34.『愛しき女の肖像』(2)
(メグ…)
窓辺に佇む裸婦の肖像を食い入るようにみつめる健介の口から大きな溜息が
洩れた。視覚が捉える美しさだけではなく、彼女の優しさ、愛らしさ、肌の
質感、髪の匂い、息遣い・・・
彼の愛した女のすべてが五感の中に甦ってくる。
十二月の純一の一周忌に合わせてボストンの画廊で彼の追悼展がはじまった。
志半ばで無念の死を遂げた若い画家の作品を見ようと、初日から大勢の人々が
会場を訪れた。
パリのコンクールで新人賞に選ばれた『春の海辺』から未完成の最後の作品まで
かつてめぐみが評したように、どの絵にも人の心を和ませてくれる何か不思議な
力がある。中でも特に注目を集めたのは、やはり『愛しき女の肖像』だった。
ギャラリーの中央を飾るこの50号の大作の前で人々の足は釘づけになる。
作品の素晴らしさも然ることながら、主催者のポール・ビショップによって
明らかにされた、この絵に纏わるエピソードに誰もが心を動かされた。
ポールは初日の挨拶の冒頭、この追悼展は若くしてこの世を去った二人の芸術家
に捧げるものであると述べ、仁科純一の経歴と伴に『愛しき女の肖像』のモデル
がピアニスト有賀めぐみだということ、そして会場を流れるBGMがアレックス
ジョンソンによって編集された彼女の生前のピアノ演奏であることを紹介した。
裸婦のモデルと画家との関係についてあれこれと誤った憶測が流れることを危惧
したポールは健介の了承のもと、モデルの名前の公表に踏み切った。
彼に依存はなかった。いや、もし莉江からこの絵に秘められた真実のエピソード
を聞かされていなければ、二の足を踏んでいたかもしれない。
だが今の健介には、めぐみに身を焦がすような恋情を抱いていた純一と、その
一途な想いに応えた彼女の心情を素直に受け入れることができる。
ポールは挨拶の最後に、『愛しき女の肖像』の貸与を快諾してくれた所有者に
感謝の意を表した。が、本人の希望ということで名前を明らかにはしなかった。
ただ、健介には彼がアレックスの友人でこの絵を心から愛し大切にしている
人物だと教えてくれた。
藤森からこの絵を取り戻そうとした時、すでに日本のある資産家の手に渡って
いた。パリの画壇で話題になったとは言え、無名の画家の絵が破格の値段で
買い取られたことが不可解でならないと、当時藤森がしきりに首を捻っていた
のを覚えている。音楽家アレックスの友人で、この絵をこよなく愛する
資産家の日本人・・・ 所有者が、木戸崇之であることを健介は確信した。
(とっても綺麗でしょ、めぐみさん…)
「ああ… 純一君て、すごい絵、描いていたんだな…」
(うん、特にこの絵には髪の毛の一本一本から爪の先に至るまで、彼の魂が
籠っているもの)
莉江は羨望の眼差しでめぐみの肖像を見上げた。
(いったい、どんな人が所有者なんだろ?…)
「さあ? でもきっと、この絵を一生手放すことなく大切にしてくれる人だと
思うよ」
(ねえ、もしもよ、その人がこの絵をあなたに譲ってくれるって言ったら、
どうする? やっぱり、自分のそばにずっと大切においておく、よね?)
