13.悲しみの向こうに(1)
年が明けようやく悪夢のような藤森との関係に決着がついた。
芹澤譲司の名前が抹消された戸籍謄本を手にした莉江はふーと小さな溜息を
洩らした。
この一枚の紙切れのために愛する人はかけがえのない命を落とした。
新進気鋭の画家として輝かしい未来に向けて一歩踏み出したばかりの若い
才能が、自分と関わったばかりに無残にも奪われてしまった。
藤森から自由になれた喜びよりも、純一を失った悲しみと自責の念で莉江の
胸は張り裂けそうだった。
そんな莉江に純一の家族との辛い再会が待っていた。
純一の両親に宛てた手紙の中で彼の死の真実を二人が未入籍のままだった
事実とともに克明に伝えた。
十年ぶりの再会を果たした最愛の息子の突然の死が両親にもたらした悲しみは
計り知れない。母の幸子はショックのあまり寝込んでしまった。
母親に代わり姉の美幸が父の修二とともに、すでに荼毘に付された純一の遺灰
を引き取りに『リズの家』に莉江を訪れた。
アメリカで火葬にされた遺体は完全に灰となり、日本のように遺骨が残ること
はない。純一の遺灰は小さな壺に納められた。
「莉江さん、そんな綺麗な顔してほんまは酷い人やったんやね!
私らすっかり騙されていたわけやね!」
美幸は開口一番、辛辣な言葉を莉江に浴びせかけた。
そんな娘を制するように修二が美幸の腕を掴んた。
「お父さんは黙ってて! うちの両親は人がええから何もよう言わへんけど、
はっきり言って、純はあなたに殺されたようなもんでしょ! 人の奥さんで
ありながら、ようもしゃあしゃあと親元に結婚の挨拶に来れたね。
可哀想に純、こんなちっちゃいとこに入ってしもて…」
小さな壺を愛おしむように抱きしめた。
傍らの修二が堪りかねたように嗚咽を洩らした。
「父や母はどうあれ、私は純一の姉として一生あなたのことを許さへんから!」
美幸はきつい目で莉江の顔を睨みつけた。
涙を堪え莉江は二人の前に深々と頭を下げた。
すべてを告白した時から純一の家族の怒りも苦しみも悲しみも受け止める覚悟は
できていた。どんな罵声も罵倒も甘んじて受けるつもでいた。
だが、美幸の歯に衣を着せぬストレートな言葉は、純一の死に対して自らを責め
続けてきた莉江に追い打ちをかける残酷なものだった。
数日後、純一の遺灰は遺品とともに莉江のもとを離れ父親と姉に抱かれ帰国の
途についた。
パリのコンクールで新人賞を射止めた『春の海辺』から遺作となった未完成の
絵を含む全作品は、家族の了承のもとポール・ビショップが管理することに
なった。純一の渾身作『愛しき女の肖像』はついに戻ってはこなかった。
藤森が売却した日本人の画商の手を離れ、すでにある資産家の所有物となって
いた。買い戻すことが困難とし藤森は売却価格と同じ額面の小切手を切った。
莉江は事情を説明した上でその小切手を修二に渡した。
純一の形見の品は微品にいたるまで美幸が莉江の手元に置くことを拒絶したため
彼女のもとには何一つ残らなかった。
スーツケースにわずかばかりの身の回り品を詰め終えると、莉江はがらんとした
アトリエの中を見廻した。
ついこの間まで絵具の匂いが立ち込め画材が散乱していたリビング、毎朝、焼き
立てのクロワッサンの香ばしい匂いが漂っていたキッチン、ベイ・ウィンドー
から差し込む眩しい光で朝を迎えた二人の部屋は、わずか三ヶ月で生活感のない
空虚な空間に変貌してしまった。
(ごめんね、ノーラ。おまえは連れて行けないの。リズに頼んで優しい飼い主を
見つけてもらうから、それまでいい子にしているのよ)
子犬を抱き上げ頬ずりをした。
敏感に別れを感じ取っているのか、ノーラは甘えるように莉江に纏わりついて
離れようとしない。そのノーラが突然耳をそば立て玄関の方に駆け出した。
ドアを開けると健介が立っていた。
「何か手伝えることがあるんじゃないかと思ってね…」
莉江は笑顔で彼を招き入れた。
「その必要は、ないか… ちょっと来るのが遅かったかな」
アトリエの中はすっかり片付けられ、部屋の隅にスーツケース一個と藤森から
奪還した油絵が置かれている。
「荷物、これだけ?」
莉江はこくりと頷いた。
「純一君のお姉さん、ずいぶんはっきりと物を言う人だね。辛かったろ?」
莉江は静かに首を横に振った。
あの日、莉江に頼まれて仁科家とボール・ビショップの間の通訳を務めた健介は、
美幸の言葉にじっと耐えている彼女の様子を部屋の隅から見ていた。
(お姉さんの言う通りだから…)
心の中で呟くと健介に背を向けるようにベイ・ウィンドーに凭れかかった。
細い肩が小さく震えている。
「もう我慢しなくてもいいんだ、思いっきり泣いていいんだよ」
背後に歩み寄った健介は肩に手を遣り聞こえぬ耳元に優しく語りかけた。
振り向いた莉江は目にいっぱい涙を溜め健介の胸に顔を埋めた。
これまで一人でずっと耐えていたものが堰を切って流れ出したように目から
止めどなく涙が溢れた。




