18.新生活(1)
チャールズリバーの夜空を彩る独立記念日の花火が終わり、ボストンの街は
本格的な夏のシーズンを迎えた。
健介はビーコンヒルのアパートを引き払い今月から郊外にあるタウンハウスに
引っ越した。ダウンタウンから車で二十分、二階建ての庭付きで芝生に覆われ
た裏庭はノーラが走り回れるだけの充分なスペースがある。
家具や新生活に必要な物を徐々に買い揃え莉江を迎える準備をすっかり整えて
いた。先月末でボーヌの病院での奉仕活動を終えた莉江はフラヴィニーの
修道院に戻り、いよいよ来週アメリカに戻って来る。
「よう、しばらく!」
「ここんとこずっとご無沙汰じゃん、元気してた?」
仕事帰り健介は久々にマリエの店に立ち寄った。
「うむ、引っ越しやなんかで忙しかったんだ」
「どう、新居のほうは?」
「なんとか格好はついたよ。でもさ『家庭』とはうまく言ったもんだなよな、
ちっさい庭があるだけでアパート暮らしとは違って、『家』って感じがして
なんか、こう落ち着くんだよな…」
「ケン、鼻の下がデレ~と伸びてるよ。その様子だと『花嫁』を迎える準備は
すっかりOKって感じだね」
「まあーね!」
健介の顔が緩む。
「ここへも連れて来てよ。あ、でもいいとこのお嬢さんらしいから、こんな
とこ、びっくりするかな…」
「そんなことないよ。ちゃんとマリエにも紹介するよ。世間慣れしてないから、
俺ともども今後ともご指導ご鞭撻のほどヨロシク!」
ぺこりと頭を下げた。
「よしなよ、そんな真似… でもさ、ほんと良かったよ。これでアンタもやっと
長いやもめ暮らしとオサラバできるわけだ。今度こそ、メグちゃんの分まで
彼女のこと幸せにしてやんなきゃダメだよ」
「ああ… 」
しんみりと話すマリエに神妙な顔つきで頷いた。
家族のいない健介にとって同じ『ホーム』出身のマリエは、腹を割って何でも
話せる姉のような存在だった。
* * * * * * *
次の週末『リズの家』でノーラをピックアップした健介はボストンに引き返し、
午後の便で到着する莉江を迎えに空港に車を走らせていた。
「ノーラ、もうすぐ逢えるぞ。嬉しいだろ?」
ミラー越しにバックシートで大人しく座る犬に話しかけた。
健介に応えるようにノーラは三角形の小さな耳を欹てる。
半年の間に丸顔の小さな子犬はスピッツ特有の光沢のある純白の被毛で覆われ、
シャープな顔立を持つ美しい中型犬に成長した。
「これでやっと一緒に暮らせる、よかったな…」
犬だけでなく自分自身にも語りかけるように呟いた。
莉江と過ごしたブルゴーニュでの休日が頭を過ぎり健介の口元が自然に綻ぶ。
花柄のサンドレスに身を包み長く伸びた亜麻色の髪を肩まで垂らした莉江が、
にっこりと微笑みながら到着ゲートに姿を現した。
定番のTシャツとGパンで太めの身体を覆った典型的なアメリカ人旅行者の中で
その美しさはひときわ人目を惹いた。
「おかえり!」
(ただいま戻りました!)
二か月ぶりの再会に二人は熱い抱擁を交わした。
(ただいまノーラ! わぁ、こんなに大きくなって、それにすっかりお利口さん
になったね。もう落ち着きのない子犬のノーラじゃないね)
健介の横でちょこんと座る犬に嬉しそうに頬ずりをした。
「リズがきちんと躾けてくれたおかげで、飼い主に従順で忠実な賢い犬に
なったよ。なっ、ノーラ?」
褒められた犬は嬉しそうに尻尾を振った。
「それ、どうしたの?」
莉江の左手の甲の絆創膏が眼に入った。
(あっ、これ? ナイチンゲールの名誉の負傷!)
「ええっ? いったいい何それ?」
(ボーヌの病院がクリミア戦争の野戦病院状態になったのよ… )
莉江は思い出したようにくすっと笑った。
(半月くらい前にね、町中で酔っぱらったティーンエイジャーたちの喧嘩が
あったの。とにかくみんな泥酔状態でナイフや割れたビール瓶を振り回して、
運ばれてきたときはERはもう血の海状態! ピエール、あっ、覚えてる、
ロンドンに留学経験があって英語ができる研修医の? 私、彼を手伝って
暴れる男の子を押さえつけていたら、服にガラスの破片がついてたらしくって、
ぐさっとやっちゃったの。私なんかこの程度で済んだけど、ピエールは顔に
まともに血しぶきを浴びて、そりゃあもう大変だったのよ)
当時のことを思い出したのか、莉江は興奮気味に手を動かした。
「へえー、あんな長閑な病院でそんなことがあったのか…」
ボーヌの静かな街並みと健介を中庭に案内してくれた若い青年医師の顔がふと
頭に浮かんだ。
「それで、傷のほうはもう大丈夫なの?」
(うん、全然平気!)
莉江は指を大きく動かせてみせた。
この事が後になって重大な意味を持つことを二人はまだ知る由もなかった。




