの辺りもすっかり様変わりしただろうなあ… 僕が居たのは、

もう十年以上も昔のことだから… 」

パリ音楽院での留学時代を懐かしむように言った。


(とても、〝ラ・ヴィレット” のようにはいかないけど、どうぞ召し上がって

みて下さい)

まだほんのりと温かいクロワッサンと入れたてのカフェオーレを崇之の前に

差し出した。

「うわっ、旨そうだな。じゃ、遠慮なく」

クロワッサンをカフェオーレに浸し豪快にかぶりつく姿に、莉江は思わず

くすっと笑った。

「あ、これってやっぱ、あまり行儀のいい食べ方じゃないよね?」

(でも、そうやって食べるのが一番美味しいんでしょ? 日本人が白いご飯に

熱いお茶をかけて食べる、お茶漬け感覚で)

「うーん、確かにそうかもしれないな… 実に上手い表現だよ。それって、

まさか、君のオリジナル?」

(いいえ…)

首を左右に振ると何かを思い出したように莉江はまた笑った。

それは、父冬梧の受け売りで、出逢って間もないころ純一にその話をした時、

彼も今の崇之とまったく同じことを言った。


「けど、羨ましいなあ、こんな旨いホームメイドのクロワッサンを食べさせて

もらえるなんて…」

二個目を手に取りながら少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。

(……)

「アレックスから聞いたよ、もうすぐ結婚するそうだね。優しくて優秀な

お医者さんなんだって?」

(ええ…)

はにかむように小さく頷く莉江の様子が崇之の目に初々しく映った。


(あの、美希ちゃんとおばさまは、お元気ですか?」

莉江は話題を変えるように二人のことを尋ねた。

「うむ、美希は 〝おねえちゃま” のこと、とても恋しがっているよ。

今でも一緒に行ったドール・ミュージアムの話を嬉しそうにするんだ。

母も莉江さんに出会えたことを喜んでいてね、またぜひ会いたいと、いつも

言っている」

(私も木戸家の方々と出会えてよかったと思ってます。あの日は、本当に

楽しかったわ…)

莉江は横浜でのことを思い起した。

崇之の脳裏にもあの夜の美希と雅子の笑顔が過ぎった。


「あっ、いけない、すっかり長居をしてしまった。ご馳走さま、とっても

美味しかったよ」

(いいえ、私のほうこそ、本当にありがとうございました。こっちには

お仕事ですか?)

「いや、ボストンにはプライベートなことでちょっと立ち寄っただけで、

今夜の便でロンドンに発つんだ」

(じゃ、東京に戻ったら、美希ちゃんやおばさまに宜しくお伝え下さい)

「うむ、じゃ…」

崇之は笑顔で頷くとタウンハウスをあとにした。

外はさっきまでの雨がすっかり上がり雲の切れ目から微かな陽が零れている。

空に向かって大きく深呼吸をした。


アレックスから莉江の結婚相手の名を聞かされた時、やはり心のどこかで

動揺を感じずにはいられなかった。彼女を初めて見た瞬間の衝撃を忘れること

はできない。瓜二つの容姿を持ってはいても彼女は亜希とは全く別の人格で

あり、遠縁とは言え血の繋がりもある。頭の中では十分理解しているつもり

でも、実際莉江のそばにいると、ちょっとした仕草の中に忘れえぬ恋人の

面影を追っている自分をどうしても意識する。

莉江とはもう逢わないほうがいいのかもしれない・・・

崇之はもう一度大きな深呼吸をすると足早に路上に停めてある車へと急いだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