21.苦渋の選択
「九月の末となると、20週に入ってしまうわね… もし中絶を望むなら、
酷なようだけど一日も早いほうがいいわ。母体へのリスクを考えると、
どんなに伸ばしても16週まで、それがタイムリミットね」
健介の話を聞き終えたベテランの産科医は硬い表情を浮かべた。
ボーヌからの手紙の内容は、二人にとってあまりにも残酷なものだった。
莉江が話していた例のティーンエイジャーたちの喧嘩騒動で彼女が手の甲に
傷を負わされた相手の少年が、HIV感染者であることが判明した。
HIVウィルスは性交渉や輸血のみならず傷口や目の粘膜などから侵入する。
あの日、同じように少年の血液を顔面に浴びたピエールは、莉江に感染の
可能性を警告し血液検査を受けることを忠告してきた。
ただ、HIVに感染しても体内に抗体ができるまで6~8週間かかるため、
血液検査で感染の有無を正確に判定するには、感染した可能性のある日から
3か月を要する。HIV感染が即エイズの発症には繋がらない。
感染が確定した時点で適切な治療、抗ウィルス薬の投与によってエイズ発症の
次期を大幅に遅らせることができる。
現在では抗HIV薬の研究が進み、特に治療の受けやすい先進国においては
HIVは、もはや糖尿病のようなコントロール可能な慢性疾患の一つと考えられる
ようになった。今ではエイズは一昔前のような死に至る不治の病ではなくなって
いる。ただ、妊娠中の母親から胎児への母子感染の可能性があり、その確率は
25%~30%とされている。
「もし、もしも莉江が感染してるとして、このまま妊娠を継続する場合、
AZTの投与は胎児にどのくらい有効なの? それによる将来的な子供への
副作用のリスクは?」
健介は莉江の主治医、ケリー・モーガンに矢継ぎ早に質問をぶつけた。
AZTは、エイズの治療として有効な抗レトロウィルスである。アメリカでは母子
感染予防のためHIVに感染している妊婦に一般的に投与されている。
「妊婦へのAZT投与による胎児への感染防止率は60%以上とされているわ。
ただ、AZTの投与を受けた母体から生まれた子供への副作用のリスクや、
将来的な影響に関しては、まだまだ追跡データが不十分なため何とも言い
難い、判らないのが現状なの。それに、新生児は母親の抗体を引き継ぐから
独自の免疫システムが確立する、生後6ヶ月から18ヶ月くらいまでは、
感染の有無は確定できない。したがって、残念なことに母子感染の子供の
エイズ発症率は通常よりもぐっと高くなってしまうのよ」
「……」
健介は宙を仰ぎふーと息を吐いた。
「過去に一度ね、HIV感染者の妊娠・出産を手掛けたことがあるの。
赤ちゃんは無事に生まれて、もう小学生になるかしら…
お母さんの方もエイズを発症することなく今も元気に日常生活を送っているわ。
我々医療スタッフはどんな事態にも対処できるよう常に万全な体制で患者さんを
ケア、サポートするから分娩に関しては通常の場合とそんなに変わりはないの。
ただね、問題はメンタルな面、お腹の赤ちゃんが感染しているのではないかと
いう恐怖心と闘いながら、無事に妊娠期間を乗り切って出産に漕ぎつけるのは
並大抵のことじゃない。相当な精神的エネルギーが必要になるわ。
この部分に関しては私たちはどうすることもできない。本人の強い意思と
精神力、それにパートナーに任せるしかないのよ」
ドクター・モーガンの言葉に健介は静かに頷いた。
「彼女相当まいっているようね。血圧も良くないし体重も前回よりおちてる、
無理もないけど…」
数日前の検診時のカルテと見比べながらケリーは溜め息交じりに言った。
極度のストレスは妊娠中のデリケートな身体にすぐに反映する。
実際、莉江のショックは大きく食事や睡眠が満足に取れない状態が続くため、
隣室で点滴治療を受けている。
「ケン、あなた自身はどうなの?」
ケリーは静かに質問を投げかけた。
「正直言って、俺も彼女同様、まだショックから立ち直れない状態なんだ。
医者を何年もやってて、恥ずかしい話だけど…」
健介は乾いた笑みを浮かべた。
「医学の進歩って言うのは、時には残酷なものだってことを今回痛感させられた。
僅か14週の我が子の動き回る姿が、豆粒ほどの心臓が確かな鼓動を繰り返す
様子が、あんなに鮮明に映像化されるんだからね。あれを目の当たりにしたら、
人工的に子供の命を抹殺するなんてこと、親ならとても……」
健介は言葉に詰まった。
「けど、その一方で感染の可能性、本人が将来、世間の偏見、感染症や死の恐怖
に苛まれる実情を熟知しながらエイズの十字架を背負わさせてまで我が子を
この世に送り出すことが、親としてはたして正しい選択なのかどうか…」
苦渋に満ちた表情を浮かべた。
「正直言って、どうしていいか、どうするべきなのか判らない。
ただ… これだけは俺の中ではっきりしているんだ。究極の選択を強いなければ
ならない時が来れば、その時は迷うことなく彼女の命を優先させたい」
健介はきっぱりと言った。
「分かったわ、ケン。どちらにしても辛い決断になるわね… でもいずれにせよ、
私は主治医として、あなたたち二人の出した結論を全面的に支持しバックアップ
するつもりでいるから」
「ありがとう、ケリー。よろしくたのむよ」
二人は固い握手を交わした。
「さあ、そばに付いてておあげなさいな。もうすぐ点滴が終わるわよ。
彼女に今一番必要なのは、パートナーのやさしい愛情よ」
同僚医師の言葉に大きく頷くと健介は莉江のいる隣室へと向かった。
莉江はベッドの上で静かに眠っていた。
ほんの数日前までは母になる喜びに輝いて顔は痛々しいほどに窶れてしまった。
点滴に繋がれた左手の甲に二か月前の傷跡がまだくっきりと残っている。
いくらエイズが恐ろしい病気ではなくなったとはいえ、世間一般の認識はそう
ではない。今もなお間違った知識、感染者に対する偏見や差別が根強く残って
いるのが現状である。
声を上げて泣き叫ぶことも喚き散らすこともできない莉江は、感情を身内に
秘めじっと耐えている。
「いっしょに頑張ろうな…」
お腹の子共を守るように下腹部にしっかりと当てがわれた莉江の手に自分の
手を重ね合わせた。




