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一.男 male 「雪の春」


 四月の終わりに、雪が降った。雪国といえども、当然こんなことは珍しい。黒い地面を薄く覆った白く濡れた雪の上へ、更にぼた雪はまばらに降り続いた。

そのときのこと、水野健太郎が倉田優介に話した興味深い話がある。広い十字路に比して、人も車も少なくて、優介と水野は並んで青信号を待った。

 水野は、眉をしかめた。

「新潟の雪って嫌いだな。」

 不機嫌に眉をしかめる彼を、優介はしょっちゅう見ていた。大きなその目を嫌悪でもって細めた水野は、いつもの無邪気な可愛らしさが消え、狡猾かつ非情そうな小男へと変貌するのだった。正に、少年だ。優介は思った。

「なぜ?」

 すぐには答えず、水野は手をかざして雪を受けた。優介も同じように空に手を差し出した。手に当たると雪はすぐに融け、不愉快な水たまりを作った。

「ベタベタして、水っぽいから。」

 優介はひょいと首を傾け、水野の方を見下ろした。優介の背は普通の中学生くらいだったが、水野は150くらいしかないので、彼といるといつも優介は見下ろす格好になった。

「北海道は違うの?」

「全然、もっと細かくて軽くて、粉雪だよ、こんなんじゃない。」

 そう言って水野は手を振って融けた雪を払った。


 優介も水野も、実はそんなに気が合うわけではなかった。水野は短気だったし、優介はのん気だった。それに二人には他にも幾人かの友人がいた。例えば小太りでハスキーの松本洋太とか。が、どうしてか二人はよくともに行動した。優介に限って言えば、昔から大人数での付き合いというのが、あまり得意ではない奴だったので、仲のいい奴とはいつも一対一になりたがるところがあった。だが、水野とは仲がいいかと言われると、なんともいえないのだった。

 二人が行動を共にするのは大抵帰り道だった。というよりも、それ以外のときはあまり一緒にはいなかった。では二人の家がたまたま近所だった、もしくは同じ方向だったから、というとそんなこともなくて。というのも、水野が優介に一緒に帰ろうとせがむからだった。どうして水野が特別仲の良いわけでもない優介にそんなことを頼むのかも分からないし、優介がお人よしに反対方向の彼の高そうなマンションへまで着いていってやるのかも分からないのだった。

 たまに、優介は家に上がらせてもらうこともあった。高そうなマンションの割に小さい水野の部屋の小さいテレビで、ファミコンゲームを少しだけして少しエッチな漫画を読んで帰った。そういえば、水野のお母さんは綺麗だった。

「家ではこういう話するなよ。」

 そう言って帰り道、よく水野は優介に性的な話をした。水野は中学生らしい思春期な興味に溢れているらしい。優介は、彼のそんなところを軽蔑しつつ、少しだけ、自分から耳を傾けた。それに、綺麗な母親の前では良い子の振りをする彼は、なんとなく可愛いと思った。この話しも、他のみんなにはしていないような気がする、躊躇いがちな口調からそう思った。だが、やはり二人は親友ではない。

 ときどき、転校する前の学校の友達との破廉恥な遊びについて水野は話した。彼のそういう話は自分か、昔の男の友人についてで、女の子のことは話さなかった。彼の話は、大抵体験談だった。

その日は、雲の向こうから白い陽光が差し込む、制服の冬服で丁度良い日だった。

 彼は可愛らしい目玉をきょろつかせて、しかし口元は油断ならない様子に結んで、言う。

「俺が、友達のさ・・・。」

 彼はそれを『実験』と称した。性の目覚めに戸惑う男の子が、ある種のいじめの形として性的な嫌がらせを男の子同士ですることは、たぶんよくあるのだろう。まあ優介にはよく分からない。だが、水野のそれは、度を越えている、優介はそう感じた。

(気持ち悪い・・・。)

水野の話す男性同士の『実験』の内容に対して優介が覚えた生理的不快感は、必ずしも彼の幼さだけが原因だろうか。


―――「試してみる?」

 背筋が、ぞくっとした。水野健太郎のやや高い声の響きは、妙なリアリティがあった。


―――「試してみる?」

彼がもう一度その言葉を囁いたのは一週間後だった。ぼくたちは体育の時間のため、体操着を着ていた。


―――「試してみる?」

ニヤニヤした笑みを浮かべて、軽い口調で冗談のように言った。だが、もうぼくはそれ以上の意味を邪推せずにはいられなかった。


―――「試そうか。」

水野は松本洋太を傍らに呼んでいた。松本は余剰な肉を溜め込んだ顔を下品に歪ませて笑みを作った。いやらしい、最低な目。始終下ネタばかり言っている、最低な奴。


―――「クララ。」

ぼくのあだ名が呼ばれた。


―――「試そうぜ。」

灰色の雲間から、白い一筋の陽光がビーム状に洩れていた。異様な光景だった。


―――「マッツン、オイ、」

ぼくはその光を体育用具室の格子から見た。


―――「後ろ、押さえとけよ。」

松本のハスキーな引き笑いが聞こえ、ぼくを羽交い絞めにする力を強めた。ぼくは情けなくだらしのない作り笑いを浮かべて、

「やめろよ〜、まじかよ〜。」

と言い続けることしかできなかった。

「実験開始しますよ。」

ウヒヒ、と、自分で言った言葉に水野健太郎は哄笑した。



***




 そのときぼくは奇妙な納得を実感した。小学生の頃に感じた疑問、その答えだ。

 小学六年生の頃の話だ。ぼくには幼馴染の女の子が何人かいた。そのうちの一人に、渡辺裕美という子がいた。渡辺さんはおとなしめで、大人っぽく綺麗な見た目の割に泣き虫な子だった。町内が同じということ以外に共通点がなく、あまり話しをしたこともなかった。

