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婚約破棄裁判 〜おバカな第二王子は、王国法をご存知ない〜

掲載日:2026/05/30

 契約法にはそこまで造詣が深くないのですが、家族法のお隣さんということで、ポケット六法を捲って書いてみました。


 普段生活している中で、具体的な法律云々を意識して生活している方は少ないかなと存じます。無論、国の次代を担うかもしれない王子がそれを疎かにしているという設定には些か無理がありますが、これは仮に疎かにしていた場合のお話です。


 ざまあとは少し違うと思いますが、ふと普通に考えて不当な婚約破棄は貴族令嬢に訴えられてもおかしくないだろ……と思ったので、それを文に認めました。

「セレスティア・フォン・リーヴェルト! 貴様との婚約を、ここに破棄する!」


 王宮大広間の天井近くまで、第二王子レオンハルト殿下の声が突き抜けた。


 金箔を施した柱。冬の星明かりを閉じ込めたような大シャンデリア。磨き上げられた大理石の床には、貴婦人たちの絹の裾と、騎士たちの礼装の影がゆるやかに揺れていた。


 つい先ほどまで、ここは夜会の会場だった。


 楽団は軽やかな舞曲を奏で、貴族たちは笑顔の裏でアレコレと探り合い、銀の杯には高価な葡萄酒がなみなみと注がれていた。少なくとも表向きは、王国の平和と繁栄を讃える場ではあった。


 それが、一人の王子によるヒステリックな声で止まった。


 弦楽器の音が、ブツンと半端なところで切れる。王侯貴族たちの杯を持つ手が空中で固まり、扇を開いた婦人がそのまま瞬きを忘れたようにピタッと動かなくなる。


 大広間のまさに中央に立つレオンハルト殿下は、まるで勝ち誇ったかのように顎を上げていた。金の髪、整った顔立ち、王族らしい華やかな衣装。舞台の上に立たせれば、それはもう絵になる男である。


 ただし、今この瞬間に限れば、その絵にはこう題名をつけた方がいい。


 『王子のケツの青さは空の青色』と。


 王子のその腕には、薄桃色のドレスをまとった小柄な男爵令嬢ミア・コルネットがギュッとしがみついている。栗色の髪をゆるく巻き、潤んだ瞳で周囲を見回す様子は、たしかに庇護欲を誘うものだった。


 そして二人の正面に、セレスティア・フォン・リーヴェルト公爵令嬢が立っている。


 淡い銀髪を結い上げ、深い青の夜会服をまとった彼女は、突然すべての視線を浴びることになったにもかかわらず、スっと立った背筋を崩さなかった。顎は上げすぎず、下げすぎず。両手は腹の前で静かに重ねられている。


 ただ、その唇だけがわずかに強く結ばれていた。公爵令嬢としての誇りのみで耐えている。そう見えた。


 私は壁際で、「はあ」と小さく息を吐いた。


 なぜだ?


 なぜ私が出席する夜会に限って、王国婚姻契約法の講義で「やってはいけない実例」として扱われるべき事案が、これほど鮮やかに発生するのか。


 私は王立高等裁判所婚姻部判事、エリオット・ヴァン・クロフォード。


 二十六歳。爵位はない。伯爵家の三男として生まれたが、家督からは程遠く、社交界では「有能だが面倒な若者」程度の扱いである。


 その代わり、私には法廷に席がある。


 夜会に出席したのは、婚姻部判事にも王宮儀礼への出席義務があるからだった。つまり今夜の私は周囲の皆様と同じように招待客であり、それと同時に、必要があれば職務権限を行使できる裁判官でもあるのだ。


 そして今、第二王子は、王宮公式夜会の場で、公爵令嬢に対し、一方的な婚約破棄を宣言した。


 しかも王族の婚約である。


 恋のもつれで片づけるには、その王冠の影があまりにも濃すぎる。


「貴様はミアを階段から突き落とし、茶会では侮辱し、あまつさえ私との仲を裂こうとした! そのような女を、未来の王族に迎えるわけにはいかん!」


 大広間のあちこちで、ハッと息を呑む音が重なった。


 これは非常にまずい流れだ。


 王子による糾弾に対して、その当事者であるセレスティア嬢は特にこれといって反論しなかった。できなかったのではない、しなかったのだ。


 というのも、この場で王族の言葉を遮れば、不敬だと騒ぎ立てる者が必ず一定数出る。王子が公衆の面前で罪名のように言葉を並べた時点で、彼女はすでに不利な舞台に立たされていた。