躊躇いがちに聞く莉江に健介は静かに首を横に振った。
「君と出逢う前ならそうしたかもしれない、けど… 今の俺にはこの絵は必要
ないさ。今日限りで見納めにしておくよ」
(ケン…)
それは、健介の本心だった。
自分と同じように全身全霊でめぐみを愛しながら一度ならず二度までも、彼女と
引き離される運命にあった木戸崇之こそ、この絵のオーナーに最も相応しい
人物であろう。そして、個展会場の中央に展示されるこの絵の姿を見ることなく
逝っためぐみも、彼の手元に置かれ静かに愛でられることを望んでいるに違い
ない。絵の中の『愛しき女』にそっと別れを告げると莉江の手を取り
追悼展の会場をあとにした。
* * * * * * *
「タカユキ、今回は本当にありがとう。君のお蔭で素晴らしい追悼展になったと、
ポールも心から感謝しているよ。あの絵があるとないとじゃ、やっぱり大違い
だからな」
アレックス・ジョンソンは嬉々として親友の手を握った。
ヨーロッパへ向かう途中ボストンに立ち寄り、ひっそりと追悼展を訪れた崇之は
チェスナッツ・ヒルのアレックスの自宅に招かれていた。
「いや、君の音響効果も抜群だったよ。あの絵の前で、まさか彼女のピアノが
聴けるとは思わなかった」
「ポールからモデルの名前を公表すると聞かされて、どうしてもメグのピアノを
ギャラリーに流したかったんだ」
「そうか… それにしても、彼はいい絵を描いていたんだな」
仁科純一の作品をじっくり鑑賞するのは今度が初めてだった。
「ああ、パリで一気に才能を開花させ将来を期待されていただけに、本当に
惜しいことをしたと、ポールも嘆いていたよ」
「君は彼と面識があったのかい?」
「うむ、リズのところで二、三度…」
少し言い難そうにするとアレックスは窓の外に目を遣った。
有賀健介の快気祝いのパーティーでめぐみに熱い眼差しを注いでいた青年の
切なげな表情が彼の脳裏に浮かぶ。
「タカユキ、実は… 君に黙っていたことがあるんだ」
「?…」
「この前、聾唖の若い日本人女性がこの辺に住んでいないかって、聞かれた時、
曖昧な返事をしただろ… 実は彼女、その青年画家のフィアンセだったんだ」
「彼女が!?」
「ああ… 二人がパリからケープへ来てすぐの頃『リズの家』で会ったことが
ある。人妻への想いを断ち切るために行ったパリで、皮肉にも彼女と瓜二つの
女性とめぐり逢い恋に落ちた。ありえない話じゃないよな。けど、その話はそれ
だけじゃないんだ… 彼女、この追悼展が終わると結婚することになっている。
その相手というのが、実は… ドクター・アリーガなんだよ」
アレックスは再び視線を窓の外に移した。
(彼女が、有賀健介と…)
崇之は驚きを隠せなった。
父親と死別後、パリを離れボストンでアメリカ人医師と暮らしていることは
雅子から聞いていた。だが、それ以外の莉江の私生活はほとんど知らない。
「初めて彼女を見た時、あまりにもそっくりなんでドキッとしたよ。
年恰好も亡くなった頃のメグと同じで、雰囲気もとても似ている。それで、
何となく君に言いそびれてしまってね…」
済まなそうに言った。
「そうか、そうだったのか… けどもう、そんな心配なら無用だよ、アレックス。
いくら姿形が似ていても、彼女は君の知っているピアニストのメグでも、僕の
愛した亜希でもない。それに、彼女は……」
莉江と日本で偶然再会し、彼女が遠縁にあたることを話した。
「へえー、人の世にもそんな小説の世界にしか存在しないような不思議な縁とか
運命みたいなものがあるんだなぁ、 でもそれを聞いてちょっと安心したよ。
今もし、目の前にアイリーンと瓜二つの女が現れたら、自分ならどうするかと、
考えてみた。そしたら、君が彼女をめぐってケンと刃傷沙汰にでもなりゃしない
かと、内心冷や冷やもんだった!」
アレックスは悪戯っぽく笑った。
「もうそんなに若くはないよ。今の僕の中にはあの頃のような情熱は残っちゃ
いないさ…」
崇之は苦笑すると遠くに想いを馳せるように冬空をみつめた。
有賀健介から亜希を奪い返すことに情熱を燃やしていたあの頃、彼女を夢中で
愛した遠い日々が、頭の中を走馬灯のように駆け巡った。




