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一.男 male 「自然の音楽」



 ざあざあ雨が降っているある朝。垂直な白い壁と扉の横、教室の前の廊下の真ん中で、小柄で猿のような彼はぼくの髪をつかんでぐいぐいと引っ張っていた。長くて細くて何にもしなくてもさらさらとしたぼくの髪。毛根が堪らなく痛くて目に涙が浮かんだ。前のめりになって、濃緑色の床だけが目に入った。彼は得意そうに通り掛かった女の子達へ目配せして、ぼくの髪を掴んだまま手を目茶苦茶に振り回した。まるで芸をする動物園の猿だ。ぼくは痛みに耐えられず彼の動きに追従するしかなかった。

 女の子達は怪訝そうに眉を寄せてその場に立ち止まった。好奇の目を称賛と思ったのか、彼はますます調子付いてぼくを引きずろうとする。この勘違い男は今井翔太くん。

ぼくはその手を払い、今井くんの顔面を思いきり殴り付けた。


散々人に暴虐を尽くしておきながら、ぼくのげんこつ一回で赤ん坊のように鳴き始める男の子を見て胸糞が悪くなった。午後になって外の雨は小降りになったけど、じとじとと降りやまない。傘、持って来てない。

ぼくは最上階のパソコン室を出て廊下の角を曲がり、階段を降り始めた。ぼくは他に一年生が誰もいない、ついでに言うなら男の子しかいないパソコン部に入っていた。なんで入ったのか分からない。なんでそんな挑戦をしているのだ?

仕様が無いのでたまに顔を出してはワードでとりとめも無い小説を書いていた。だったら文芸部に入れば良かった。

まあしかし、文芸部や美術部は愛想の良くない女の先輩ばかりで、それはそれでぼくにはプレッシャーだったが。

「おっ、クララじゃないかァ。」

そのハスキーボイスを、ぼくの書いていた小説同様の、とりとめもない思考に埋もれていて聞き逃した。彼はそれが大いに不満だったようだった。

松本はいきなり強引に僕の肩に腕を回してきた。ぼくが眉を吊り下げて振り向くと、松本はにやにやしながらぼくの耳元に生暖かい息を吹き掛けてきた。

「どうしたの、冷たいナァ。ミズケンもいないし、ボクと君の仲だろォ。」

そう言ってぼくの頬をつまむと、左右につねった。ぼくは唇を震わせた。こいつは一階の階段裏へ連れて行こうとしている。

待て、『ミズケンもいないし』? どういう意味だ。

松本は落ちそうな両頬を揺らしてげへげへと笑った。

「来いよ。」

卑猥に細められた曇った瞳は、頬を離れぼくの身体をなぞるようにして移動させていた自らの手へ向けられていた。ぼくはその手を払いのけて、「一人でやってろ。」と吐き捨てた。そして一人で階段を降りようとした。

不意に、右手がぐいと引かれ、バランスを崩してぼくは踊り場へ腰から倒れ込んだ。

痛みに顔をしかめると松本が憤怒の表情を浮かべぼくの右手を握っていた。真っ赤に腫れ上がったような丸い顔は金切り声を上げた。

「馬鹿にするなよ。」

ぼくは立ち上がり、乱れた髪を梳いて真っ直ぐに彼を睨付けた。ふてぶてしいぼくの態度に彼は眼を血走らせた。

「お前もミズケンも、そうやっていつもオレを馬鹿にする! 何されてたってその目で、その馬鹿にして馬鹿にして馬鹿にしくさった眼で! 根拠なくオレを・・・、」

 言い終えることなく、彼ははっと血走った目を開いた。その眼は彼に向けて突き出されたぼくの脚を一心に見つめていた。彼の足は踊り場の床を離れ、彼の身体は宙に浮いた。時が止まったように、ぼくには何秒にも感じられた。だが実際は、直ぐにゴトゴトという醜い音を立て彼は階段を転がり落ち、一階下の床へべしゃと打ち付けられた。地面にぶつかる瞬間、そのオゾマシイ肢体が一回だけビーンと伸びるところを見た。

 ぼくが下へ降りていくと、全身の痛みに耐えかねるように、身体を痙攣させて彼は掠れた声で呟いていた。

「痛いイタイイタイ・・・」

 ぼくは視線を下げ足元のその哀れな姿態を一瞥すると、カエルのようにとび出たでかい腹を爪先で小突いた。

「許して許して許して・・・」

 呟くうわ言の内容が変わった。涙と涎を流して懇願する醜男の姿は、初めてぼくが見る、彼の純粋で綺麗で可愛い姿だった。ぼくはもう抑えきれなくなった。リズミカルに、彼のビール腹を蹴り続けた。

「ザマミロ、ザマミロ、ザマミロ!」

 ぼん、ぼん、ぼん、と重低音が、音楽になってぼくの耳に届いた。耳を澄ませばしとしと降る雨の音も聞こえる。

「おれの人生からどけ。」

 自然の音楽だ!







***



手紙(2)


ぼくの危機はもう一度起こった。誰からも愛されない。それが二度目の危機だった。なんでか分からなかった。ぼくは、男だから愛されないのか…?

愛は社会によって規定される。否、人間の嗜好が 愛を決定づける。単に僕は対象として悪趣味なんだ。

それだけだ。

冗談半分で男の子と戯れ合うこともあった。男に憧れることもあった。

漫画を読んで、男同士の友情に感動した。それが行き過ぎている程、強く感動した。

それは普通のことだと思っていた。


でも分かっていた。

男は、男から愛されることはない。好まれることはあっても、恋いをされることはない。愛、と呼べる感情を受けることも、多分ない。

僕は女からしか、愛されるチャンスはない。

人類の半分を ここで既に失っていた。

そして、女からも、愛されることはない。

どうして…!?

ぼくが、「こんな」男だからか?

人類の総てを ここで失った。


でもどうしろと言うのだろう。「こんな」男、であることをやめろというのだろうか。

しかし、「こんな」部分は、ぼくの本質であるから、辞められないんだ。

辞めたら、ぼくはいなくなってしまう。どうしようもないジレンマだ。「愛されないぼく」を辞めるためには、「愛されるぼくじゃない誰か」になるしかない。

待てよ。「こんな」男、を辞めるのに、何も「こんな」部分を変えなくても良いじゃないか。

男、を辞めれば良いんだ。

「こんな」女、だったら、すごく素敵じゃないか。


…駄目だ。そんなことできない。



 一年後。九月。だんだん日が短くなっている。






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