23.苦渋の決断
「これが、EKGと超音波の結果よ」
ケーリー・モーガンは心臓内科から送られて来た莉江の不整脈の検査結果を
健介に手渡した。
「やはり、心房細動か…」
健介の予想が的中した。
心房細動による不整脈は即、生命に危険を及ぼすものではないが、心房細動の
状態が長く続くと左房の中にできた血栓が心臓から飛んで頭、臓器、手足など
で詰まり『血栓塞栓症』という合併症を引き起こす。また心臓の機能が低下し
心不全に至ることもあるため適切な治療を受ける必要がある。
「波形の乱れも大きいし、脈拍数も200近いわ」
主治医は悲観的な表情を浮かべた。
莉江に診断が下った発作性心房細動は、突然動悸が始まり脈拍数が150以上
になるため血圧が低下してめまいや激しい息苦しさを感じる。
治療法は薬剤投与が主体になるが、妊娠中の投与はリスクが大きいため有効な
薬剤の種類と量がかなり制限される。
「ケリー、君の率直な意見を聞かせてくれないか?」
健介は努めて冷静に言った。
「きびしいわね…
ドクター・シモンズの所見にあるように、私も莉江の場合は、早急かつ有効な
投薬治療が必要だと思う。妊娠後期になれば大きくなった子宮によって心臓が
圧迫されるから、最悪の事態を避けるためには出産後まで待つなんて悠長な
ことは言ってられないわ。それに、もしHIVがポジティブと出ればAZTの
投与も即、開始しなければならないし。その場合、相互関係、副作用のリスク
等、未知数の部分があまりに多くて… はっきり言って、このまま妊娠を継続
することは母体への負担とリスクが大き過ぎると思う」
健介は黙って頷いた。
医者としてベテラン産科医と循環器系の専門医の意見はもっともだと思う。
「ケン、あなた前に言ったわね、もし究極の選択を強いられるような事態に
なった場合、躊躇うことなく莉江の命を優先させるって。辛いでしょうけど、
今がその時かもしれないわ」
同僚医師は伏し目がちに言うと健介の肩に手を置いた。
* * * * * * *
莉江はガラス張りの新生児室の前に佇み中の様子を窺っていた。
健介に気づくとにこやかに手招きをした。
(見て、あんなにちっちゃくてみんな同じように見えるのに、よく見ると
一人一人、もうちゃんと個性を持っているみたい…)
ガラスの向こうに並ぶ新生児たちに優しい眼差しを注ぐ横顔は穏やかで、
母になる悦びに満ちている。
健介は目を背けたくなった。自分がこれから伝えなければならない事実は
この綺麗な顔から一瞬にして笑顔を奪い、悲しみのどん底に突き落として
しまう。健介の下した苦渋の決断は、やっと心の平安を取り戻した莉江に
余りにも残酷過ぎる。
(どうかしたの? ドクター・モーガンとのお話長引いていたようだけど、
検査の結果、良くなかったの?)
健介の表情を見て取った莉江は心配そうに彼の顔を覗きこんだ。
「ちょっと、屋上に上がってみないか? 今日は涼しいからきっと気持ち
いいぞ…」
質問に応えようとしない健介の様子に莉江の顔に不安が過ぎる。
昼休みの終わった午後の屋上はひっそりと人影がなかった。
じりじりと照りつけるような真夏の太陽が姿を消し、頬にあたる風に秋の
気配が感じられる。手すりに肘をつきチャールズ・リバーをじっと眺めて
いた健介は意を決したようにベンチに座る莉江の方に向き直った。
「莉江、これから説明することを良く聞いてほしい…」
(悪い知らせ、なのね?)
「うむ……」
静かに頷くと莉江の前に腰を下ろし両手で彼女の手をしっかりと握りしめた。
健介の唇の動きを追う莉江の瞳がみるみるうちに涙でいっぱいになった。
(いや、いやよ、そんなの絶対いや!)
莉江は激しく頭を左右に振った。
(私、治療を受けなくても大丈夫だから、頑張れるから、お願い…)
縋るような目をして健介の顔を見つめた。
「すぐ治療を受けなければ大変なことになるんだ。たのむから、
わかってくれ!」
抱き寄せようとする健介の身体を莉江は思いっきり突っぱねた。
(あなたは平気なの? 頭も足も手もあって元気に動いているのよ。
身長だってもう15センチにもなる、ちゃんとした人間なのよ。
この子は、エイズになるかもしれない、耳が聞こえないかもしれない、
だから、闇に葬ってもいいって言うの!?)
莉江の目から大粒の涙が溢れた。
「そうじゃない! 平気なわけない、そんなわけあるはずないだろ!」
健介は思わず声を荒げた。
「俺だってたまらない… けど、君の命には代えられない! もう、
もう二度と…」
絶句した健介は深くうな垂れた。
めぐみの死、愛する女との辛い別れが彼の脳裏を過ぎり、
彼女を守ってやれなかった無念の想いが胸に去来する。
「…愛しているんだ、君は俺にとって何ものにも代えがたい大事な
存在なんだ… もう、二度と愛する女を失いたくない…
分かってくれるね?」
潤んだ瞳で訴えかけるように見つめる健介に、莉江はこくりと小さく
頷いた。