 だが、この国では、不当に舞台に引きずり出された者にも、彼らを保護するための法律がきちんと整備されている。その底床を支えるために、公平な判断を下すための裁判所があるのだ。


 私は手にしていた杯を、近くの従者に預けた。


「申し訳ない。少し仕事になった」


 従者は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに深く頭を下げた。さすが王宮勤めである。王子が婚約破棄を叫び、判事が仕事に入る程度では、その表情筋を乱さない。


 私はゆっくりとした足取りで大広間の中央へ歩き出した。磨き上げられた床に、カツカツと靴音が響く。その音に気づいた貴族たちがこちらを見た。


 何人かはすぐにその顔色を変える。


「クロフォード判事だ」

「なぜ判事がここに」

「招待客だろう」

「いや、これはまずい」

「どちらにとって?」

「殿下に決まっている」


 そんな囁きが絹の擦れる音に混じって広がった。


 それを耳にしたからか、第二王子レオンハルト殿下は、目に見えて不快そうに眉を寄せた。


「なんだ、貴様は」


 私は殿下の前で足を止め、優雅に一礼した。


「王立高等裁判所婚姻部判事、エリオット・ヴァン・クロフォードです」


 殿下は一瞬だけ目を細めた。


 まったく知らない顔ではない、という表情だった。おそらく宮廷のどこかで一度は聞いたことはあるのだろう。その顔から窺えるのは、「若いくせに判事になった、融通の利かない男」といったところか。


 その評判は、実の所半分ほど正しい。なぜなら、私にもその通りだという自覚があるからだ。


「判事?チッ、裁判官風情が、神聖なる王族の婚約に、わざわざ口を出すつもりか」


「その神聖なる王族の婚約だからこそ、裁判所の審査対象となります」


 殿下は鼻で笑った。


「これは私事だ。俺とセレスティアの問題だ。貴様は引っ込んでいろ」


 酷いことを言うものだ。


「いいえ。王族と公爵家の婚約は、王国婚姻契約法上の公的婚約です。破棄には正当事由の提示と、裁判所による確認が必要です」


「俺が破棄すると言った。それで終わりだ」


 残念ながら、この国ではそうではないのだ。


「終わりません。むしろ、始まってしまいました」


「はあ?いったい何がだ!」


「手続きです」


 大広間は、いよいよ静まり返った。


 楽団の指揮者が、弓を持ったまま硬直している。気の毒に。彼の譜面には、おそらく婚約破棄後の伴奏など載っていない。


 うーん、それにしても法というものは、なんとも不思議なものだ。


 剣のように抜き放つものでも、雷のように派手に鳴るものでもない。普段はただ、そこにあるのみだ。誰も彼も具体的な法の内容を意識して生きてはおるまい。


 がしかし、一度その法規を軽んじると、その法に規定された罰則が肩を叩いてくるのだ。


 それは王子でも公爵令嬢でも、庶民ですら同様に振りかざされる正義の剣なのだ。


 なぜか殿下はそれを知らない。王族なら誰もが学ぶべきものであるはずなのに、だ。


 あるいは、知らなくても生きていけるからと、これまでの人生で学んで来なかったのだろうか。


「レオンハルト第二王子殿下」


 私は懐から、銀縁の小さな令符を取り出した。


 王立高等裁判所婚姻部の紋章。天秤と封蝋印を組み合わせた、簡素な記章である。


 そこに王権を表す王冠はない。


 裁判所の紋章に、王冠は置かれないのだ。国に阿らないことを旨とする我々に、それは必要無いから。


「ただいまの発言は、王国婚姻契約法第二十一条に定める、一方的婚約破棄通告に該当する疑いがあります。また、殿下は公衆の面前で、セレスティア・フォン・リーヴェルト嬢が暴行、侮辱、妨害行為を行った旨を摘示されました。よって、貴族名誉保護法第八条、王族特別責任法第五条の適用可能性も含め、職権により審査を開始します」


