20.ボーヌからの手紙
"Alright! it’s a boy!"
大きな歓声を上げると勢いよく車のクラクションを鳴らした。
「あの様子からすると、将来は絶対プロのアスリートだな。MBL、いや、
MFLもいいかもな…」
歓びを露わにハンドルを握る健介の様子を助手席の莉江は嬉しそうに眺めて
いた。
今日の検診で子供の性別が判明した。胎盤が完成し羊水の中で活発に動き回る
様子が超音波画像診断のモニターにはっきりと映し出された。
十四週の胎児はすでに人間の姿を形成している。子宮の中で確実に成長を続けて
いる我が子の映像を目にして、二人は新鮮な感動を覚えた。
「男の子だってさ、おまえに弟ができるんだぞ!」
主人の帰りを待ちわびて足元に駆け寄って来たノーラを抱き上げた。
「君に手紙が届いてるよ」
ダイレクトメールや請求書の郵便物の束の中に莉江宛の封書があった。
(ボーヌの病院のピエールからだわ、なんだろ…)
莉江は訝しげに封書を手に取った。
「ラブレターじゃないのか? 彼、言ってたぞ、莉江は若いドクターたちの
間で凄い人気があるって…」
(そんなわけないでしょ。それに、私の好みは若いドクターより少々くたびれた
中年のドクターだから!)
「こいつ、言ったなあー!」
ぺろっと舌を出す莉江の頭を拳骨で押さえつける真似をした。
「そう、この中年ドクターは君に夢中なのさ…」
莉江の躰を抱き寄せると、突然ポケットの中の携帯の着信音が鳴り響いた。
急患が入ったという病院からの連絡だった。
”Damn it!”
健介は携帯電話を恨めしそうに睨みつけ握りつぶすような恰好をした。
「この埋め合わせに、帰りに飛び切り上等のブルゴーニュ産のワインを買って
来るよ。君も少しくらいなら大丈夫だから」
(じゃあ、何か美味しいもの作って待ってるね)
「〝ディジョンの夜” のようなロマンティックなのがいいな!」
大げさに片目を瞑り額に口づけすると健介は慌ただしく病院へ引き返した。
後姿を見送りながら莉江は健介を愛してる自分を実感した。
藤森との悪夢のような結婚生活、そこから救い出してくれた純一との愛は、
あまりにも短く、切なく、まるでシャボン玉のように儚く莉江の前から消え
去った。戸惑いと躊躇いの中で静かに育んできた健介との愛は、彼の子を
身ごもり、彼の優しさ逞しさに包まれ日ごとに確かなものになってゆく。
健介との平穏な生活を享受し喜びをかみしめながらも、莉江は心のどこかで
純一に対する後ろめたさを感じている。そして、いつか必ず天罰が下るのでは
ないかという漠然とした不安が常に付き纏う。
(ノーラ、幸せ過ぎて、なんだか怖いの… ほんとうに幸せになっても
いいよね? 純もきっと許してくれるよね?)
心の不安を打ち消すように莉江は力いっぱい白い犬を抱きしめた。
* * * * * * *
「うーん、いい匂いだな!」
帰宅した健介はキッチンに来るといきなり鍋の蓋を開けた。
「これ、例のブフ、何とか言う牛肉の煮込み料理?」
(そう、シャロレー牛の代わりにアメリカン・ビーフを使ったブフ・
ブレギニョンよ)
「じゃあ、これにピッタリ合うな」
おもむろに赤ワインのボトルを莉江の前に差し出した。
(ピノ・ノワールじゃない! よく手に入ったわねえ)
「ボストン中の酒屋に片っ端から電話を入れてやっと見つけたんだ。
記念すべき 〝初夜” のためにね!」
(いやーだ、ケンったら…)
頬を赤らめ健介の肩をぽんと叩いた。
「あれ、まだ読んでなかったの?」
二階に上がりかけた健介はリビングのテーブルの上に置かれた例の封書が
未開封なのに気づいた。
(いけない、忘れてたわ…)
直ぐに料理に取り掛かった莉江はボーヌからの手紙の事をすっかり忘れて
いた。
「莉江、どうしたんだ!?」
リビングに戻って来た健介は顔面蒼白で金縛りにでもあったように呆然と
している莉江の姿に思わず声を上げた。
「悪い知らせなのか? いったい何があったんだ?」
何も応えようとせず手紙を握りしめたままテーブルの上に泣き伏した。
その只ならぬ様子に健介は手紙を取り上げた。
"Oh,my God..."
研修医からの手紙の内容を理解した健介の口元から驚愕の声が洩れた。




