二.女 female 「石鹸」
何なのだろうこの女は。
ぼくは動きを止め、半身振り返りながら考えていた。同じ教室ということ以外、何の接点もない、喋り方の変なノッポに呼び止められる理由が分からない。「場繋ぎ」の為の「話の取っ掛かり」として無意味なことを話しかける奴はたまにいるが、大抵引き際を心得ているもんだ。その間に丁寧にブレザーにハンケチをしまいながら、ぼくは瞬きとともに小首を傾げていぶかしんだ。
ぼくは社交辞令が嫌いだ。どうして良く知りもしない奴と友人のように接する? 互いに不快にならずに適度な居心地を提供し合うため? 素晴らしい強調関係、大人の関係だ。しかしそれは、相手へ期待し、依存する関係でもある。一個の人間だったら当然出てくる違いを許容するのではなく、目をつぶる行為。何にもない関係であることの暗黙の了解。甘えている。
ぼくは誰とでも、魂のぶつかりあう関係でいたい。
そんな奴はいないけど。
彼女はにこりと微笑みあさっての方向を見ている。
「みんなはクララくんのことを生焼けだと思っているけど、私は相当なハードボイルドで、アウトロウなんだと思うな。」
なにを言ったんだ?
しばしの思索を離れて、例の彼女、結城さんを伏し目がちに目を細めて見つめた。おとなしめな印象の人だと思ってたが、かなりやばくないか。結城さんは体の前で結んだ両手を覚束なく動かして、漫画のようにもじもじしている。
「なんか、上手く言えてないんだけど・・・。」
意味が分からない。なんだか背筋に寒いものを感じて、冷や汗が流れてくる。それと同時に、内ポケットに慌てて入れた石鹸が気になってきた。泡を流さず急いでケースに入れたから、放っておくとカビが生える。取り出して丁寧に洗い直したいが、さすがにそれは滑稽だろうか。早く終わらせてくれないかな、もうこれ以上は限界だ。だがどうやって逃げる? 焦燥感から顔が高潮してくるのが分かり、更に焦燥する。こんな馬鹿に勘違いされちゃ笑いものだ。そう思うと更に更に脂汗が流れ、全身の体温が奪われていく。だが彼女の方には、口調も表情もだんだんと熱を帯びてきてるみたいで、そんなぼくへ気を遣おうという気配はまるで見えない。
「ああそういえば、言うの忘れてた。始めに言わなきゃならないよね。」
なにがだ!
「あの手紙…書いたのわたしです。」
手紙・・・?
一瞬の疑問の後、ぼくは血液がぐんぐん逆流していくような感覚に襲われた。まさか、まさか、まさか。自分では抗いようのない感覚。
「わたしの考え、伝わりました?」
あの恋文は本物? まさか。彼女はぼくを好いている? まさか。だが否定しても否定しても、意思とは無関係に体温が上昇していく、全身が真赤になっていく。ぼくが彼女を意識する? まさか!
――やめてくれ! 落ち着け・・・僕は人から愛されるような人間じゃない・・・何かの間違いだ・・・。
ぼくは顔を伏せて何かを言う代わりに胸ポケットからメモ帳を取り出し、そこに乱雑な字で書き殴った。そして恐らく呆然とそれを見つめている彼女と顔を合わすことなくメモを押し付けると、誰にも聞こえないような小声で「それじゃあ。」と言い残しその場を逃げ出した。
彼が去った後、真っ白な思考の中で結城さんは残されたメモを読んだ。一文字一文字が小さくて、でも鋭く撥ねた直線的な字。
『言葉にはパワーがある。「悲しい」と口にすれば悲しかったような気になってくる。実際、悲しみなんて感じてはいないのにさ。だから葬式では皆持てる限りの語彙を費やして悲しみを表現する。本当に悲しいかどうかじゃなく、「悲しむ」のが重要な場だからね。だからぼくは、君の恋もその類なんじゃないかと疑っているんだ。』
(この人、わたしとそっくりだ・・・。)
夢見心地だった結城さんがそのメモにますます確信を強め、彼への妄想を加速させたことを優介くんは知らない。
ちかごろ気候変動がはげしい。昨日まで寒さで縮み上がっていたのに、今日なんか暑いくらいだ。外を見ると、日の光を浴びてすべての色が明るい。おかげでどす黒く渦巻くぼくの内面は、正に清涼な世界のなかの一点の汚濁だ。くそ、天気予報も見ずに厚着してきてしまったせいで汗が噴出してくる。
