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Samsara~愛の輪廻~Ⅴ  作者: 二条順子
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17.愛のはじまり(3)

カーテンの隙間から朝靄に煙るディジョンの街が姿を現した。

窓を少し開けると外の冷気が飛び込んできた。早朝の澄んだ空気が火照った

肌に心地良い。昨夜の余韻が躰の深部に残っている。

戸惑う心とは裏腹に莉江の肉体は躊躇うことなく健介の愛を求めていた。


純一の姉の言う通り、自分は本当に残酷な女なのかもしれない・・・

すべてを犠牲にして死んで逝った純一への愛を貫くために、揺れ動く健介への

想いを断ち切るために選んだ修道院生活。厳しく単調な禁欲生活は、莉江を

神の道に近づけてはくれず、反って生身の女であることの悲しさ苦しみを

思い知らしめた。


長旅の疲れから健介は放心したように眠っている。

ベッドに潜り込み彼の広い胸に顔を埋めた。愛する男の匂い、肌のぬくもり、

力強い鼓動が伝わって来る。大きな懐に抱かれ莉江は安心したように再び

深い眠りに落ちていった。



* * * * * * * 



ホテルのカフェで遅い朝食を済ませた二人はディジョンの中心街に出た。

小径を辿りながら教会や美術館、かつてのブルジョア階級や貴族の館など

この街の歴史や文化遺産をのんびりと歩いて廻った。

シュエット通りに面したノートルダム寺院の前まで来ると莉江が急に立ち

どまった。

(左手でこのフクロウに触ると幸福になれるって言い伝えがあるのよ)

「よっし、じゃ、さっそくあやかろう!」

健介は莉江の左手を掴み外壁に施された小さなフクロウの彫刻にかざした。

(幸せになってもいいのかな…)

心の中で呟くと莉江は自分の左手をじっとみつめた。


「どうかした?」

(きのう、気持ちの整理がついたかって、聞いたでしょ?)

「ああ、でも応えてくれなかったね」

(時々ね、修道院でシスターたちの手伝いをしたり病院でボランティアを

している自分が、とっても嫌な偽善者のように思えるの。

私が純を殺したようなものだって言うお姉さんの言葉を払拭するために、

自責の念から解放されるために、私はこんなにも良い事をしているのよ、

こんなに一生懸命頑張っているよ、みたいな…)

莉江はふーと息を洩らした。


(私の中には、純のために祈りを捧げることで心の平安を求めている自分と、

先生からの手紙を心待ちにしている自分がいるの。この三ヶ月の間に後者の

自分がどんどん大きくなっていくの……

純とね、こんな風に手をつないでパリの街角を歩いたことなんか一度も

なかった。藤森から逃れ小さなアパートで身を隠すような生活だった。

それなのに、私一人だけ人生をやり直しぬくぬくと幸せになるなんて、

やっぱり許されない、間違っているんじゃないかって……)

莉江は心の葛藤を切々と吐露した。


「信仰心のない俺に偉そうな事は言えないけど… 最近こんな風に考える

ようになったんだ。もし逆の立場なら、もし妻を残し俺が先に逝ったと

したら、どうするだろうって。彼女が新しい恋にめぐり逢い愛する人を得た

時、雲の上から素直に祝福してやれるか、それとも嫉妬に狂うか?

結論は、どんなに彼女を愛していても自分がそばに居てやれない以上、その

男に妻を託し自分の分まで幸せにしてやって欲しいと、思えるようになった。

本気で愛した相手にはやっぱり幸せでいてもらいたいから。まあ、ちょっと、

妬けるけどね…」

健介の口元から苦笑が漏れる。


(先生は奥さんのこと、めぐみさんのこと忘れられる?)

「いや、忘れられない…」

間髪を入れず応えた。

「…純一君のこともメグのことも、俺たちは決して忘れてはいけないと思う。

二人の分まで幸せにならなきゃいけないと思う」

健介は莉江の左手を再びフクロウの彫刻に押し当てると、自分の左手を

その上に重なり合わせた。



翌朝、二人はディジョンの駅で別れた。

病院での奉仕活動が終了する二か月後、莉江はボストンの健介のもとに行く

決心をした。発車間際のホームで健介から手渡された 〝アニス・ボンボン”

を一つ口に頬張った彼女の顔には、もはや何の迷いもなかった。




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