「なんだ、審査だと!?」


「はい」


「俺は裁判など求めていない!」


「婚約破棄を求められました。婚約破棄には当然に審査が伴います」


「俺は王族だぞ!俺が望んだんだ!そんなもの、要らんだろ!」


「存じております。ですので、通知ではなく召喚となります」


 殿下の眉間にますます深い皺が刻まれた。


 彼の隣のミア嬢が、不安そうに殿下の袖を握り直す。彼女の指先は震えていた。演技か、恐怖か。どちらにせよ、この状況が彼女の想定を超え始めていることは確かだった。


「誰がそんなところに行くかよ。裁判所など、貴様ら下々が争う場所だろう」


 何人かの貴族が、そっと目を伏せた。


 うん、明確な失言だ。今の発言はひどい。法的にも、政治的にも、そして単純に頭が悪いという意味でも。


 それを下げるということは、その権利を認めている王家をも下げることに繋がると、皆が理解しているのだ。この場にいる彼一人を除いて。


 私は一拍置いてから、淡々と告げた。


「王国司法憲章第十二条は、王族に対する裁判所の召喚権を明文で認めています。王族であることは出頭拒否の理由になりません」


「父上に言えば取り消せる!」


「国王陛下による個別事件への介入は、同憲章第三条により禁じられています」


「王が命じてもか!王だぞ!?」


「王が命じればこそですよ」


「そんな馬鹿な!?」


「殿下。王国法は、決して王家を軽んじるためにあるのではありません。王家が王家であり続けるためにあります」


 私のその発言に、辺りの貴族の何人かが深く頷いたのが分かった。そうなのだ、王国法は、この国の体裁を守るために存在するのと同時に、王家含む国民一人一人を守るために存在しているのだ。


 殿下は口を開きかけたが、言葉が出なかった。


 その隣で、ミア嬢が震える声を上げる。


「あ、あの、でも、真実の愛があれば、身分や法律なんて……」


「愛情の有無は、婚約破棄の正当事由とは別に判断されますよ」


「愛なのに!?」


「はい。愛ですので、損害賠償とは別ですね」


 どこかで小さく咳き込む音がした。


 笑いを噛み殺したのだろう。気持ちは分かるが、ここで吹き出せば家名ごと記憶される。貴族社会とは、そういう場所である。


 まあ、蝶よ花よと育てられてきた貴族令嬢の多くは、彼女と同じような感性を持っているのだ。法を事細かに理解している人の方が少ないのは当然である。内容が難しいからだ。


 仕方ないのだ……。それ故に、我々が必要であるということでもある。


 私はおもむろに令符を掲げた。


 銀縁の札に刻まれた天秤が淡く光る。


「レオンハルト第二王子殿下。セレスティア・フォン・リーヴェルト公爵令嬢。ミア・コルネット男爵令嬢。以上三名に対し、五日後、王立高等裁判所婚姻部、第一法廷への出頭を命じます」


「命じるだと!?俺は行かんぞ!」


「正当な理由なき不出頭の場合、欠席審理となります。その場合、殿下の反論権は放棄されたものとして扱われ、さらに王族特別責任法第九条に基づく加重事由となりますが、それでもですか?」


「そ、そんなもの、行っても不利、行かなくても不利ではないか!」


「婚約者を公衆の面前で罪人のように扱った時点で、相当に不利です」


「貴様、俺を侮辱するのか!」


「いいえ。現在の訴訟上の地位を説明しています」


 私の口答えに不満を覚えたのか、殿下はその美しい顔を真っ赤に染めた。その顔からは、まるで湯気が出てきそうだ。


 反面、もう片方の当事者であるセレスティア嬢は、特に何も言わずにこちらを見ているのみだ。目が合ったが、何を語るでもなく、ただ粛々と物事を受け入れていた。


 その瞳には、派手な安堵はなかった。どうしてだろうか、私の登場は、ある種の安息を彼女に与えたとも言えよう。いや、別にそれを誇示するつもりは無いが、どうしてここまで落ち着いているのか不思議だ。


 これは救われた者の顔ではない。まあ、そんなのは関係のない話だ。


 私は改めて彼女に向き直り、一礼をする。


「セレスティア嬢。あなたにも出頭を命じます。ただし、あなたは被申立人であり、同時に名誉毀損および損害に関する申立権者となり得ます。代理人を立てる権利、証拠を提出する権利、反対尋問を求める権利があります」