友人から話し掛けられるだけでびくと肩を震わす。なぜだ。なにもやましいことはしていない。少なくともまだしていない。するはずもない。空想は空想であり、現実に行うわけじゃない。分かるわけないし、ばれるわけない。それでもなぜか、頭の中を見透かされているような気がして、絞首台に載せられ床板を外された死刑囚のように、空想のなかでぼくは転落する。
上の空のぼくに友人は退屈したのか、やがて黙りこくってしまった。こういうとき黙ってくれるのが彼の良いところだ。だが問題もある。ぼくの構想を話しても恐らく彼は黙りこくるだろう。まあ、不適切な答えを返すよりはマシかもしれないが。
その友人、遠野卓美くんはどうでもいいことばかり話していたが、ぼくには特に何も要求しなかった。話を聞いてやっていればそれでいい、楽な相手だ。たぶん、渋そうな表情と面構えとは裏腹に、シャイな奴なのだと思う。
平穏な一日が終わり、たぶん平穏な明日のために今は家に帰る。もうあの実のないコンピュータ部へは行っていない。今まで帰りは一人で行動していたが、このごろは先の遠野くんと共に帰るようにしている。
そしてあの洗面場へも、なんとなく行けない。
お母さんがぼくに言う。お父さんの自慢をぼくにする。大学生の頃の、お父さんの話。
あの無口のお父さんのことには思えない。いずれぼくもそうなるのかな。お母さんは言う。
だいじょうぶ。
がっ、と頬に突いた腕がはずれて、ぼくは現世の、小汚い学校に戻ってきた。西日差し込む学校の図書室。
「こ、こんにちは。」
微笑。声の主はすぐに分かった。ぼくは身を強張らす。顔を上げると、橙色の光を遮って背の高い影がぼくを見下ろしていた。戦慄する。青天の霹靂。青天じゃないけど。
まったく、ぼくの空気を読んでくれない。
いかれてるのはぼくの方じゃない、「彼女」がいかれているんだ。
ぼくがパイプ椅子から半ば立ち上がりながら緊張したほほ笑みを返したのに対し、「彼女」は何かを言い出そうとした。そのとき、唐突に思いついた。
だが、理解できるのか? この脳タリン女に。
しかし、いかれた彼女にはこれ以上相応しいことはない。
信ずるものは救われるってね。
そう自分に言い聞かせながら、結城さんは手にしたきらきらと金色に光る鍵を見た。一週間前、近所の店で作ってもらった鍵、この目の前の白い引き戸の合鍵だ。
躊躇するようにもう一度、左右に目をやる。薄暗い特別教室棟の廊下には、彼女のほか誰もいない。
(入るところを見られなきゃダイジョウブだよね・・・。)
ちゃんと調べておいた。先生が鍵を持って教室を閉めてまわるまではあと一時間ある。そして、二階上の音楽室や一階上の図書室と違ってここは部活動がない日にはわざわざ来ようなんて考える人はあまりいない。決心して彼女は、錆付いた銀色の鍵穴にその新しい鍵をさした。重い鍵を力いっぱいに捻ると、ガチャと音がして鍵は外れた。思わぬ音に、結城さんはびくついた。猫背気味に、もう一度回りを確認するがやはり他の物音は聞こえない。彼女は音を立てないように慎重に引き戸を引くと、開いた隙間に滑り込むようにして[化学準備室]へ入った。
「(硝酸)。窒素の酸素酸の一つ。化学式 HNO3 純粋なものは無色の液体で、吸湿性強く、発煙性が激しい。一般にはその水溶液をいう。各種の金属を侵しやすく、有機物をニトロ化する。硝酸塩・硝酸エステル・ニトロ化合物・硝安・火薬の原料、医薬品、酸化剤などに広く用いられる。」
優介くんが嬉々として語ったその薬品を手に入れるために、彼女は近所の薬品店に行った。こじんまりとしていて、所狭しと薬が並んだ店の中にはお客が一人もいなくて、退屈そうなおじさんの店主がカウンターに座っている、そんな感じの店。
「あなた、それなんに使うの?」
結城さんが出した学生証(市内有名高に通うお兄さんの学生証から偽造した)と印鑑を見ながら、おじさんは言った。白髪混じりの頭が、ちらちらと彼女を見た。
「はい?」
瞬きをして聞き返した。狭いカウンターの中で、おじさんは不機嫌に体を揺する。
「風邪薬買うのとは訳が違うんだよ。」
「ああ、」
結城さんは納得したようにこくりと頷いた。
「父が、農作業に使うんです。」
「・・・そう。」
おじさんは伝票を切って彼女に渡した。