02.白い子犬を抱く女(2)
純一はふと、三年目にタイムスリップしたような不思議な錯覚に陥った。
彼の眼前にはべイ・ウィンドーに凭れかかる愛する人の美しい立ち姿がある。
このアトリエも、眼下に広がる雄大な海の景色も、あの頃と何も変わっては
いない。ただ愛しい女は、もはや叶わぬ恋の相手でも人妻でもない・・・
めぐみと瓜二つの美しい容姿を持つ女、芹澤莉江と出逢ったのは今から一年
程前になる。パリでの生活にも慣れ純一は精力的に創作活動に勤しんでいた。
彼の才能は周りからも徐々に注目されはじめ、若手の画家たちの三人展を開く
話が持ち上がった時、その中の一人に選ばれた。
出展作は、迷うことなく『愛しき女の肖像』に決めた。
めぐみの死を知ったのはパリに来てから半年くらい経った頃だった。
直後からこの50号の大作に取り組み、一年以上をかけて丁寧に完成させた
彼の渾身作である。
窓辺に佇む裸婦の美しい立ち姿、愁いを含む綺麗な横顔、少女のような可憐さ
と大人の女の魅力を併せ持つ独特の雰囲気が一躍注目を浴びる。だが、話題を
呼んだのは作品の素晴らしさだけではなかった。
絵のモデルがフランス在住の日本人画家、芹澤冬梧の娘にそっくりだという
噂が画家や画商の間に広まった。
そんな中この絵を買い取りたいと、画商で冬梧の娘の婚約者だと名乗る男が
個展会場に現れた。娘の裸体が公衆の面前で晒されることに嫌悪感を抱いて
いる冬梧の代理人として交渉にやって来たと、その男は言った。
純一は、芹澤冬梧の娘とは面識がなく彼女が絵のモデルと言うのは全くの
誤解で、この絵を売るつもりは一切ない事を伝えた。
数日後、芹澤冬梧は娘に付き添われ個展会場に姿を現した。
当時、彼はすでに末期の癌に侵されていた。父親のそばにそっと寄り添う娘を
見た瞬間、純一は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。
冬梧は『愛しき女の肖像』の前に佇み無言で暫くじっと眺めていた。そして、
『いい絵だ』と一言だけ発すると、茫然と立ち尽くす純一に握手を求め静かに
ギャラリーを立ち去った。
その時の純一は、その初老の紳士がフランス画壇では巨匠と呼ばれるほどの
有名な画家であることを知らなかった。
芹澤冬梧は三十代の後半になってフランスに渡り才能を開花させた、いわゆる
遅咲きの画家だった。莉江は彼が四十を過ぎてから、パリに留学していた
ピアニストの妻との間にできた一人娘である。彼は聴覚障害を持って生まれた
娘を溺愛した。だが、娘を将来自分と同じピアニストにする夢を抱いていた
妻は、莉江の障害に絶望し幼い娘を残し夫のもとを去った。
莉江は父の愛情を一身に受け純真な心を持つ美しい娘に成長した。
手話だけでなく日・仏語の読唇術を身につけ、相手の言葉を健常者と同等に
理解することができる。大学でフランス文学と日本文学を専攻し卒業後は家で
翻訳の仕事をしていた。
癌を患い死期が迫っていることを悟った冬梧は、障害を持つ一人娘の将来を案じ
後見人となる婿養子を探し始めた。
そんな父娘の前に現れたのが野獣のような卑劣な男、藤森譲司だった。
藤森は画商として冬梧に近づき巧みな話術と人当たりの良さで彼の信頼を得て、
娘の婚約者として土地や不動産、絵画など芹澤家の財産管理一切を仕切るように
なる。莉江は最初から藤森に何か胡散臭いものを感じていたが、余命幾ばくも
ない父親を安心させるため存命中に婚姻届けに署名した。その数週間後、冬梧は
静かに息を引き取った。
莉江の抱いていた不安は的中した。