 彼女はゆっくりと頷いた。


「承知いたしました、クロフォード判事」


 その声は随分と落ち着いていた。それに、私か形式上述べた細々とした要件に関して、彼女はその一切を正確に理解しているようにも見える。


 賢く、強い人だ。


 だが、よくよく観察すると、傷ついていないわけではないようだ。それも当然か。衆目の前で、その名誉を傷つけられたのだから。


 その区別を間違えてはならないな。


 殿下が吐き捨てるように言った。


「くだらん。法など、ただの紙の上の戯言ではないか。そんなもの、栄えある王族の誰が気にするものか」


 私は令符をしまいながら答えた。


「では、五日後にご確認ください。その紙の上の戯言が、どれ程の重みを持っているのかを」


 その夜の舞踏会は、予定より一時間早く閉会した。表向き公開されている公式な理由は、王宮記録水晶の調整不備。


 実際の理由は、第二王子が王立高等裁判所から召喚命令を受けた直後に、何事もなかったような顔で踊れる者が一人もいなかったからである。


 気の毒な楽団は、最後まで再開の合図を待っていた。


 誰も踊らない舞踏会ほど、音楽家にとって判断に困る現場はない。


▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼


 五日後。


 王立高等裁判所婚姻部第一法廷は、朝から傍聴希望者によって埋め尽くされていた。


 もちろん、誰でも入れるわけではない。


 婚姻部は貴族間の婚約、婚姻、家門契約を扱う。傍聴には身分確認と記録誓約が必要であり、審理内容を面白おかしく流布すれば、それ自体が貴族名誉保護法に触れる。


 それでも、希望者は多かった。もちろん、彼らは皆その身分を保証された貴族のみであるが、口の軽い人などどこにでもいるものだ。故に、ここで起こったあれこれに関しても、明日には国中の噂になっているに違いない。


 人は他人の恋愛沙汰に弱い。そこに王族と公爵家が加われば、もはや社交界にとっては季節外れの収穫祭である。こぞって話題にすることだろう。


 第一法廷は、王宮の大広間とはまるで違う場所だ。


 壁は白石。床は黒い木材。その装飾は驚くほど少ない。潔癖だと言っても良い程だ。


 正面に掲げられているのは、天秤の紋章だけ。ここにも王家の紋章はない。


 ここでは王子や公爵令嬢、その他の関係者が名前を呼ばれて席に着く。ただそれだけだ。


 私は黒い法衣に袖を通した。


 法衣は嫌いではない。たしかに普段着の礼服よりは堅苦しいが、それでもこちらの方が好きだ。似合うからではない。むしろ、誰が着ても同じ形に見えるよう作られているところがいい。


 公正で公平な判断が求められる我々法廷に立つ者の個性など、限りなく少ない方が良いからだ。


 判決に必要なのは、声の大きさでも、家名の重さでもない。記録と証拠と、そこに当てはめるべき法である。


「開廷します」


 廷吏の声が響いた。


 私は中央の裁判官席に座った。


 左右には、同じ婚姻部の判事が二名。老練なグラント判事と、貴族名誉事件を数多く扱ってきたマルティナ判事である。


 本件は三名合議。


 私は夜会で召喚を行った判事でもある。そのため、手続の中立性を疑われる余地を限りなく減らすため、単独審ではなく合議とし、証拠採否と事実認定は三名で行うことになった。


 さて、一度法廷内を見回す。


 セレスティア嬢は、リーヴェルト公爵家の代理人とともに静かに座っていた。夜会のときと同じく、背筋は伸びている。


 その反面、ミア嬢は顔色が悪かった。桃色の頬は影を帯び、膝の上で握った指が落ち着きなく動いている。


 そして、第二王子レオンハルト殿下は、予定時刻より四分遅れて入廷した。


 わずか四分。されど四分だ。法廷では十分に記録される時間である。


「レオンハルト殿下。着席してください」


 殿下は不満げな顔でキッと私を睨んだ。


「王族に対して、起立して迎えぬのか!」


「ここは法廷です」


「それがなんだ!」


「法廷では、裁判所が着席を命じ、当事者がそれに従う。これだけです」


 殿下は何か言い返そうとしたが、隣の王家代理人に袖を引かれ、渋々席に着いた。


 王家代理人は青ざめている。


 おそらくこの五日間、寝る間も惜しんで説得したのだろう。顔に「ここまで持ってくるだけで精一杯でした」と書いてある。


 同情はするさ。もちろんするだけである。


「まず、手続上の確認を行います」


 私は記録官に視線を送った。


「本件は、レオンハルト第二王子による一方的婚約破棄通告の有効性、同通告に伴うセレスティア・フォン・リーヴェルト嬢の名誉侵害および損害、ならびに王族特別責任法上の加重責任の有無を審理するものです。なお、虚偽告発等の刑事責任については、本件判決後、別途必要に応じて検察庁へ記録を送付します」