 だけどある時、なにかの機会にぼくがミズカマキリの話をしたら、実家のある田舎に沢山いるから捕ってきてあげる、と言われた。

 そして数日後、彼女は本当に捕ってきた。褐色で棒のようなミズカマキリ、黒光りするゲンゴロウ、ずんぐりしたタイコウチ。バケツ一杯につまって窒息しそうな水生昆虫の群れに、ぼくは頭がくらくらした。色々な意味で突っ込みたいことが山ほどあったが、ぼくの家まで届けにきてくれて、照れ臭そうに「もっと捕ってこようか?」と尋ねる彼女に、ぼくは何も言うことができなかった。

「次はタガメも捕ってきてあげるよ。」

 ぼくは、ほんのちょっとだけ彼女に恋をした。

 結局、次はなかったけれど。


 その渡辺さんは、学校ではよく男の子にからかわれていた。時々泣かされてもいた。ぼくは、その場に居合わせたことがあったのに、泣いている渡辺さんに何もすることができなかった。彼女に抱いている好意をみんなに悟られることが怖かった。黙って、まわりの男の子と一緒に、渡辺さんの友達の勝気な女の子に怒られていた。そんなときはいつも、自分が男であるということが嫌だった。

 こういうとき、いつもぼくが感じていた疑問、

「こいつらはどうしてからかったり、いじめたり、そんな行動をするのだろう。」

 その答えがわかった。『こういう奴等だから』だ。


 それからぼくたち三人は、休み時間ごとに集められた。始めは用具室でぼくらの『実験』は行われた。モルモットはいつもぼくか松本で、水野は常に実験者だった。だが次第に『実験場』が教室から外れた反対の棟の、階段の裏に移るにつれ、被験者はぼく一人に限定されていった。ぼくが『実験』にやる気を起こさなかったからだ。場の空気を読んでなかった。士気が高くない奴は評価されない。どこだって、いつだってそうだ。

 小太りの松本は言う。「もっとやる気を出せよ、クララだって興味あるだろ?・・・」お前は好きだろうよ。


 水野は卑猥な経験に裏打ちされた行為を行った。そしてまるで給食の時間に牛乳ビンを割ってしまったクラスメイトを茶化すような、無邪気な笑顔を浮かべた。彼の衝動は、おぞましくも純粋だった。対して松本は、排水機能が壊れて洪水のように溢れ出す猥雑で淫らな知識の汚水にその肥満体を浸し、恍惚とする醜い化け物だった。

 六月が終わりに近づき、学校では水泳の授業が始まった。じりじりと照りつける陽光はいつの間にかとても強くなっていて、校舎で着替えてから裸足でプールまで向かう、黒いアスファルトの小道を焼き付けた。今年はまだ梅雨の気配はなかった。プールの周りに無造作に生える雑草の褪せた緑と、プールの薄汚れた白の対比が、しばし時間が止まった「学校」という空間をよく表している。

 ぼくは人並みに運動ができない。なにをやっても平均以下で、その不器用さに悔しさを通り越して驚いてしまうほどだ。だからもちろん、体育の時間は好きじゃない。しかしある一定のレベルを超えられない奴、っていうのはやる気のない奴と見なされるので、なんとか及第点にまでは届かなければ駄目だ。及第点、というのは明確には示されない無言の規準。と、言う訳で、余裕で及第点を越えられるのに「俺全然出来ないよ〜」とかぼやいている奴を見ると実に腹立たしい。本当にやる気のない奴等はこいつらだ。

 そういうぼくにとって、水泳ってのは珍しく人並みに出来るスポーツだったので、ぼくは水泳を愛していた。水泳のほかにはスキーとか。どうも季節限定の競技は得意らしい。

 では水泳の時間は好きだったのかというと、とても嫌だった。


 男子生徒には更衣場として柔道場が与えられていた。最近改装されて、艶のある木の壁がこの学校に似つかわしくない。外は暑いのに、何故か水泳の後の柔道場は涼しく感じる。

野球部の古田君は、包み隠さず鍛えられた身体を晒して着替える。好奇の目で見つめるみんなに、「なんだよぉ」と照れ笑いをする彼は凄い奴だ。ぼくには到底真似できない芸当である。真似できない。

でも水野は言う。

「クララも見せてよ〜。」

 デブでハスキーの松本が身体を隠していたタオルを引っ張っていた水野は、その手を離して悪戯っぽく笑っている。松本がほっと息を吐いている。彼は大きな目くりくりと動かし、さも良いことを思いついた小さい子のようにやんちゃな顔をして、ぼくのタオルにしがみついてきた。水野の力は強い。松本も自分の災難が去ったと思うとすぐに薄汚い好奇心を燃やして加勢してくる。尾を引く下品な笑い声。

「いい加減にしようよ。」

 ぼくの声は弱弱しく消えた。

 悪夢のような日常の連鎖だ。

 学校からの帰り道、2匹の蝶々を見た。真っ黒な羽に明るい緑色の模様が入った美しい蝶々だった。ホバリングする雌の蝶々の回りを、雄の蝶々がくるくるくると素早くムーンサルト。

 蝶々の求愛というのはなんと華麗なのだろう。











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