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二.女 female 「盲目」



 [化学準備室]の中は、六畳ほどの空間をガラス張りの棚が囲っていて、真ん中に四角い机が置かれていた。そして床を除くすべての場所に、ビーカーやら何やら、薬品や器具で埋め尽くされている。半ば密閉された空間のよどんだ空気のせいか、結城さんは頭がくらくらした。

「(硫酸)。無機酸の一種。化学式 H2SO4 無色で粘り気のある重い液体だ。硝酸に次いで酸性が強く、有機物からも水の組成と同じ割合で酸素と水素を奪いとり、炭素を遊離させる! 脱水剤・酸化剤・乾燥剤などとして用いられ、硫安・火薬・染料・無機化学薬品の製造、有機化合物の合成、石油や油脂の精製など、極めて広い工業用の用途を持っている・・・。」

ちょっと遠くの薬局に行って、硝酸と同じ方法で硫酸も手に入れようと結城さんは思っていたのだけど、無理だった。硫酸は取り扱っていないのだという。学生には売れない、という意味なのかもしれない。

棚には莫大な量の薬品が陳列されている。結城さんは身をかがめガラス越しに覗き込んだが、3、4列は当たり前で、奥のものはラベルが読めない。しかも、ラベルに書いてある化学式は象形文字のような記号と化していて、

「・・・エイチツー・・・、エイチニジュウ? ああ、エイチツーオー。水・・・?」

 そんなものまで大層な感じに押し込まれていて酷く整頓されていなかった。溜息をつく結城さん。

 そうやって探し始めて十分。永遠に続くかと思われた作業だったが、以外に早くに目的の濃硫酸は見つかった。それは今さっき使ったまま棚に放り込んだように、列の更に手前に投げやりな姿で置かれていた。ガラス瓶にはセロテープの上から、H2SO4とマジック書きされている。

(やった♪)自分の行動の正しさが証明されたような気がして、結城さんは頬を緩ませた。もちろん錯覚なのだが。手に取ろうとガラス戸に手をかけた。そのとき―――

 がっ。

 と抵抗を感じた。

 すぐにまた引いてみた。何度も何度も引いた。

「な、なんでなんで。」

 だけど棚の戸は何かがつっかえてるように、がたがたと鳴って開こうとしない。

 つっかえ棒?

(あっ、当たり前だ・・・!)

 棚には鍵がかかっていた。これではどうやっても開かない。(どうしよう。)結城さんは薬品に囲まれたまま途方にくれた。(あともう少しなのに・・・。)自分がなんでこんな場所で立ち尽くしているのかひどく不思議に思ってきた。

「もうやめたら? そいつと交際するのは無理だよ。」

「そ、そんな気もしてこないこともないんだけど・・・。」

「彼は人の好意を真摯に受け止められるほど出来てないよ。」

「それも、分かるんだけど・・・。」

「慰め言うなら、きみ、取りあえず目立ってるし、ある意味人気者なんだから他に機会があるはずだよ。」

「だけど、わたしは、ああいう所も愛しかったり、するんだけど。」

「良く分かんないよ・・・。」

「理性とか感情じゃなくて、もはや肉体的欲求、なんだよ。・・・肩とか手とかえらとか・・・触りたいよ・・・。」

「えら・・・。」

「それに、どんなことでも良いから、ただ話をしたい・・・それだけでいいんだもん・・・。」

「・・・はげしく恋してるね。」

‘Love is blind…!’(そう、恋は盲目。)

 がちゃん、と悲鳴を上げて、ガラス戸は粉々に崩れた。結城さんは急いで瓶を掴むと、握っていた金づちを投げ捨てた。

(悪いのはわたしじゃないよ。机の上にトンカチなんて放置しておく奴が悪いんだもん。)

 音を忍ばせて〔化学準備室〕を出て、すぐに鍵を閉めた。部屋の外は夕日がまぶしくて、たまらず目を細めた。真っ黒で長い陰が、白い扉の上に張り付いた。

(本当にアウトロウになっちゃった・・・。)






***










手紙(3)


やはり一番簡単で、ぼくがアイデンティティも男であることも失わずに済む唯一の方法―――「こんな」男、であることを辞めればいい。

肉体が滅びれば、ぼくの、肉体を伴うがゆえの悩みは消える。

男でも女でもない、内面だけの存在になり、もう社会が規定する愛に束縛されることはない。

ただ ぼくそのものが存在した、という事実のみが残り、人は何の偏見も制約も介在させず、ぼくそのものを愛することができる。愛は肉からなんて得られない。精神によって規定された本当の愛。

ぼくは初めて、それを手にする。

 受肉の恐怖から、とうとう開放されるんだ。

今までありがとう。

倉田優介







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