初恋
もっと大きく……もっと大きくなりたいなぁ。
「浩輔! 牛乳飲みすぎっ」
「だってはやくおっきくなりたいんだもんっ」
ちぃちゃんより背が高くなって、ちぃちゃんを守れるようになったらちぃちゃんと結婚するんだ!
僕の名前は羽多野浩輔。5歳の幼稚園児。りす組さんで一番身長が低いんだ。身長は105cm。もっと大きくなりたい。みんなに比べて身長が低いからという理由もあるけれど、それよりももっと大きな理由がある。 ちぃちゃんの背よりぐんと高くなって、ちぃちゃんをなでなでしたい。いつもされてばかりだから。
「こーすけくんっ! ダンゴ虫捕まえに行こうっ」
「いいよ。ちぃちゃんを守るためには虫くらい捕まえられなきゃっ」
僕は友達の洋樹くんとダンゴ虫を捕まえに草むらに入る。緑色の草たちが僕の足に当たってこそばゆい。僕がゆっくり歩いているうちに、洋樹くんはもう奥の方へ、虫がいるような暗い所まで進んでいた。
「待ってよ、洋樹くん」
「あ、こーすけくんの近くにバッタ」
バッタ……? そう疑問に思って下を向く。緑色の大きなバッタが僕の靴の上に乗っかっていた。
「ぎゃああ!」
僕は吃驚して草むらにしりもちをついた。バッタも吃驚したようで飛び跳ねてどこかへ行ってしまった。洋樹くんはバッタをおいかけて砂場のほうへ駆けて行った。僕の悲鳴に気づいた先生がポニーテイルを揺らして駆け寄ってくる。
「どうしたの、怪我してない?」
「だ、だいじょうぶ……」
僕は優しい先生に手を引かれて立ち上がる。立ち上がったと共に先生は服の土を払ってくれた。 気を付けてね、と先生は転んだときに落としてしまった青い帽子を被せてくれる。
「この帽子大事にしなきゃね、ちぃちゃんがくれたんでしょ?」
「うん! ちぃちゃんだいすき!」
「ほんと、浩輔くんは千秋ちゃんすきねぇ。あ、憐ちゃんか。千秋憐ちゃん。苗字もかわいいのよねあの子。今日迎えに来てくれるといいねー」
先生はくすりと笑って僕の頭を撫でてくれた。僕も笑った。
「はーい、お迎えの時間ですよー」
「みんなー、帰るお支度したかなー?」
幼稚園の先生が笑顔でそう言った。僕はこの時間帯になるとうきうきする。 お迎えの時間だからだ。お迎えはいつもねーちゃん、なんだけど、たまにちぃちゃんも来てくれるときがある。僕がちぃちゃんと会える回数のほとんどがこれだ。
周りの子たちが次々帰って行く。お母さんと一緒に。
僕にはお母さんがいないから、お母さんと手を繋いで一緒に家路につくことを知らない。だけどそれが楽しいことは知ってる。みんな笑顔だから。今日一日あったこと、できたこと、怖かったこと。いろんなことを話す機会。僕にはない。ねーちゃんと帰るとき、そういう話はする。するけど、僕はお母さんのすべすべで温かい大きな手と手を繋いだことはない。
「浩輔くん、お姉ちゃん来てくれたよー」
先生の優しい声に僕は椅子から立ち上がる。カバンを肩にかけて、門のところに歩いていくと制服姿のねーちゃんがエコバッグを両手に抱えて笑ってた。
「眞子ちゃんいつもお疲れさま。うわぁ、スーパー行ってきたの? 大量ねぇ」
「いつもありがとうございます。買いだめですよ、あたしも学校で忙しいんで」
「そうだよねぇ。……浩輔くん、今日はバッタに吃驚したみたいでこけちゃったんです。見た感じ大丈夫だったんですけど、もし痛そうであれば病院に」
先生はねーちゃん、羽多野眞子と話している。右肩に鞄をかけ、両手にエコバッグ。重そうなエコバッグを持ちたいというのもはやく大きくなりたい理由の一つかもしれない。
ねーちゃんは疲れたのか床にエコバッグを下ろした。ショートボブの茶髪の隙間から見えるおでこに、少し汗が光っていた。今日は風が吹いてないから暑い。太陽もさんさんと日光を僕らに浴びせてる。
「わかりました。もぉー浩輔ってばバッタぐらいで……」
「び、吃驚してない! 驚いただけだもん!」
「それを吃驚したっていうの。ばぁか」
ねーちゃんは困ったように失笑したので僕は反撃を試みる。しかし、意味合いは一緒だったようだ。ねーちゃんは僕のおでこにデコピンをした。長い爪でぴんとはじかれ、僕のおでこは赤くなる。痛い……
