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二.女 female 「倫理観」


 倫理観について考えている。というのもぼくは倫理観が強過ぎるのではないかと考えたからなのだが。

この際、ぼくの倫理観が具体的にどのようなものなのかということはさておき、ぼくが気にしているのはその倫理観が自分の中で占めるウェイトだ。と、いうのも、広義で価値観と言えばその個々の違いをぼくはかなり容認しているのだが、個人による価値観の相違の中に倫理感の違いというのも当然含まれる。この狭義による価値観=倫理観とすると、その個人による違いには大いに戸惑ってしまう。

 そして人によっては、「この人はぼくより、意識の中で『倫理観』というのものに置く比重が小さいのではないか」と思ってしまう。それは単なる相違でしかないのに。

 ぼくにとって自分の倫理感というはぼくの主体を定義する重要な要素で、多少大袈裟な喩えをするなら、「ぼく」を生き物とするとそれは「脳」だ。だが、前述のような人達、『倫理観に置くウェイトの小さい人たち』はぼくには倫理観というのものを「自分」に対して その主体的な行動を妨害する「足枷」という風に捉えているのではないかとすら思ってしまう。

 この考えは主観的だ。おかげでぼくの主観によって時にそのような奴等に恐怖を覚える。ぼくが倫理観におくウェイトが単に大き過ぎるだけなのか…? それとも奴等の倫理が異常なのか?


「ドーテイってなんですかー?」

 尋ねられた担任の池谷というおじさん先生は、箸を置くことなく苦笑いしている。

まだ夏の暑さが残留し続けている昼下がり、おとなしく給食を食べていれば良いものを。いつもの喧騒に狭苦しい教室でぼくは独りむせ返る。

どこからそんな話題が湧いて出たのか、そしてまた何故それをクラスメイト皆の問題とする必要があるのか、篠原は気さくな奴なのだが、こういう時にはただの馬鹿な小男に成り下がるのが問題だ。

だが教室は愉快に沸き上がる。どいつも単純かつ下品な下衆どもだ。そういうぼくは、作り笑いをした。手の平がじっとりと湿るのが分かった。こいつらにも、迎合してしまうぼくにも、内心で毒づきながらだ。

ウケを取れた篠原は調子付き、教室に常備されている広辞苑を手に取った。大きくなるどよめきと一緒に、みんなから呆れた溜め息が流れた。そら見たことか。

だが前後不覚の状態に陥った彼は止まることを知らない。操状態の情緒不安定児童のように明るく笑顔を輝かせると、広辞苑を繰り目的の単語の項を読み上げ始めた。

「・・・どうてい【童貞】1.まだ異性と・・・、」

「馬鹿、それは止めろよ、智央…。」

前の席の篠原の友人が咎めるように言った様子に、教室がまた沸き上がった。撥音が妙だったからだ。何故笑いが起こるのか分からずに彼は怪訝に周りを見回し、その様子に再び笑いが起こる。

こっちには分からない理由で笑っている連中ほど不愉快な奴等はいないな。いつかダイナマイトで爆殺してやる。


それにしても、皆は何故そんなに程度の低いユーモアで満足しているのだろう。捻りのない下ネタ、クダラナイ他人の仕草。どうでもいいじゃないか。

 大体こいつら、汚らわしい言葉をぽんぽん吐くが、何故そんなことができるのか不思議でならない。想像力の決定的な欠如としか思えない。完全な思考停止。その様子のおぞましさは少し知恵を使えば分かるはずだ。

「クララ君はこういうの、あんま面白くなさげだね?」

はっと瞬きした。隣りの佐藤さんだ。寄り目で笑窪が印象的な彼女に笑われた。

「そうでもないよ。」

はぁ? ぼくは何を言っているんだ。


 林間学校の時、就寝時間を過ぎたテントの中で、小学校の頃から一緒だった大川くんと彼女の話をしたことがある。話をした、といっても明るく軽い大川くんがただ佐藤さんのことを話していたのを聞いただけだが。ぼくが、「誰が可愛いと思う?」という彼の問いに答えるのを渋っていたところ、彼が勝手にクラスメイトを批評し始めたのだが、彼に言わせると佐藤さんはかなり「レベルが高い」のだという。

彼女は誰とでも気軽に話して仲良くなれるような人で、ぼくみたいな奴にも妙な話題を見つけてきてくれた。ぼくが自分から人に、ましてや女の子になど話しかけることなんて稀なので、彼女はクラスの女の子の中では接しやすい相手だった。ぼくも「可愛い」人なら彼女かな、と思っていた。

まぁしかし女の子は分からない。最初は積極的に話しかけてきたと思ったら、変に疎遠になったりする。何かヤバいことしちゃったのかと思えば、また普通に接してきたり。どう接したらいいのだろう。


 石造りの水道場で掃除の時間の最後に手を洗った。掃除は体育着でやらなければならないのだが、ぼくは着換えたくなかったので制服のままだった。よって汚さないように慎重な行動を取らなければならない。ここでも入念に両手を洗浄しつつ、撥ね付ける水滴には常に気を払う。

 他人との接し方が分からなくなってしまった。今まではどうやって接していたのだろうか。無意識でやっていたことが、急に意識的になり、やり方を見失った。

栓をひねって閉め、水を止めた。携帯している石鹸をケースに収め、内ポケットに入れる。ハンケチを持って来ていないので、この後の処理に困った。やや躊躇したが慎重に振って水を払い、教室に戻った。整列し直された自分の机から鞄を取ってまた教室を出た。

昔から傾向はあったものの、ぼくは対する人によって全く応対が変わってしまう。誰からも指摘されないが、痛いほど自覚がある。正に180度、多重人格的な八方美人だ。不器用なのが更にきまり悪い。だが、そのことで嫌われているなどと考えるのはおこがましく早計で自意識過剰な被害妄想屋だ。そんな悪感情すら持たれていない、ぼくはただのパッとしない地味な人だ。

ああ、そうだな・・・。ぼくは立て付けの悪い下駄箱をこじ開けながら考えた。コールドプロセスで作られた石鹸にはグリセリンが多量に含まれている。グリセリンは、高等植物や海草、動物などに広く含まれるモノだ。人間には、皮下や筋肉などに「脂質」という形で蓄えられている。

要するに脂肪だ。無色透明のシロップ状の液体で、匂いがなく、甘い。グリセリン自体は無害だが、化合物のニトログリセリンは強力な爆発力を持つ・・・。

かさ、と内履きの上に軽い感触を覚えて、ぼくは足元を見た。とっくに開いた下駄箱を前に物思いに耽っていたので、開いた拍子にそれが落ちたことに気付かなかった。







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