03.帰郷
「莉江、富士山が見えてきたよ」
純一に促され窓の外に目を遣った。
雲海の中から霊峰富士がその荘厳な姿を現している。
機内からこの景色を見るのは二度目だった。最初は生まれて初めて父の故郷を
訪ねた幼女の頃、あの時の父も莉江の肩に優しく手をおくと窓の外を指差して
同じことを言った。
「もう、あと一時間くらいだよ。疲れた?」
(ううん、でもやっぱり、なんだか胸がドキドキする)
「心配しなくても大丈夫。うちの親は君が緊張するような相手じゃないよ」
(でも… 気に入ってもらえるかな…)
「こんな可愛い嫁さん、気に入らないなんて言わせないさ」
両親との対面を前に不安そうな表情を浮かべる婚約者の肩を純一は優しく抱き
寄せた。
莉江の心中は不安でいっぱいだった。十年ぶりに再会する息子が身体障害者
の結婚相手を連れて帰って来る。いくら事前に知らされているとは言え、親は
尋常ではいられないだろう。実の母親でさえ我が子の障害を受け入れられず
逃げ出したのだから。
(純、ご両親は私の障害のこと、ほんとうに納得されているの?)
「うむ、親父なんか手話のDVD買って猛練習してるらしい。お袋は…
最初はちょっと驚いたようだけど、今はわかってくれてる。ただ、君の前の
結婚のことは話してない。とにかく、できるだけ早く入籍しよう」
当初二人はボストンにある日本領事館で婚姻手続を済ませるつもりでいた。
だが、戸籍謄本をそれぞれの本籍地から取り寄せるのに時間がかかるため、
日本で入籍することにした。莉江の本籍地は父親の実家のある芦屋市で、
純一の両親の住む同じ京阪神にある。冬梧は一人息子で数十年前に母親が
亡くなり実家の屋敷はすでに人手に渡っているが、芹澤家の墓が近くにある。
「週明け一番に芦屋の市役所へ行って、夜は六甲のホテルに泊まろう。
神戸の夜景、綺麗だぞ」
(そのホテルなら子供の時に家族で泊まったことがあるわ。
祖母のお墓参りもできるし、よかった)
幼い頃一度会ったきりだが祖母は優しい人だった。
機体が着陸態勢に入りあと数分で関西空港に到着することを機内アナウンス
が告げた。
* * * * * * *
二人が家の前でタクシーを降りると、両親が玄関の外で並んで立っていた。
白髪交じりの髪をショートにした母幸子と、前髪がすっかり後退した父の
修二の姿に純一は十年という歳月を感じた。
(じゅん、おかえり、りえさん、はじめまして、じゅんいちのちちの、
しゅうじです、これは、ははの、さちこです どーぞ、よろしく!)
二人の到着を待ち構えていた修二がいきなりたどたどしい手話で挨拶した。
「もう、お父さん言うたら、毎日毎日アホのひとつ覚えみたいに、これ
ばっかり、練習してたんえー」
幸子が呆れたような顔で傍らの夫を見た。
『はじめまして、芹澤莉江と申します。どうかよろしくお願いします。
お父様の手話、とてもお上手で感激しました。』
手話での返答にぽかーんとしている修二に、莉江は筆談用のボードに書くと、
丁寧にお辞儀をした。
「二人とも長旅で疲れたでしょ。さあさあ、まあ、ともかく中に入って
ちょうだい。莉江さん、狭い家やから、びっくりせんといてね」
幸子は二人を家の中に促した。
「うわっ、すっごいきれいに片付いてるやんか!」
純一は八畳ほどのリビングルームを見廻した。
「せやろ、掃除の苦手なお母さんが、そら、びっくりするくらいいっしょ
けんめ、きばりよったんやでぇ」
修二は隣の妻をちらっと見た。
純一がいた頃はいたるところに物が散乱していたリビングは見間違えるほど
きちんと整頓されていた。真新しいソファが置かれテーブルの上には部屋に