むすぅとした顔でおでこを擦っていると、不意に僕の頭を帽子の上からなでる人がいた。くしゃくしゃと優しいこの感じ。僕は手を下ろして上を見上げる。僕の髪を撫でていたのは、やっぱりちぃちゃんだった。ちぃちゃんが笑うと僕の顔は真っ赤になる。
「浩輔は虫嫌いなの?」
「嫌い、じゃない」
「そうなの? すごいねぇ、私苦手なんだよねー」
「……うん」
なんだか複雑な気分。ちぃちゃんに嘘吐いてしまった。そのおかげでちぃちゃんに褒められた。なんだろうこの嫌な感じ。胸がざわざわしてきもちわるい。
僕は下を向いたままちぃちゃんの顔は少し見れなくなった。ねーちゃんがよいしょとエコバッグを手に持つ。さりげなくもう一つのエコバッグをちぃちゃんが持った。
「……じゃ、そろそろ帰ろうか。先生またよろしくお願いします。帰るよ、浩輔」
「うん、先生ばいばい」
「はい、ばいばい」
小さく手を振る先生に大きく手を振る僕とちぃちゃん。ちぃちゃんは僕の隣で無邪気に先生に手を振っている。こういう子供っぽい所も好き。
ちぃちゃんの笑顔が好き。ちぃちゃんの優しい声が好き。ちぃちゃんに撫でられるのが好き。ちぃちゃんと……
「浩輔、手繋ごうか」
「う、うん」
手を繋ぐのが大好き。ちぃちゃんの手は思ったよりも冷たかった。少し前でエコバッグを持ったねーちゃんは鼻歌を歌っている。少し前にねーちゃん、その後ろに手を繋いだ僕とちぃちゃん。これがいつもの図だった。
ふと、ねーちゃんがショートボブの髪を揺らして振り向く。前髪を留めたお花のピンが陽光に反射してきらりと光った。
「ねぇ、カチューシャ見にいっていい?」
その言葉にちぃちゃんはびっくりする。目をぱちぱちさせてねーちゃんを見た。
「え、また買うの? つい最近チェックの買ったはずじゃ」
「今度はチェックじゃないの、黒のレースのが欲しいのー」
ねーちゃんは地団駄を踏みながらやだやだとわがままを言う。我が姉ながら子供っぽい。ちぃちゃんは困ったように笑って何度もうなずいた。
「あーもーはいはいわかったわかった。浩輔も寄り道していい?」
「うん」
ねーちゃんがカチューシャを見ている間、僕がちぃちゃんと喋る時間が増えるならいいや。僕はちぃちゃんの手のぬくもりを感じながらそう思った。
僕たちは帰る前に街の小さなファンシーショップに寄った。店の名前は英語で読めない。
カランコロンと鐘が鳴る。店内はとても綺麗で可愛いものでいっぱいだった。テディベアやぬいぐるみ。シュシュに勿論カチューシャも。たくさん女の子が好きそうなものがたくさん。オレンジっぽい灯と静かな雰囲気が女の子好みの店だなと思った。
僕の隣で女の子二人は目が輝いている。ちぃちゃんは迷わず、まず最初にぬいぐるみのコーナーに行った。それに僕もついて行く。さっき僕の隣を歩いていたときよりも歩幅が大きいので、ついていくのは必死だった。ねーちゃんはもうすでにどこか奥の方へと消えていた。
ちぃちゃんは手当たり次第にぬいぐるみの頭を撫でていた。それの感触が見てるだけでも伝わってくる。 彼女は終始笑顔を絶やしていない。僕はちょっと背伸びして高いところにあったおさるさんのおなかを指でつんとついて、ちぃちゃんに話しかける。
「ちぃちゃん、ぬいぐるみ好き?」
「好きだよー」
ちぃちゃんはうさぎのぬいぐるみを手に取った。うすいピンク色をした可愛いうさぎ。もふもふしてちぃちゃんはそれを顔に押し付けている。
「あ、肌触りきもちい~。可愛い~」
僕はそれを黙って見てる。なんか、なんて言えばいいかわかんなくて。
「浩輔もほら、きもちいーでしょー」
ちぃちゃんはそう言って、それを僕の顔に押し付けた。もふもふして気持ちいい。
それから二人して照れくさそうに笑った。
やっぱり僕はちぃちゃんが好きだ。藍色の髪も、くるんくるん跳ねるくせっ毛も。希望をまっすぐ見つめる漆黒の瞳も。 僕より55cm離れている身長も。
無邪気な笑顔も、素直に謝る姿も、時々怒るふくれた顔も全部大好き。
僕の髪をいつも撫でてくれて、僕がねーちゃんに怒られて泣いてた時も、僕が一人でいるときも、僕が風邪をひいたときも、いつでもどこでもちぃちゃんは来てくれた。
