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ピアノシリーズ

プレリュード

作者: まめご

高校生の頃、ピアノが上手な男の子がいた。

グランドピアノが置いてある多目的室で、昼休みになると決まって何かを弾いていた。

彼の奏でる曲はまるで幾何学の問題のように難解で、機械みたいに淡々と鍵盤を叩いている姿は端正で静かだった。

どこか人を見下したような雰囲気を持つ彼に反感を持つ子はいたけれど、それがいいという熱狂的なファンも多く、わたしもその1人だった。

美しいものを美しいと思って何が悪い。

時間になると薄汚れた窓のサッシに手をかけて、こっそり多目的室を覗きこみ、紡がれる音楽に耳を傾けて、ただひたすら薄い背中を凝視することが日課になっていた。

本当は声をかけてみたい。

楽譜を整えて立ち上がった彼に駆けよるクラスメイトみたいに、気軽に「すごかー」なんて言ってみたい。

だけど、行こうと思えば思うほど足は硬直したし、廊下ですれ違う度に緊張のあまり挙動不審になってしまうわたしに、どうしてもその勇気はでなかった。

結局、自分はここのポジションが落ち着くんだと納得させて、ひんやりしたお馴染みのサッシに小さなため息を吐く毎日を送っていた。


よく晴れた初冬の日だったと思う。

いつものように多目的室のピアノを弾いていた彼の曲が、この日は違った。

複雑で硬質な難しいものではなく、もっと単純で優しくて惹きこまれるような。

音の1つ1つが虹色の小さな玉になって連なり、澄んだ青空に昇ってゆく、そんなイメージ。

体の中に優しく包むように入ってきて、奥底をキュンと締めつける。

何の曲か知りたい。今までたくさんの彼のピアノを聞いてきたけれど、激しくそう思ったのは、これが初めてだった。

気が付けば昼休み終了5分前、彼はすでに立ち上がって楽譜を手に取っている。

焦ったわたしは、なけなしの勇気を振り絞って、駆けだした。

「い、今の曲、なんていうと?」

多目的室を出た瞬間、ものすごい勢いで聞いてくるわたしに彼はびっくりした顔をしたが、すぐにいつもの冷たい表情に戻って

「プレリュード」

一言だけ残してさっさと教室へ戻っていった。

プレリュード。

いつもは女の子たちに何を言われてもうっとおしそうに返事をしない彼が、答えてくれたことに、声が思ったより低くて湿っていたことに、その言葉の響きにほとんど茫然として、廊下に立ちつくしていた。

プレリュード。

もう一度、小さく呟いてみる。

灰色の廊下に舞い込んだ落ち葉が、カサカサと音を立てて転がっていった。


その曲を探すのは、ひどく困難な作業だった。

プレリュードとは前奏曲という意味であるらしく、同じ名前を持つ曲は無数にあった。

ネットなんて便利なものをうちで所有しているのはお兄ちゃんだけだし、使わせてもらうのに理由がいる。またそれをネチネチからかわれるのは嫌だった(いない隙をみて開けてみたらロックがかかっていた)。ネットカフェは怖くて入れない。最終的にCDショップで店員さんの前で歌ってみせるという、この上ない恥ずかしい手段を取って購入し、ホクホクで家で再生してみたら、ピアノじゃなくてチェロだった。

「ジャケットがチェロの時点で気付けよ、バカ!!」

自分で自分に突っ込んで、やっとこさ願うものを手に入れた時の嬉しさといったら。

バッハの平均律クラヴィーア曲集より プレリュード ハ長調。

クラヴィーアはドイツ語でピアノを意味する、とか平均律とは1オクターヴを12音で割った調律のことで、とか難しいことが付属の説明書にはかいてあったけれど、そんなことはどうでもよかった。

何度も繰り返し聞きながら、彼を想った。

彼もわたしのことを悪くは思ってないのかもしれない。だって、曲のタイトルを教えてくれた。みんなにはそっけないのに、わたしにだけ教えてくれた。

今度また、声をかけてみようか。

――CDを買ったよ、毎日聞いている。すごく好きになっちゃったから。

そしたら彼は照れ臭そうに微笑んでくれる。

――嬉しいな、君に聞いてもらう為に毎日弾いていたから。

えっ、と驚くわたしの顎は、いつもは鍵盤を叩く繊細な指に持ち上げられて

――また弾いてあげるよ。その前にキスしてもいい?

夕暮れ時の多目的室、うずくまるグランドピアノの前で……

「きゃー! きゃー! きゃああーー!」

日々ジタバタとベッドで転がりまくり、お兄ちゃんからしょっちゅう苦情が来たりしたけれど、残念ながらめくるめく妄想は現実にならなかった。

彼は相変わらずわたしのことなど目に留めなかったし、わたしはわたしで彼の前に立つとパニックを起こして声をかけるどころじゃなかった。

卒業式の日も、結局何もできず何も起こらず、彼は東京の音楽大に行ってしまった。



言い訳だけれども、わたしも東京の短大に進んだのは別に追いかけた訳じゃない。

だけど、その音大がある界隈にはしょっちゅう出没した。

もしばったり会ったら、少しは垢ぬけたこの姿を見て、何かが始まるかもしれない。同郷のよしみで、仲良くなれるかもしれない。

なんて儚い期待を胸に時間があると音大の近くのカフェに行ったり、並木道を散歩したりしたけれど、ドラマのような運命が舞い降りるはずはなく、その内に自分の生活に夢中になり彼氏ができたりして、彼のことは少しずつ忘れていった。


それから1年ほどたった頃だろうか。

偶然は突然訪れた。例の音大の近所にあるお気に入りのブティックから地下鉄の駅へ向かっている途中、丁度階段を上がってくる彼を見つけた。

「あ、木戸くん」

つい声が出てしまったかもしれない。

変わったな。学ランしか知らなかったけど、ずいぶんと大人っぽくなって、尖った感じが消えた。その彼が振り返って後ろに声をかけた。

「遅いぞ、祥子。早く来いよ」

続いて地下鉄の出口から出てきたのは、茶色っぽいセミロングのかわいい女の子で、何故かウニウニと小さく口を動かしている。

「……なにやってんの、お前」

「いや、先程のキスを反芻を」

「――ッ! お前は牛か!」

真っ赤になって腕を振り回す彼とすれ違いながら、悟られないように小さく笑う。

マイナスの感情は全然湧かない。むしろ祝福したい気持ちでいっぱいだった。

そうかそうか、人気のない階段でキスしちゃうほど好きな人ができたのか。

本当に良かったね。

多分、わたしも幸せだったからそう思えたんだと思う。

あの頃ずっと聞いていたプレリュードが、彼に抱いていた恋心と共によみがえる。コロコロと転がる数珠玉の音色は、連なってゆるやかに風に乗る。

軒下の猫の髭をくすぐり、いつの間にか彼女と手を繋いだ彼の頬を撫で、並木道の街路樹を揺らして、空高く昇ってゆく。


それは、際限のない音楽だった。



同シリーズの「サラバンド」とリンクしています。

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