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Samsara~愛の輪廻~Ⅴ  作者: 二条順子
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14.悲しみの向こうに(2)

「惚れっちまったんだね…」

「……」

健介は俯いたままふーと息を吐いた。

「メグちゃんにそっくりだもんね。でもさ、身代わりのつもりなら…」

「そんなんじゃない!」

マリエの言葉を遮りグラスの酒を呷った。

「いや、そうかもしれない… 俺にもよく分からないんだ。ただ、このまま

黙って彼女を行かせちゃいけないような気がする。そばに居てやりたい、

いや… 居てもらいたいのかもしれない…」

そう言うとまた大きな溜息をついた。

「ケン、それってさ、あたしから見りゃ、かなり重度の 〝恋煩い” の

症状だよ」

含み笑いをしながら二杯目のグラスを置いた。

「好きなら迷うことないじゃん。彼女だってまだ若いのに、修道院だっけ?

そんなとこ生身の女が行く場所じゃないよ。それにあっちに戻れば、またいつ

ジョージのヤツが手出しするとも限らないよ。アイツ、ケンには一目置いてる

から、アンタが目を光らせて守ってやんなきゃ、そうだろ?」

「……」

「四年になるんだろ… もうそろそろ、メグちゃんのことは思い出に変えても

いいんじゃないのかい? 彼女だってアンタがいつまでもうじうじした人生を

送ってるの見たくないと思うよ。女はさ、本気で惚れた男にはいつまでも輝いて

いてもらいたいもん」


めぐみが亡くなった時、健介は二度と女を好きにならない、なってはいけない

と思った。あれからわずか四年、あんなにも愛した妻を裏切るように他の女に

心を奪われていく自分が許せない。莉江の中に亡き妻の面影を求めていると

すれば、彼女に対しても誠実とは言えない。仁科純一に対する後ろめたさが

ないと言えば嘘になる・・・

頭の中で渦巻いているそれらの感情が心を制御し莉江への想いを身内に封じ

込めようとしている。


「彼が亡くなってまだ二か月にもならない、世間の常識からすれば、かなり

不謹慎だよな。彼女の気持ちだって…」

手の中で弄んでいる水割りのグラスをじっと見つめた。

「むずかしいことは分かんないけどさ、事、男と女に関してはアンタより

経験豊富なあたしから言わせりゃ、人を好きになるのは理屈じゃないよ。

相手の気持ちをあれこれ考え過ぎたり、世間がどう思うかなんて心配するより

まずは自分の気持ちに素直になんなきゃ。人生一度きり、後悔してもあとの

祭りだよ」

世間の荒波に揉まれて生きてきたマリエの言葉には妙に説得力があった。



マリエの言葉に後押しされるように健介は次の日ケープに向かった。

アトリエを引き上げた莉江は出発の日まで『リズの家』に滞在している。


「ノーラ、どうした? 元気ないじゃないか…」

玄関の脇でぐったりと寝そべっている子犬に声をかけた。

「可哀想に、この子もやっぱり淋しいのね…」

「?…」

「今、リエをハイアナスの空港まで見送りに行って戻って来たことろなのよ」

「えっ? 出発は確か来週では?」

「それがね、けさ航空会社からキャンセル待ちができたという連絡が入って、

急遽ローガンから今夜発つことになったの。ご家族にジュンの遺灰を返して、

きっと一人でここにいるのが辛くなったのね。一日も早く生まれ故郷に帰りたく

なったのかもしれないわ。あなたには落ち着いたらゆっくり便りをするから、

くれぐれも宜しく伝えてほしいって」

リズはしみじみと話した。

「何時のフライトか、分かりますか?」

「たしか、八時半、パリ行の最終便よ」

「ノーラ、行くぞ!」


このまま莉江を行かせてはならない、自分の想いを伝えなければ・・・

子犬を乗せた健介の車は猛スピードでローガン空港に向かった。



* * * * * * * 



莉江は出発ロビーの椅子にもたれ目の前を行き交う旅人たちの姿を眺めていた。

楽しそうな家族連れ、賑やかな若者たちの群れ、幸せそうに肩を寄せ合う

カップルたち・・・ 

どの顔も旅立ちを前に生き生きと華やいでいる。

真夏の太陽が照りつける日、生まれ育ったパリの街を捨て不安と希望の中

新天地を求めて純一とこの空港に降り立った。

あの時の自分の顔もきっとこんな風に輝いていたに違いない。

そのわずか数か月後、夕やみ迫る冬の夜に同じ空港から一人旅立つ姿を誰が

想像しただろう・・・

莉江の胸に熱いものがこみ上げてきた。


(先生、さようなら…)

バッグから取り出したK・Aのイニシャルの入ったハンカチを握りしめた。

あの日、それまで身体の中でピーンと張りつめていた糸が切れたように

健介の中で泣き崩れてしまった。彼の大きな胸はそんな莉江を優しく受け止め

温かく包んでくれた。肌に伝わってくるあの心地良い感触が彼女にパリ行きの

出発を早めさせた。

自らにストイックな生活を強いることで、無念の死を遂げた純一への愛を貫く

決心をした。愛する人の死を悼み喪に服する身でありながら一瞬とは言え、

他の男の胸の中で安らぎを感じてしまった自分が許せなかった。

健介の優しさ逞しさに魅かれていく自分が怖かった。



ロビーで出発を待つ乗客が一斉に搭乗ゲートに向かって移動しはじめた。

電光掲示板にパリ行きの搭乗開始の表示が点滅している。

莉江は人の群れに続いて歩き出した。すると突然、行く手を阻むように小さな

犬が足元に絡みついてきた。


(ノーラ!)

抱き上げると子犬は嬉しそうに莉江の顔をぺろぺろと舐める。

「別れの言葉もなく行ってしまうなんて、あんまりだな…」

(先生…)

振り向くと笑顔の健介が立っていた。

「ノーラと一緒に待っているから… 気持ちの整理がついたら、戻って来て

ほしい。それまでずっと、待ってるから」


莉江は静かに頷くと子犬を健介の胸に委ね搭乗ゲートに向かう群れの中に

消えて行った。




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