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Samsara~愛の輪廻~Ⅴ  作者: 二条順子
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11.毒牙(4)

「これからケープに行くから、ゆっくり眠っているといいよ」

助手席に横たわる莉江の身体を毛布で包み、腫れた頬にアイスパックを当て

がった。健介の言葉に頷くと莉江は安心したように目を閉じた。

救出には一応成功したものの、これからどうやって藤森の手を逃れ安全に純一の

もとに戻すか、具体案は何もなかった。ただ、頭の中は一刻も早くボストンを

離れることだけだった。ビーコン・ヒルのアパートに着くとタクシーから自分の

車に乗り換え、健介は闇の国道を猛スピードでケープ・コッドに向かった。


高台のアトリエに着くと深夜を廻っていた。

ドアのチャイムを何度押しても、キャンキャンと子犬の泣き声がするだけで

中から灯りは洩れてこない。

莉江がドアの鍵を開けるとノーラがもの凄い勢いで駆け寄って来た。

キッチンの床に置かれたドッグフードと水の容器が空になっている。

マリエの店で酔いつぶれた純一がここへ戻って来た形跡はなかった。携帯も

電源切れで繋がらない。


「ノーラ、餌にありつけて良かったな」

ドッグフードとミルクを与えられた子犬は莉江の膝の上で満足そうに尻尾を

振った。

 『どうして、私の居場所が分かったのですか? 先生は藤森を知っている

  のですか? なぜ、私たちを助けようと?』

ずっと疑問に思っていたことを莉江は筆談用のボードに書き連ねた。


「藤森とは昔、ある時期ある場所で一緒だったことがあるんだ… だから、

あの男がどんなに冷酷で卑劣な人間かを良く知っている。

二十年ぶりにヤツと再会して偶々、君と純一君が苦しめられていることを

知った。純一君は… 亡くなった妻が以前ケープに住んでいる時、彼に

助けられたことがあってね。それで、恩返しってわけじゃないけど、君たち

二人の力になれたらと思ったんだ」

健介は言葉を選ぶように慎重に話した。

 『先生の奥さまの名前、めぐみさんですね? だから、海岸の駐車場で

  私の顔を見てあんなに驚かれたのですね?』

「うむ」

健介は黙って頷いた。

 『純は私に、めぐみさんのことすべて、話してくれました……』

めぐみを描いた『愛しきひとの肖像』が二人をめぐり逢わせてくれた

こと、藤森から逃れケープ・コッドに来た経緯を健介に告白した。


「そうか、やはり藤森にはずいぶん酷い目に遭わされてきたんだね…」

狡猾で非道な藤森という男に健介は改めて激しい怒りを覚えた。

同時に、めぐみが結び付けたような若い二人をなんとか守ってやりたいと

いう思いを一層強くした。


夜明けとともに健介は行動を開始した。

莉江の身の安全を考え、彼女を暫く『リズの家』で匿ってもらうことにした。

事情を説明するとリズは快く引き受けてくれた。

「ノーラ、いい子にして待ってるんだぞ。じゃ、絶対に純一君を連れて

戻ってくるから」

健介の言葉に子犬を抱いた莉江は笑顔で頷いた。



「ケン、大変なことになっちまったよ…」

マリエの声がいつになく上擦っている。

純一と連絡が取れないまま健介はボストンに引き返した。

車が市内に入った時ようやくマリエから携帯に電話がかかってきた。

「アンタの探している直美ちゃんの同級生、ゆうべ藤森の手下に酷く

やられて、今アンタの病院のERにいるそうだよ」

マリエの話によると、昨夜一旦は直美のアパートに戻った純一は今朝がた

容態が急変し救急車でボスジェネラルのERに搬送されたらしい。

健介はERに急行した。



純一はICUのベッドに瀕死の状態で横たわっていた。

担当の医師は健介の顔を見るなり頭を左右に振った。運ばれて来た時には