「刑事だと?」


 殿下が目を剥く。


「本日は婚姻部での審理ですので、主な審理は婚約破棄に関する部分についてのものになる予定です」


「ごちゃごちゃと、知るか!さっさと始めろ!」


「今後あり得る手続を告知しただけです」


 私は書面をめくる。


「また、私は夜会当日に召喚命令を行った判事です。そのため、当事者には忌避申立ての機会があります。裁判官の公平性に疑義がある場合、ここで申し立ててください」


 王家代理人が、わずかに身を乗り出した。


 だが、それより早く殿下が言った。


「くだらん。貴様を替えたところで、俺が逃げたように見えるだけだ。続けろ」


 王家代理人が目を閉じた。


 今、彼の心の中で何かが静かに倒れた気がした。小さな望みに賭けたのだろうが、そうはいかなかったようだ。天の匙は、神のみが握っているのだ。


 私は一つ頷く。


「忌避申立てなしと記録します」


「なんだ、今のもわざわざ記録するのか?」


「法廷での発言ですので」


「ふん、なんとも息苦しい場所だな」


「そうですか」


 傍聴席の空気がわずかに揺れた。まあ、仕方あるまい。皆、彼の愚かさに呆れているのだろう。


 グラント判事が咳払いをする。笑うな、という合図である。私は書面に目を落とした。


「では、レオンハルト殿下。夜会で述べられた婚約破棄理由について確認します。第一に、セレスティア嬢がミア嬢を階段から突き落とした。第二に、茶会においてミア嬢を侮辱した。第三に、殿下とミア嬢の関係を不当に妨害した。以上で相違ありませんか」