お姉ちゃんとしてじゃなくて、本当にちぃちゃんが好きなんだ。
店内に人が増えてきたので、僕たちはねーちゃんを置いて先に出てきてしまった。お店の前でねーちゃんを待つ。ちぃちゃんは青空を見上げて言った。
「おっそいねぇ、眞子」
「うん、遅い。晩御飯の用意しなきゃいけないのに」
「まったく、眞子ってば猪突猛進なんだから」
ちぃちゃんは笑った。ちょとつもうしんってどういう意味だろう。頭をひねり、うーんと考え込んでいると自転車のブレーキ音が耳に入り、僕の思考は停止した。そして聞き覚えのある声がちぃちゃんを呼んだ。
「……千秋ちゃん!」
明るい声でちぃちゃんの名を呼んだ男の子は――僕もよく知る人物、青梅響という男の子だった。
「青梅先輩!」
ちぃちゃんはもたれていた電柱から背を離し、響くんに微笑んだ。響くんは近所の男の子だ。ねーちゃんとは同級生でちぃちゃんより2つ年上。七分袖にまくったカッターシャツの胸元をぱたぱたさせながら、こちらへ駆け寄ってきた。近くで見る彼は一層かっこよくて、背が高くて僕は少ししょんぼりする。
「こんなとこでなにしてんの?」
「ここのお店で買い物してたんです。眞子がなかなか出てこなくって」
「眞子が? 意外にもこういうもの好きだからなぁあいつ」
「……そう、ですね。とっても嬉しそうにしてました」
困ったように笑う響くんにちぃちゃんが相槌を打つ。あれ、一瞬ちぃちゃんの表情が暗くなったような……気のせいなのかな。笑顔になったちぃちゃんだけど、その笑顔にはなにか隠してる悲しみを感じた。無理やりつくったようなそれで。見てるとなんだか胸が痛くなった。
僕がちぃちゃん、と呼びかけようとした時、
「買った買った~。ごめんね遅くなってー」
ねーちゃんの節操のない声が聞こえた。高揚した顔でこちらにぶんぶん手を振っている。左手にはお店の紙袋を二つ持っていた。響くんは眉をひそめ、腕を組んでねーちゃんをじと目でみる。
「眞子ー、千秋ちゃんと浩輔待たせちゃダメだろ?」
「ごめんね! いいものたくさんあってさー。あぁそうそう、ちぃ、これあげる」
ねーちゃんが袋の中から出したものはオレンジ色の腕輪だった。ポップな蛍光色のオレンジ。厚めのバングルでとてもかわいい。ちぃちゃんはそれを両手で丁寧に受け取ってきょとんとした顔をした。
「ありがとう、すっごくかわいい」
「うん、今日のお礼。浩輔の面倒も見てくれたし。ほら、あたしは水色!」
そう言って腕をまくるねーちゃん。細い腕にソーダアイスみたいなきれいな水色の腕輪。ちぃちゃんのとは色違いのがついていた。
「わ、色違いだー。嬉しい、ありがとね」
照れくさそうに笑うねーちゃんはちぃちゃんの頭を優しく撫でる。照れ隠しなのは誰が見てもお見通しだった。ちぃちゃんははにかみながら腕に腕輪を付けた。自らの腕についた腕輪をしばらく黙って眺めている。嬉しそうに下唇を少し噛みしめて。 それを僕と響くんは黙ってみていた。
「見てください青梅先輩! 眞子にもらっちゃいました」
「……あ、あぁうん。似合ってるよ」
響くんは曖昧に返事をして、後ろ頭をかいた。僕と彼はきっと同じ気持ちを抱いているのではないだろうか。響くんは息を吸ってちぃちゃんに向けて言葉をかける。顔は少し薄赤く染まっているような気がする。
「千秋ちゃんはなにか買ったの?」
「あぁ、財布今日忘れちゃっててなにも買ってないんですよ」
ちぃちゃんはえへへと苦笑いをして目線を下に落とした。少しの沈黙が下りた。その沈黙を破ったのは僕ではなくて彼で、僕が手を引きたかったのに彼女の手を引いたのは彼で、彼女の視線は僕ではなく彼に向けられる。
「先輩?」
「どれがほしいの」
「えっ」
「プレゼントするから」
「えっ、えっ?」
はてなを浮かべるちぃちゃんは引っ張られるようにしてお店の中に入っていった。ねーちゃんは黙って家路に向かって歩いていく。
ねーちゃんの背中もお店の扉も僕のたたずまいも全部きらいだ。
握った拳と下唇が赤くなってひりひりと痛みを訴えてくる。
――夏が近い。