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Samsara~愛の輪廻~Ⅴ  作者: 二条順子
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22.莉江の決心

(あの 〝フクロウ” 私たちのこと、妬んでヤキモチを焼いたのかも

しれないね…)

莉江は傷跡の残る手、幸福を齎す(もたら)と言われるノートルダム寺院の

フクロウに触れた左手を空に向かって掲げた。

その顔からは苦悩の色が消え穏やかな微笑さえ浮かんでいる。


(小さい頃ね、オシとかツンボとか囃されて近所の子供たちから虐められたり、

返事をしない私を生意気だって大人から叱責されて落ち込んでいる時に、

父はいつも明るく言うの。神は誰にでも試練を与えるような真似はしない。

莉江は神に選ばれた特別な子なんだから、あんな悪ガキや馬鹿な大人のこと

なんか相手にするなって。私って、かなりの単細胞だったのね、その

『神に選ばれた子』って言い方が凄く気に入ってしまって、自分の障害のこと

不思議なくらい気にならなくなったの)

莉江はくすっと笑った。


(思春期になって初めて両親が離婚した本当の理由を知ったわ。

母の残していったピアノの前で鍵盤を弾じく父の淋しそうな姿、私の前では

決して見せない悲しそうな顔、それまで何度が眼にした光景が自分の障害の

せいだったなんて、もの凄いショックだった。あの時ほど自分の障害を憎んだ

ことはなかった。だって、私さえ生まれてこなければ、愛し合って結ばれた

二人が別れることはなかったわけでしょ。そのとき思ったの、将来、もしも

愛する人が現れて結婚できたとしても、私は絶対子供を産むべきじゃないって…

だから、純とめぐり逢って妊娠した時、最初は喜びよりも戸惑いの方が大き

かった。だけどやっぱりどうしても生みたいと思うようになった。だから、

あの時は本当に悲しかった…)

思い出したようにぎゅっと唇を噛みしめた。


(最悪の場合、私はこの子に聴覚障害とエイズという二重の苦しみを背負わせて

しまうかもしれない。それが分かっていながら産むなんて、私の我儘、エゴだ

って言われるかもしれない。あなたにも苦しい思いをさせて迷惑いっぱいかける

かもしれない。でも、でもやっぱりどうしても産みたい!)

莉江は凛とした表情で健介の目をじっと見つめた。


悩み苦しみ抜いた末に莉江が示した固い決意に健介は何度も頷きながら、

彼女を抱きしめた。



* * * * * * * 



仕事帰り久しぶりにマリエの店に足を運んだ。

決意を明らかにして以来、莉江は吹っ切れたように前向きに毎日を過ごして

いる。HIV感染の不安や恐怖心を抱えながら心配をかけまいと気丈に振る

舞う姿が健介にはいじらしかった。


「可哀想に莉江さん、とんだ災難だったね… けどさ、三ヶ月も経たないと

はっきりしないっつうのは酷な話だよね。これからの一か月、まるで針の

ムシロに座らされているようなもんじゃないか。感染したらすぐ分かる

ような、なんか症状みたいなもんは出ないのかい?」

マリエはもどかしそうに聞いた。

「感染後に、熱っぽいとか身体が気だるいような風邪に似た症状が出ることも

ある。ただ、莉江の場合ちょうど妊娠初期のつわりの時期と重なっているから

なんとも言えないんだ」

HIVの感染の症状は、経過には個人差はあるが強制症状と呼ばれ、感染後約

2~8週間の間にインフルエンザのような症状が一時的にみられることがある。

その後、数年から10年以上症状のない無症候性キャリアの時期を経てエイズの

発症となる。


「そっか、けど彼女、よく決心がついたね。あたしなら、やっぱ二の足踏む

かも…」

「あたしは、莉江さんの気持ち解るわ…」

直美が二人の会話に割って入った。

「女は本気で好きになった男の子供は、どんなことしてでも産みたいと思う

もん」

「それじゃ、まるであたしがもう女じゃないみたいじゃん」

マリエは口を尖らす真似をした。

「ママはまだまだ艶めかしい女ですよ。ただ、本気で好きになった男がいない

だけ!」

「そら、きついなぁ~!」

ペロッと舌を出す直美に関西弁で応酬した。


「とにかく、女は強いよ。それに比べ男なんていかに軟弱な動物かってこと

つくづく思い知らされたよ。莉江には君の気持ちを尊重するなんて格好のいい

こと言いながら、結局は俺、どうしていいのか判らなくて、どっかで逃げて

たんだよな。感染のことにしても、自分にはその可能性がないことに、心の

どっかでほっとしている…」

健介は自嘲気味に言った。

「莉江さんって、見かけは苦労知らずの 〝ええとこのお嬢さん” いう感じ

やけど、障害を持って生まれて、お母さんに捨てられて、藤森みたいな男に

酷い目に合わされて、愛する人に先立たれて… ホンマ、波乱万丈の人生を

送って来たんやね…」

いつになく直美もしんみりとなった。

「けどさ、こんなイイ男にめぐり逢ったんだ、感染って決まったわけじゃないし

これからはきっといい人生になるさ。

さあ、さあ、二人ともそんなしけた顔しないで、莉江さんとケン・ジュニアの

無事を祈って乾杯しようよ!」

マリエは三つのグラスになみなみと酒を注いだ。



* * * * * * * 



「莉江っ!」

マリエの店から帰宅すると、階段の手すりに掴まり苦しそうに蹲っている

莉江の姿があった。額に脂汗を滲ませ荒い呼吸をしながら胸のあたりを

押さえている。


(大丈夫、ちょっと息切れがしただけだから…)

発作はすぐに収まり、何でもないと言うように笑みを浮かべる莉江とは

対照的に、彼女の脈を取った健介の顔は強張った。

「明日、念のために診てもらおう」

(でも、明日は土曜だし、来週はまた検診の予約があるのよ)

「まっ、用心にこしたことはないからな」


健介の言葉に頷いた莉江の顔に不安の色が走った。


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