「相違ない!」


「では、証拠調べ手続きを行います。それらを事実だと裏付ける証拠を提出してください」


 殿下はさも当然のように胸を張って言った。


「ミアがそう言っていたぞ!」


「他には?」


「あん?それを俺が信じたんだ!」


「他には?」


「なんだ?これで十分だろう!」


「いいえ、不十分です」


 法廷がしんとした。


 私は記録官の筆が止まるのを待ち、続けた。


「王国証拠法において、当事者の恋愛感情および個人的確信は、残念ながらそれだけでは事実認定の基礎となりません」


「恋愛感情を個人的確信などと冷たい言葉で言うな!」


「では、具体的な証拠を」


「ぐっ……」


 私はミア嬢に視線を向けた。


「ミア・コルネット嬢。あなたは、セレスティア嬢に階段から突き落とされたと主張していますね」


「は、はい……」


「当時の場所は、王立学院西棟階段。日時は月の第十二日、午後四時十七分。間違いありませんか」


「た、たぶん……」


「幸運なことに、王立学院西棟階段には、記録水晶が設置されています」


 ミア嬢の肩が跳ねた。


 王家代理人が、さらに青ざめる。青ざめすぎて、もはや法衣の黒がよく似合っていた。


 私は廷吏に合図をする。


 それを受け、法廷中央の広々とした空間に、透明な水晶板が運ばれてくる。


「提出された記録水晶については、王立鑑定局の証拠保全印を確認済みです。改ざん痕跡なし。よって、証拠能力を認めます」


 水晶板に淡い光が灯った。その光が何も無い空間に投影され、とある映像を映し出した。


 そこに映し出されたのは、学院の西棟階段だった。


 ミア嬢が階段を降りている。


 ふわりと広がったスカートの裾を、自分の靴で踏む。


 次の瞬間、彼女は実に見事に転んだ。見事すぎて、学院の礼法教師なら「転倒時の姿勢が不適切です」と赤字を入れただろう。


 その階段の下にはセレスティア嬢がいた。


 ただし、転倒位置よりも五歩ほど離れた場所で、外交学の教師と話をしている。手も触れていないし、なんなら視線すら向けていない。


 辺りを支配したのは、完全な沈黙だ。


 すかさず殿下が叫んだ。


「こ、これはセレスティアが睨んだのだ!」


 私は水晶板をもう一度見た。


「映像上、セレスティア嬢はミア嬢を見てすらいません」


「こ、心で睨んだのだ……!」


「心証による階段転落の因果関係は、王国法上、どの法でも認められていません」


 傍聴席のどこかで、誰かが吹き出した。


 マルティナ判事が冷ややかな視線を向けると、すぐに静かになる。彼女の視線は、証人の虚偽供述と傍聴席の笑い声に対して、ほぼ同じ効力を発揮する。


「第一の主張について、立証なしと扱います」


「待て!」


「待ちません。次に、茶会での侮辱について」


 私は別の書面を取った。


「殿下の主張によれば、セレスティア嬢は月の第十六日に開かれた茶会において、ミア嬢を招待せず、門前で追い返したとのことです」


「その通りだ! ミアは泣いていた!」


「当該茶会の正式名称は、南方諸都市連合使節団との非公開懇談会です」


 殿下は黙った。


「出席者は、外務卿、リーヴェルト公爵家、王家儀典官、および南方諸都市連合の使節団。議題は港湾使用権と穀物関税。男爵令嬢を招待しなかったことは、侮辱ではなく機密保持がその理由なのは疑いの余地すらありませんが」


「だが、ミアは俺の伴侶となる女性だ!」


「当時、ミア嬢には王家婚約者としての地位はありません」


 どこまでも愚かだ。なぜ、こんなにも無知なのだ……。


「いずれそうなる!」


「仮に彼女が王家に連なったからと言って、非公開の懇談会に途中参加する理由は?」


「そ、それは……くそ、そんな馬鹿な!?」


「広く一般的なことです」


 王家代理人が、額に手を当てた。


 私は続ける。


「なお当日、ミア嬢が王子殿下の私印を用いて会場に入ろうとした記録があります。これは王家警備規則上、別途問題となります」


 ミア嬢が小さく震えた。


「わ、私は、殿下が入ってよいと……」


 殿下が胸を張る。


「そうだ。俺が許した!どうだ?俺の許可があったんだ、ミアが参加できなかったのは、おかしいだろうが!」


 私は記録官を見た。


「今の発言を記録してください。王家私印の不適切使用について、殿下の許可があったとの供述です」


「違う! いや、違わないが、そういう意味ではない!」


「法廷では、そういう意味を確認するためにアレコレと記録するのです」


「くそ、一々面倒だな!」


 第二の主張も崩れた。


 第三の主張、すなわち「殿下とミア嬢の関係を妨害した」については、さらに短かった。


 リーヴェルト公爵家側が提出したのは、王宮公務記録、学院出席記録、王妃教育日誌、そして殿下自身の外出記録である。


 セレスティア嬢は、殿下とミア嬢が会っていた時間帯のほとんどで、王妃教育、外交儀礼、財政講義、慈善院視察などに出席していた。


 そもそも妨害する暇がないのだ。


 あえて何かしたらを問題にするのだとしたら、それはむしろ、殿下の方が公務を欠席してミア嬢に会いに行っていたことだろうか。


「殿下。月の第二十二日、南部穀物協議会を欠席されていますね」


「ミアが熱を出したのだ。俺は彼女のそばにいたかった……。ただそれだけのことじやないか」


「公務欠席の理由は、私的看病ということでよろしいですか」


「いいや、愛だ!」


「私的看病と記録します」


「おい、愛だと言っているだろうが!」


「殿下とミアさんの間に愛情があったことは否定しません。」


「うるさい!」


 法廷の空気が揺れた。


 今度はグラント判事も咳払いをしなかった。少し笑っていたのかもしれない。


 殿下は机を叩いた。


「そもそも、俺は王族だ! 多少のことは許されるべきだろう!」


 来た。


 私は、そこだけは表情を変えずに聞いた。この事件の中心は、婚約破棄そのものではないのだ。


 人は誰しも、婚約を解消することがある。


 かつての愛情が変わることもある。信頼が壊れることもある。貴族間の婚約であっても、正当な手続きさえ踏めば、その解消は十分に可能だ。


 だが、王族の権威を使い、公衆の面前で相手を罪人に仕立て、反論できない状況へと追い込むことは別だ。


 それは恋愛云々の話ではない。


 権力の濫用である。


「殿下」


 私は静かに言った。


「本件で最も重いのは、殿下がセレスティア嬢との婚約解消を一方的に望んだことではありません」


「では何だ!」


「王族としての地位を用い、公開の場で、証拠なく一人の令嬢の名誉を傷つけたことです」


 殿下が口を閉じた。


「私人が愚かな発言をしたなら、私人として責任を負います。しかし、王族の発言は私人の発言ではありません。殿下が『この女は罪人だ』と示せば、それは単なる悪口ではなく、社会的な制裁として作用します」