すでに内臓破裂で腹腔内に大量の出血があり手の施しようがなかった。


「健介さん、お願いやから純ちゃんのこと助けて! ゆうべのうちに

無理やりでも病院に連れてくれば、こんなことにならへんかったのに…」

純一の枕元で直美は泣き伏した。


「り、え…」

純一がうっすらと目を開けた。

「純一君、俺だ、有賀健介だ。莉江さんは無事だよ、ケープで、リズの

ところで君のことを待っている。しっかりするんだ!」

「せん、せい…」

純一は必死で健介の腕を掴んだ。

「りえを、あいつから、まもってやって、ください…

りえのこと、たの、み、ま、す…」

最後の力を振り絞るように健介に莉江を託し純一は静かに息を引き取った。



* * * * * * *



純一の死から半月が過ぎた。

窓際の揺り椅子に凭れ子犬を膝の上にのせた莉江は虚ろな目で窓の外を

見ている。愛する人を理不尽に奪われ、怒りと悲しみに打ちひしがれる

彼女の姿に健介は声をかけるのを躊躇った。


「可哀想に、ああやって一日中ぼんやりと空を眺めているの……」

「リズ、彼女のこと、もう暫くお願いします」

「心配しないで、それとなく注意はしているわ」

絶望のあまり莉江が早まった行動に出ることを健介は懸念していた。

「とってもいいお嬢さんよ。姿形だけじゃなくて、そばにいると時々ふと、

メグが戻って来たような錯覚をすることがあるの。早く元気を取り戻して

欲しいわ…」

リズは溜息混じりに言った。


藤森の指示で彼を殴打し死に至らしめた男たちは、警官が来た時はすでに

姿を消していた。そのため純一の死は単なる喧嘩による事故死として処理

された。藤森はまたしても法の裁き免れ悠然と日常生活を送っている。

純一が最後の力を振り絞って残した言葉を実行に移すため、健介は藤森との

対決手段を模索していた。



「ノーラ、おまえ一人なのか?」

さっきまで揺り椅子に座っていた莉江の姿はなく子犬が床に寝そべっている。

(まさか…)健介は血相を変えて外に飛び出した。

辺りを見回してがどこにもいない。部屋に引き返すとリズが置手紙を見つけ

ていた。

 『先生、  

  ケープの海を見に行きます。

  大丈夫心配しないで、純のところに行けるものならとっくに行っています。

  何度も思ったわ、冷たい海の底に身を沈めることができたら、どんなに

  楽になるだろうって。でも、悲しいことに私にはそれも許されない・・・

  もし藤森から自由になれたら、フランスに帰り田舎町の修道院に行きます。

  昔、日本では現世で望みを失った女性が髪をおろし尼になって仏門に入る

  ことがよくあったでしょ。カトリックでは離婚した女は修道女になることは

  できないけれど、修道女を手伝いながら修道院で生活することはできるの。

  自らの命を絶つことも許されず、生きる希望も見いだせない人間が、神に

  召される日まで暮らすには最適な場所だと思います。』


芹澤冬梧は敬虔なカトリック教徒だった。

莉江も生まれて直ぐ洗礼を受け幼稚園から大学まで一貫したカトリック系の

学校で教育を受けた。キリスト教では自殺は大罪とされ決して許されない。

とは言え、カトリック教徒の中にも自殺する者はいる。莉江も、藤森との生き

地獄のような結婚生活から逃れるため何度が自害を考えた。だが、いざとなると

どうしても神の教えに逆らうことができなかった。



莉江は波打ち際に佇み水平線の彼方をじっと見つめていた。

凍り付くような絶望の中で一人必死に耐えている彼女の苦悩が健介に痛いほど

伝わって来る。そばに駆け寄り力いっぱい抱きしめてやりたい衝動に駆られた。

「済まない… 藤森から純一君を助け出すことはできなかった。

けど、君のことは絶対、守ってみせる」


手紙を握りしめた健介は莉江の背中にそっと語りかけた。








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