19.新生活(2)
ローガン空港を出た健介の車はダウンタウンを抜け郊外にあるチェスナッツ
ヒルの閑静な住宅街に入った。
「ここだよ」
(わぁ、素敵なところ! お庭がちゃんとあって、住み心地もよさそうね)
一階にリビングとダイニング・キッチン、トイレ、二階には二つのベッド
ルームとバスルールがある典型的な間取りのタウンハウスの中を莉江は
嬉しそうに見て回った。
「うむ、けっこう気に入ってる。大きなショッピングモールがそばにある
から買い物に便利だし、前みたいなダウンタウンのど真ん中と違って住宅街に
あるから静かだし… けど、まあ 〝フラヴィニー・シュル・オズラン” の
ようにはいかないけどね」
(田舎の自然もいいけど、ショッピングに手軽に行けてバーガーやフライド
チキンがいつでも食べられるのは、やっぱり魅力だわ!)
「ファーストフード大好きのナイチンゲールだもんな」
健介はからかうようにウィンクした。
「疲れた?」
(少しね、今朝は四時起きだったから…)
長旅の疲れが出たのか莉江はさっきから欠伸を繰り返している。
フラヴィニーからディジョンまで車で一時間、ディジョンの駅からTGVで
パリの空港まで二時間かかる。そこからボストンまでの六時間のフライトは
時差もあってかなりの強行軍の旅になる。
「シャワーでも浴びて少し横になれば? 夜はこの近くのシーフード・
レストランを予約してるんだ。晩飯までまだ時間あるし…」
(ありがと、じゃ、そうさせてもらうね)
莉江は疲れた様子で二階のベッドルームに引き上げた。
予約を入れたレストランはチェスナッツヒル・モールに隣接しグルメ雑誌にも
掲載された有名な店である。ここから近いため偶々選んだ場所だが、奇しくも
そこは七年前、めぐみとボストンでの新生活を始めて間もなくライアンたちと
行った同じ店だった。
週末の『リーガル・シーフード』は相変わらず予約のない客が長蛇の列を
作っていた。
「じゃ、まずは乾杯しようか。おっ、ブルゴーニュ産のワインがあるぞ!
ロブスターだから赤より白のシャブリの方がいいかな?」
ワインリストを見ながら莉江の顔を伺った。
(…私は、アルコール、パスする)
「なんで? せっかく記念すべき日なのに…」
(うん… でも、やっぱり、オレンジジュースにするわ)
ボーヌのレストランでは必ず食前酒を注文していた彼女から意外な言葉が
返ってきた。
「大丈夫? どっか具合悪いの?」
二時間近くも仮眠を取ったにもかかわらず顔色が冴えないことに気づいた。
二か月前に比べると心なしか痩せたような気もする。
(そうじゃ、ないの…)
莉江ははにかむような笑顔浮かべた。
健介ははっとなった。彼の脳裏に七年前のこのレストランでの、ある光景が
甦ってきた。あの夜、三沢夫妻や耕平たちと合席になり乾杯した時、当時は
まだATGの治療中でアルコールが飲めないめぐみはオレンジジュースを注文
した。その時、杏子が放った一言を思い出した。
「莉江、まさか… そうなの?」
(うん、たぶん…)
莉江は恥じらうように俯いた。
「そうか、そうだったのか…」
健介は嬉しそうに莉江の手を握りしめた。
* * * * * * *
八月に入りボストンは連日茹だるような暑さが続いていた。
四か月を迎えた莉江は体調が回復し順調な日々を送っている。
私生活が充実した健介も精力的に仕事をこなし来年の子供の誕生を心待ちに
していた。
「紹介するよ、莉江だ、よろしくたのむ」
週末の夜、約束通り莉江を連れマリエの店を訪れた。
微笑みながら丁寧にお辞儀する莉江とは対照的に健介は照れたようにわざと
ぶっきらぼうに言った。
「いらっしゃい、莉江さん。やっと来てくれたね」
マリエは親しみを込めた笑顔で出迎えた。
莉江に会うのは二度目だった。最初は、純一が荼毘に付された日、式場でちらっと
見かけた程度だった。間近で見ると改めてめぐみにそっくりだと思った。
「今日、直美ちゃんはオフ?」
「ああ、大事な一人娘がはしかに罹っちゃってさ」
「そっか… いや、莉江があの時のことで彼女にきちんとお礼がしたい、って
会いたがってたもんだから…」
「そうかい、それは残念だったね」
「けど、知らなかったなあ、彼女に子供がいたなんて」
「惚れて惚れて惚れぬいた相手との間の、彼女にとってはまさに宝物なんだよ」
マリエは宙を仰いだ。直美に子供がいること、ましてや純一が父親であることは
彼女以外誰も知らない。
「人のことより、そっちはどうなのさ?」
「?…}
「ケン、アンタ来年は四十だろ? 早く作んなきゃ! 庭があって犬がいる
だけじゃ 〝家庭” とは言えないよ」
健介の前に水割りを差し出した。
「莉江さんは何にする? やっぱりワインがいいかな?」
「彼女はオレンジジュースでいいよ」
「ジュースはないだろ、子供じゃあるまいし… ねっ、莉江さん?」
(……)
莉江は助けを求めるように隣の健介の顔を見た。
「あれ、もしかして… おめでた?」
「実は… そうなんだ」
健介は照れくさそうな笑みを浮かべた。
「それならそうと、早く言いなよ。それで予定日はいつ?」
「二月の半ば」
「て、ことは… フランスでバッチリ仕込んできたわけだ。きっといい子が
生まれるよ。ブルゴーニュ産のワインみたいにさ!」
「マリエっ!」
「おっと、これは品のない事を申してしまいました。このたびはご懐妊、
おめでとうございます!」
カウンターに両手をついてお辞儀をするマリエの様子を見ながら莉江は
くすっと笑った。
「いい娘じゃないか、ケン。けど、あんまり似てるんで一瞬ドキッと
したよ」
莉江が化粧室に立つとマリエは健介の耳元で囁いた。
「性格も、似てるんだ…」
健介の口元が緩む。
「もうちゃんと籍は入れたのかい?」
「いや、二人で話し合って、一周忌が終わるまで入れないことにした。
既成の事実を作ってしまってから何を今更って、言われるかもしれないけど、
やっぱり一応、その、けじめって言うか…」
「そっか… 純一君もきっとあの世で喜んでくれてると思うよ。惚れた女には
幸せになってもらいたいもんね。ケン、責任重大だよ。これからしっかり
頑張らなくちゃね」
「うむ」
マリエからのエールに健介は大きく頷いた。