 法廷から笑いが消えた。


 白い壁の中で、羽ペンの音だけが小さく響いていた。


 そうなのだ。王族であるというだけで、普通の人とは異なる力を有することになる。彼はそれをしっかりと理解していたからこそ、このように横柄に振舞っているようだが、違うのだ。


 そうであるからこそ、その力の振るい方には気を付けなければならないのだ。


「王族特別責任法は、王族を罰するためだけの法ではありません。王族の言葉が重いことを、王族自身に忘れさせないための法です」


「俺は……ただ、ミアを守ろうと」


「誰かを守るために、別の誰かの権利を踏み潰すことはできないのですよ」


 殿下は言い返せなかった。あれだけ騒ぎ立てていた彼が、ここにきて初めて言葉に詰まった。


 私はセレスティア嬢に視線を移す。


「セレスティア嬢。あなたは、本件婚約の継続を望みますか」


 彼女はゆっくりと立ち上がった。


 法廷の全員が彼女を見る。


「いいえ、望みません」


 短い言葉だった。


「私は、王家との婚約を軽んじていたわけではありません。リーヴェルト公爵家の娘として、厳しい王妃教育を受け、これまで殿下を支えるために必要な務めを果たしてきたつもりです」


 そこで、彼女は一度だけ殿下を見た。


「ですが、殿下が私を信じることなく、証拠もなく、人前で罪人のように扱った時点で、婚約者としての信頼は失われました」


 ミア嬢が俯き、殿下は視線を逸らした。


「私は、婚約破棄を突きつけられたことだけを悲しんでいるのではありません。これまでの必死の努力を踏み躙られたことに、言いようのない気持ちを抱いているのです」


 彼女の言葉が終わると、法廷にはしばらく、羽ペンの走る音だけが残った。記録官が、彼女の言葉を一字ずつ記録している。


 法廷では、涙よりも記録される言葉の方が強いことがある。そのことを、彼女はよく知っていたようだ。


 私は頷いた。


「承知しました」


 そうして審理は昼過ぎまで続いた。


 王家代理人は、殿下の責任を少しでも軽くしようと努めた。たしかに彼の主張は整っていた。少なくとも、依頼人の発言が三度ほど足を引っ張らなければ、もっと整って聞こえたはずである。


 リーヴェルト公爵家代理人は、王妃教育費、儀礼準備費、名誉毀損による社交上の損害を細かく積み上げた。


 具体的な数字ほど、人を容赦なく追い詰めるものはない。その総額を聞いたとき、殿下は目に見えて青ざめた。


「そ、そんなにかかっているのか?」


 リーヴェルト公爵家代理人が冷静に答えた。


「王族の婚約者を育てるとは、そういうことです」


「そんなもの、国庫から出せばよいだろう!」


 私はすぐに告げた。


「本件は殿下個人の有責行為に基づく損害です。王国会計法上、国庫負担は認められません」


「くそ、俺の私産から出せと言うのか!」


「はい」


「王子なのに!?」


「監査次第ですが、王子ですので、その支払い能力は十分にあると判断されるでしょう」


「そういう問題ではない!」


「損害賠償は、かなりの部分でそういう問題です」


 また少し、傍聴席が揺れた。


 やがて、すべての証拠調べが終わり、私は左右の判事と短く評議した。審理以前の予想通り、結論は揺らがなかった。


 法廷に戻ると、全員が立ち上がる。


「判決を言い渡します。なお、これら判決については、国王よりその重軽を適切なものであると保証されたことをここに補足します」


「なっ!?お父様!?」


 殿下にとっては残念なことだが、これらは誰かの機嫌で軽くなったりはしない。


「主文」


 私は書面を読み上げた。


「一、レオンハルト第二王子による、セレスティア・フォン・リーヴェルトに対する一方的婚約破棄申立ては、正当事由を欠くものと認定する」


 殿下が唇を噛んだ。


「二、もっとも、当事者間の信頼関係はすでに回復不能であり、かつセレスティア・フォン・リーヴェルト本人が婚約継続を望まないことから、同人の反対申立てを認容し、本件婚約を解消する」