冬梧の死を待っていたかのように藤森の態度は豹変し本性を現しはじめた。
長年仕えていた芹澤家の使用人を全員解雇すると自分の女を住まわせ、それまで
父親と平穏な生活を営んでいた家に怪しげな人間が出入りするようになった。
家や土地・不動産のすべての名義を変更し冬梧の残した絵画のほとんどを売却、
現金化して自分名義の口座に入れるなど暴虐三昧に振舞った。
家の中では物言えぬ妻に暴言を吐き暴力を振るう最低の男だが、家から一歩外に
出ると、饒舌な社交家で障害を持つ妻を愛し優しくいたわる理想の夫を完璧に
演じる。自由を奪われほとんど監禁状態の生活を強いられた莉江は、失意と
絶望の日々を送っていた。
莉江と再会したのはパリ郊外で開かれた冬梧の追悼展の会場だった。
純一の熱い視線に気づいた彼女は軽く会釈すると、もの悲しい微笑を浮かべた。
憂いに満ちた瞳は純一に何かを訴えようとしているように思えた。
帰り際、誰にも気づかれないようにメール・アドレスを書いたメモを莉江に
そっと手渡した。
数日後、純一のPCにメールが届いた。
迷惑をかけることを恐れた莉江は自分のおかれている悲惨な状況については
何も触れなかった。ただ、生前冬梧が『愛しき女の肖像』を称賛していたこと、
父親の意に反して勝手に藤森が個展に押しかけた非礼を丁寧に詫びた。そして、
自分もあの絵がとても好きだと純一に告げた。
純一は返信メールの中で、あの絵のモデルであるめぐみのことをすべて告白
した。そして、莉江を一目見た瞬間から同じ想いを抱き続けていることを切々と
綴った。だが、いくら待っても彼女からの返信は来なかった。それでも純一は
日に何度もメールを送り続けた。
彼の真剣さと熱意に絆された莉江は徐々に純一に心を開き、メールの中で地獄の
ような藤森との生活を少しづつ語りはじめた。
繁茂にメールを交換することによってお互いを知り理解していくうち、いつしか
二人の間に信頼関係が生まれ、それは急速に確かな愛へと育っていった。
純一は、またしても人妻を愛してしまった自分の皮肉な運命を感じた。
だが、莉江の夫、藤森譲司は有賀健介とはちがう。彼は非道な夫から彼女を
救出することを決意する。しかしそれは容易なことではなかった。公の場では
紳士的な態度で妻に接する男をDVの加害者だと訴えても警察は動かない。
屋敷から莉江を連れ出し自分のアパートに匿うという強硬手段に出た。
一歩間違えば、誘拐・監禁で訴えられる危ない橋ではあったが、それ以外の
良作は考えられなかった。次に、純一は藤森との直接交渉を試みた。
莉江のためならどんな代償をも支払う覚悟はできていた。
藤森は離婚に応じる条件を二つ提示した。
一つは、遺言状に記載された莉江名義のすべての財産分与の相続放棄、それに
彼女が所有する冬梧の遺作となった数点の絵画の譲渡だった。
そして二つ目は、純一の渾身作、あの『愛しき女の肖像』を要求した。
話題を浚った絵の商品価値にいち早く目を付けた藤森は個展会場に押しかけ、
芹澤冬梧の名を利用してなんとか手に入れようとしたが失敗に終わった。
冬梧のお墨付きをもらったあの絵は当時画商の間で法外な値段がついていた。
(あなたの大切な宝物を、あの野獣のような男に渡すわけにはいかないわ)
二番目の条件だけはどうしても受け入れられないと莉江は言い張った。
だが、彼女を真剣に愛する純一の心に、もはや迷いも躊躇いもなかった。
絵を手放しめぐみの想い出と決別、莉江と新しい人生を生きる決意を固めた。
こうして自由の身となった莉江を伴い、純一はパリを逃れるようにケープ・
コッドに舞い戻って来た。