不釣り合いなくらい立派な花のアレンジメントが飾られている。
父も母もそれぞれに、遠路はるばるやって来る息子の嫁をなんとか暖かく
迎えてやろうと一生懸命なのがひしひしと伝わってくる。
「せやけど、ほんまに素敵なお嬢さんやね。上品で清楚で京人形みたいに
かいらしいわ~ 私の若い頃そっくりや。なあ、お父さん?」
「おまえ、それはなんぼなんでも莉江さんに失礼やで」
「それ、どういう意味やの?」
掛け合い漫才のような二人のやり取りに、莉江は思わずくすっと笑った。
緊張が解きほぐれたような彼女の笑顔に純一もほっとした。
「いや、ごめんね。莉江さんこっちの言うてること全部わかるんやったね。
ほんま、それって凄いことやわ。字もこんな達筆やし、なあ、お父さん?」
「ほんま、たいしたもんやで。これがフランス人の娘さんやったら、
こっちの言うことも全然わからへんやろし、フランス語で言われても書かれ
ても、こっちかて、さっぱりやしなぁ。耳の不自由なことなんか、なんにも
気にすることないよ、莉江さん」
二人の暖かい思いやりに莉江は深々と頭を下げ感謝の気持ちを示した。
さっきまでの笑顔が消え彼女の瞳が潤んでいる。
最初は二人とも、特に母の幸子が相当ショックを受けていたと、姉から
聞かされた。ここまで来るのに、父も母も親としてそれぞれ心の葛藤が
あったにちがいない。障害を持つ嫁を快く受け入れ、十年ぶりの息子の
帰りを歓迎してくれる両親の優しさが身に染みた。
翌日二人は冬梧の実家があった芦屋に向かった。
芦屋市は兵庫県の南東部に位置し大阪と神戸のほぼ中間にある。
古くから山側に豪邸が立ち並び阪神間の高級住宅地として知られている。
北に六甲山、南に大阪湾を臨む風光明媚な南傾斜地に芹澤家代々の墓が
あった。
『莉江さんは 〝ええとこのお嬢さん” やったんやねぇ…
純、びっくりせんときや、あそこら辺は関西の田園調布と呼ばれてて
桁外れの豪邸ばっかりえー』
純一に耳打ちした母の言葉を思い出した。
確かに、ここに来るまでのタクシーの車窓に飛び込んで来る街並みは、
広大な敷地、洒落た外観のまさしく 〝豪邸” が立ち並んでいる。
「やっぱり莉江は、〝ええとこのお嬢さん” やったんやぁ~」
幸子の口真似をして純一は可笑しそうに笑った。
(なーに、それ?)
「お袋がね、莉江は仁科家なんかにはもったいないお嫁さんで、俺は
超幸せ者だって、言ってた」
(とんでもないわ。純のご両親も、お姉さんのご家族もほんとうに
優しい人たちで、私こそ世界一の幸せ者です!)
莉江は輝くばかりの綺麗な笑顔を見せた。
二人は六甲の山頂にあるホテルに泊まり、ポートアイランドや異人館、
南京町など神戸の名所巡りをしながらのんびりと週末を過ごした。
月曜の朝、莉江の戸籍謄本を取るため市役所を訪れた二人は、そこで
衝撃的な事実を目にする。莉江の戸籍の中に協議離婚したはずの
藤森の名前が夫として記載されていた。戸籍上二人はまだ婚姻継続状態に
あることになる。だが、半年前パリの日本大使館で署名捺印した離婚届が
受理されたのをはっきり確認していた。
戸籍係の窓口で事情を説明したが、なかなか埒があかない。
対応した職員は、在外日本大使館や領事館で婚姻届けや離婚届を提出した
場合、手続き上時間がかかる事もあり、提出先の大使館に問い合わせる
事を助言した。
莉江の離婚成立を確信していた純一はその時、入籍が少々遅れることを
それほど重大な事実として捉えていなかった。
両親には婚姻届を提出したと報告し、二週間の日本滞在を終えた二人は
帰途についた。