01.白い子犬を抱く女(1)
愛の輪廻ーー 命に限りがあるように永遠に続く愛は存在しないかもしれないけれど、死と再生を繰り返す不滅の愛は在ると信じたい……。
~莉江、その愛 Ⅰ~
健介は砂浜に座り水平線に落ちてゆく夕日をじっと眺めていた。
めぐみがこよなく愛したケープ・コッドの秋の海-- 二人で毎年訪れる
ことを約束したこの場所に一人で来るまでに三年半の歳月を要した。
(メグ、約束通り俺は自分の足で歩いてここへ来たぞ。
二人で一緒にこの浜を歩くはずだったろ。それなのに…
君は俺を残し一人でさっさと逝ってしまった…)
健介は足元の砂を握りしめた。
愛する妻の死から立ち直れず、羅針盤の壊れた船のように彼の心はいまだに
大海原をあてもなく彷徨っている。
めぐみの死後、健介はボストンを逃れるようにワシントンへ戻った。
彼女の死をどうしても受け入れられず自らを責め続けた。
ひたすら歩行訓練のリハビリに集中し大学の研究室で黙々と研究を続けることで
孤独な生活に耐えていた。
下半身麻痺の後遺症は全く残らず以前のように歩けるまでに回復している。
有能な三十八歳の独身医師に言い寄って来る女は何人にもいる。だが、彼は
左手の薬指の指輪を決して外すことなく誰にも心を開こうとはしない。
出産後ジェニーとは絶縁状態になった。めぐみが逝った同じ日に生まれた
双子に対し父親の愛情を示せない健介を非難罵倒し彼女の方から去って行った。
(そろそろ行くとするか…)
ズボンの裾についた砂を振り払った。
学会のためボストンに来ていた健介はリズを訪ねる途中ここへ立ち寄った。
海岸沿いの駐車場に引き返すと車の前で白い子犬がうろうろしている。
日が沈み辺りは薄暗くなっていた。
「おまえ、迷子になったのか?」
抱き上げると首輪のついた子犬は嬉しそうに鼻をクンクンと鳴らした。
突然、背後で微かな鈴の音がした。すると、子犬は健介の腕をすり抜け
鈴の鳴る方向へ一目散に駆け出した。向かった先には若い女が立っていた。
飼い主らしいその女は子犬を抱き上げた。
「それ、君の犬?」
健介の問いかけに返事もせず子犬を抱きしめ頬ずりをしている。
人を無視するような女の態度にむっとし車に乗り込もうとドアに手をかけた。
と、その時また背後で例の鈴の音がした。
振り向くと、子犬を抱いた女がにっこりと微笑みながらこっちに近づいて
来る。そして、車の前まで来ると無言で会釈した。
女の顔を見た瞬間、健介は思わず息を呑んだ。
呆然と自分を見つめる健介に少し困惑した表情を浮かべながら、女は両耳と
口を手で押さえ両手でバツ印を作った。
「君、耳が不自由なの?」
英語の問いかけに首をかしげる女に、今度はゆっくりとした日本語で聞いて
みた。すると、健介の唇の動きに彼女はこくりと頷いた。そして子犬を指差し
礼を言うように頭をぺこりと下げた。
「迷子の子猫、じゃなくて 〝子犬” にならなくて良かったね」
身振り手振りを交えてゆっくり大きく口を動かす健介の様子に、女は可笑し
そうにくすっと笑った。
俯き加減にはにかむように見せる笑顔、それはまさしく亡き妻のものだった。
健介の胸に何か熱いものがこみ上げてくる。
「君、この近くに住んでい、…」と言いかけた時、一台の車が道路わき
に停止した。気づいた女は軽く会釈すると子犬を抱いて小走りで車まで行き、
助手席に乗り込んだ。白い乗用車はあっという間に海岸線を北上して行った。
走り去る車を見ながら健介はふーと大きく息を吐いた。
若い女はまるで一卵性双生児のように出逢ったころのめぐみとそっくりだった。
なにか信じられない光景を目にしたようで健介は暫くその場に立ち尽くした。
* * * * * * *
「ケン、よく来てくれたわね」
「すっかりご無沙汰してしまって…」
健介が『リズの家』を訪れるのはめぐみが亡くなって以来初めてだった。
「早いものねえ、あれからもう三年になるのね… ケープに来るの、
辛かったでしょ? ここにはあなたたち二人の想い出がぎっしり詰まって
いるものねえ…」
リズは潤んだ瞳で窓際のピアノに目を遣った。
「ええ、なんとか気持ちに区切りがついて、やっと来ることができました」
「そう、それを聞いて安心したわ。メグの分まで彼女が愛したケープの秋を
楽しんでいってね」
健介は静かに頷いた。
「リズ、あの… 」
「?…」
「…さっきここへ来る途中、海岸でメグにそっくりの女性に出くわして…」
言おうか言うまいか迷ったが、思い切って切り出した。
「…聾唖の若い女の人でしょ…」
「彼女のこと、知ってるんですか? この近くに住んでいるんですね?」
健介は思わず身を乗り出した。
「ええ… 」
リズは躊躇うように伏し目がちに頷くと一呼吸おいて話を続けた。
「私もはじめて会った時、心臓が止まりそうになったわ…
ケン、覚えてる、ポールの画廊で働いていた日本人の青年のこと?
