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Samsara~愛の輪廻~Ⅴ  作者: 二条順子
33/61

33.『愛しき女の肖像』(1)

「純一君の個展の話、正式に決まったそうだよ」

(ほんとに? じゃあ、〝あの絵” 見つかったんだ…)


ポール・ビショップは、純一の一周忌に彼の生前の悲願だった個展を開く

計画を立てていた。パリの若手三人展で実際目にし、絵に纏わるエピソードを

純一から直接聞いていたポールは『愛しきひとの肖像』を彼の追悼展に

ぜひ展示したいと、その行方を四方八方手を尽くし探していた。


「うむ、なんでもあの絵の所有者がやっと見つかって、追悼展の話をしたら

期間中だけ貸し出すことを快諾してくれたそうなんだ」

(そう、あの絵が純の個展に… よかった)

莉江は感慨深そうな表情を浮かべた。

(きっと天国で喜んでいると思う。めぐみさんとの約束が果たせて…)

「約束って?」

(純がね、めぐみさんに絵のモデルを頼んだ時、彼女こう言ったそうなの…

将来、個展を開いた時、その絵をギャラリーに展示してくれる事を約束して

くれるなら、モデルになってもいいって。彼、その言葉を励みに、絶対

個展を開けるような絵描きになってやろうと思ったそうなの)

「そっか、そんなエピソードがあったのか… けど、あの絵は確か、メグが

亡くなった後の作品だろ? と言うことは、実際はモデルにならなかった

わけだ」

健介はほっとしたような表情を浮べた。

彼はまだ『愛しき女の肖像』を目にしたことはない。が、タイトルからして

純一がめぐみに熱い想いを寄せていたことは想像できる。例え芸術性の高い

作品とは言え、妻が裸婦の肖像画のモデルであることに心のどこかで抵抗が

あった。

(うん、実はそうなの。あれは、実際にモデルのめぐみさんを目の前にして

描いた作品ではないの、でも… )

純一が打ち明けてくれたあの絵に隠された真実のエピソードを話すべきか

どうか、莉江は迷った。だが健介が絵を目にすれば、純一がめぐみのことを

どんなに愛していたか、想像の中のイメージだけであれだけ見事に彼女の

美しさを表現するのは不可能なことは一目瞭然になる。


(ケン、あなたがあの絵と対面する前に、私が今から話すことをどうしても

知っておいてほしいの… )

「……」

(実はね、二人はたった一度だけ結ばれていたの…)

莉江は意を決したように切り出した。

(… 純は、めぐみさんのことが死ぬほど好きだった。でもそれは、彼の

一方的で密かな片想いに過ぎなかった。そのどうしようもない苦しくて

激しい恋心をキャンバスにぶつけていた。そんな切ないまでに一途な純の

想いに気づいたいためぐみさんは、彼の絵のモデルになることを承諾した。

でも、その時すでに彼女の身体は白血病に侵されていた。

死を覚悟しためぐみさんは抗癌剤の治療を前に、病魔に蝕まれる前の健康な

身体を純の記憶の中に五感の中に残しておいてほしい、そしていつの日か

キャンバスの上に蘇らせてほしいと、綺麗な裸体を彼の前に差し出したの…)

(メグ…)

病魔と壮絶に戦っていためぐみの姿が健介の脳裏を過ぎった。


(でもね、ケン、めぐみさんは決してあなたを裏切ったわけじゃない。

彼女、きっぱりこう言ったそうよ『純一君のことは好きだけど、夫の

ことを世界中の誰よりも愛しているから、あなたとはもう二度と逢えない』

って。そして、その言葉通りその日を最後に二人は二度と再び逢うことは

なかった… 私、この話を純から聞いた時、めぐみさんて、なんて素敵な

女性なんだろうって、思ったわ」

莉江は天を仰いだ。


「ありがと、全部話してくれて… あの絵の存在を知った時、正直言って

俺、心のどこかで彼女のこと疑っていた。だから、なんとなくあの絵を

見るのが怖いような気がしてた。これで何の拘りもなく絵の中のメグと

向き合えるよ。そして、彼女に報告できる、『君と同じくらい素敵な

女性とやっとめぐり逢えたよ』って」

(ケン…)

「個展が終わったら婚姻届を出そう。今までちゃんと言ってなかったけど… 

莉江、俺と結婚して下さい」

健介からの正式なプロポーズに莉江は満面の笑みを湛え頷いた。



* * * * * * *  



「じゃ、くれぐれも慎重にお願いしますよ」

「お任せ下さい、我々は絵画・美術品の梱包と発送のプロですから」

二人の男たちは手早く50号の油絵をトラックの荷台に乗せると、

ゆっくりと坂道を下りて行った。


部屋に戻った崇之は、空白になった白い壁を眺めた。

一か月間とは言え『愛しき女の肖像』が自分の手元を離れ海を渡って

行くのは、やはり淋しかった。

あの絵の購入を依頼した知り合いの画商から、あるアメリカ人画商が

絵の行方を捜している、できれば買い戻したいという話が寄せられた。

あの絵を手放す意思など毛頭ない崇之は即座に断った。

そんな彼の心を動かしたのはアレクッス・ジョンソンから届いたメール

だった。その画商がアレックスの知人であり、あの絵を描いた日本人

画家を見出した人物であること、さらに今は亡きその青年画家の追悼展

の中で彼が生前モデルと交わした、ある 〝約束” を実現させるために

奔走していることを知った。

『愛しき女の肖像』は、そのタイトル通り画家が愛する女を描いた作品

である。若い絵描きが愛する女に寄せる並々ならぬ想いが篭められた

この絵はモデルの際立った美しさとともに、描き手の激しい恋情が

見る者の心にひしひしと伝わって来る。


無名の画家とモデルとの関係についてアレックスは多くを語らなかった。

だが、仁科純一がかつての自分と同様、人妻である亜希めぐみを深く

愛していたことは明白である。そんな青年の一途な想いに応えると同時に、

父親の影響で幼い頃から本物の絵に親しみ彼の才能を見抜いていた亜希は、

モデルになることを引き受けたのだろう。

初の個展を前に無念の死を遂げた若き画家と彼の才能を信じていた亜希の

心情を想い、二人が交わした生前の 〝約束” を実現させるため絵画の

貸与を快諾した。


(ギャラリーの中央を飾る君の姿を拝みにボストンまで行くとするかな…)

白い壁を見つめる崇之の口元から笑みが零れた。


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