あなたとメグが最後にここへ来てくれたすぐあとだったかしら、彼がパリへ
旅立ったのは… つい一か月ほど前、ケープに戻って来たの、婚約者を
連れて」
めぐみが肺炎になりかけた時、一晩中そばに付き添って看病した画家志望の
青年、仁科純一の、どこかナイーブではにかむような表情が健介の脳裏を
過ぎった。
* * * * * * * *
「ケン、久しぶりだねぇー 元気そうじゃん」
「ああ… そっちも相変わらず商売繁盛でけっこうだな」
カウンターの隅に座った健介は客で賑わう店内を見回した。
数年前、マリエは勤めていたカラオケ・バーの韓国人オーナーからこの店を
買い取った。以前のいかがわしい雰囲気とは一変して、洒落たインテリアに
改装された店内は日本人観光客や地元の客がカラオケを気楽に楽しんでいる。
「こっちにはいつまで?」
「あさって帰る」
「もうそろそろ、こっちに戻ればいいじゃん」
「……」
マリエはカウンターの上に水割りのグラスを置いた。
「まだ、忘れられないんだ… いい娘だったもんね、メグちゃん」
健介の左手の薬指に目を遣った。
「でもさケン、酷なようだけど、いつまでも死んだ女房、引き摺って生きて
行くわけにはいかないよ。アンタ、まだ若いんだから人生これからだよ。
ぱぁーとやんなきゃ! 先月うちにもいい娘が入ったんだ。明るくて気立てが
良くて、まあ、器量のほうはメグちゃんにはとても敵わないけどさ、とにかく
性格がいい娘なんだ。今日はオフだけど… 」
「まっ、俺は遠慮しとくよ」
マリエの話を遮り、水割りを一気に飲み干した。
「無理強いはしないけどさ… その気になったらいつでも相談に乗るよ。
やっぱさ、昔の仲間には、こうハッピーでいてほしいじゃん」
二杯目の水割りを健介の前に差し出した。
「あ、そうだ、昔の仲間で思い出したけどさ… ケン、覚えてるかい『ホーム』
で一緒だったジョージのこと? たしか、アンタと同い年だったはずだよ」
「ジョージ…」
それは、健介にとって忘れようとしても忘れられない男の名である。
その男のお蔭で傷害致死の濡れ衣を着せられ危うく少年院に送られるところ
だった。マリエはすでに『ホーム』を飛び出した後で、健介が渡米する
きっかけとなった傷害事件の詳細は知らない。
「この間、偶然ここに現れてさ、ビシッとブランドもんの高級スーツできめて、
札束切って、まるで昔の面影がないんで『ホーム』にいたあのジョージだって
言われてもすぐには信じられなかったよ」
マリエも水割りを呷った。
「今、画商とか言うのやってるらしい」
「画商って、あの絵画の売り買いする?」
健介は驚いた。あの男と画商のイメージはどうしても結びつかない。
「そう、信じらんないだろ、あのワルがさ… なんでも、六本木のホストクラブ
で働いてる時に大金持ちの有閑マダムがパトロンについて、その旦那がたまたま
そっち方面の仕事をしてたとかでフランスに渡ったらしい。なんとか言う有名な
画伯に取り入ってその一人娘の婿養子なって、ほら、あの逆玉とか言うヤツ。
その遺産ががっぽり入ったとかで… とにかく、羽振りのいい生活してるみたい
だよ」
「なんでボストンに?」
「さあ? そのへんの事は何も言ってなかったけど… でもやっぱさ、所詮は
成金だよね。酒が入るとすぐメッキが剥げて、本性丸出しって感じ。酒癖悪く
って横柄な態度で、うちの女の子たちも相当嫌がってた」
あの当時から狡賢くて、金のためなら平気で仲間を裏切るような筋金入りの
悪党だった。マリエの話からあの男の現在の姿が容易に想像できた。
「あんまり自分の自慢話ばっかするんで、ケンがここで立派な医者になってる
こと言ってやったら、アイツ驚いてたよ」
「俺のこと、話したのか?」
「いけなかったかい?」
「いや… 」
横須賀時代の消せるものなら消してしまいたいような暗い過去が健介の脳裏を
掠めた。