 セレスティア嬢は、静かに目を伏せた。


「三、レオンハルト第二王子は、セレスティア・フォン・リーヴェルトに対し、名誉侵害および精神的損害に対する慰謝料を支払え」


「四、レオンハルト第二王子は、リーヴェルト公爵家に対し、王妃教育費、儀礼準備費、ならびに王家婚約の不当破棄により生じた信用損害を賠償せよ」


「五、レオンハルト第二王子は、王族特別責任法第五条および第九条に基づき、五年間、公務資格を停止する。同期間、王位継承審査名簿から除外する」


「なっ……!」


 殿下が立ち上がりかけた。


 廷吏が一歩前に出たことにより、殿下は座り直した。法廷の廷吏が不必要にその剣を抜かないのは、ただ立つだけで十分な場合が多いからだ。


「六、レオンハルト第二王子に対し、王国法基礎課程の再履修、および地方司法庁における一年間の実務研修を命じる」


 殿下の顔が、完全に固まった。


「俺に……地方で法を学べというのか……?」


「はい」


「俺が、地方で、司法庁の実務研修を?」


「はい」


「書類を書くのか!?」


「おそらく大量に」


「そんな馬鹿な!?」


 私は判決書から目を上げた。


「殿下。本件において、その必要性は十分に証明されました」


 法廷のあちこちから、堪えきれない笑いが漏れた。


 マルティナ判事が机を軽く叩き、法廷はすぐに静まった。


 私は続ける。


「七、ミア・コルネットについては、虚偽の被害申告および王家私印の不適切使用に関し、別途、所管庁へ記録を送付する。ただし本件審理における供述態度および反省の可能性を考慮し、婚姻部としては、宮廷出入り禁止一年および貴族学院倫理課程の履修を相当とする意見を付す」


 ミア嬢は小さく楚々と泣き出した。


 派手に泣き崩れることはなかった。おそらく、今回の一件で彼女の未来が大きく狭まったことを自覚しているのだろう。


「最後に」


 私は判決書を置いた。


「セレスティア・フォン・リーヴェルトに対する、夜会での一連の摘示事実は、いずれも真実と認められない。よって、同人の名誉回復のため、本判決の要旨を王宮掲示板および王都公報に掲載する」


 セレスティア嬢が、初めて少しだけ息を乱した。膝の上で重ねた指先だけが、僅かに震えていた。


「以上」


 私は槌を打った。


「閉廷します」


▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼


 王立高等裁判所第一法廷で下された判決は、夕刻には王都中に知れ渡った。


 正確に言えば、王都公報に掲載される前から噂は走っていた。


 第二王子が、強引な婚約破棄に失敗した。公爵令嬢の名誉が回復された。王子は地方で法学を基礎から学び直らしい。


 この三つ目が、特に市民に受けたらしい。


 翌朝には、王都の焼き菓子屋が「王国法基礎課程クッキー」を売り始めた。


 形は天秤。その味は普通だった。


 判決から三か月後。


 レオンハルト殿下は、数々の話し合いを経て北方地方司法庁に配属された。


 最初の仕事は、倉庫に積まれた未整理の婚姻届の分類だったという。


 届いた報告書には、「殿下は一日に十二回ほど『俺は王族だぞ』と発言したが、三週目からは五回に減少」と記されていた。


 うん、改善傾向である。


 ミア嬢は貴族学院の倫理課程に戻った。


 宮廷に出入りできなくなったことで、むしろ友人は増えたらしい。王子の腕にしがみついているより、自分の足で歩く方が、彼女には合っていたのかもしれない。


 そして、セレスティア嬢の名誉は、公式に回復された。王宮掲示板に判決要旨が掲げられ、王都公報にも掲載された。殿下の嘲った紙の上に記された数行が、あの夜会で投げつけられた言葉のナイフを、一つずつ取り除いていったようだ。


 私はそれで終わりだと思っていた。少なくとも、裁判官としては。判決が確定するまでは、セレスティア嬢と私的に会うことはなかった。


 礼状は届いたが、裁判所の記録係を通じて受け取り、返答も定型のものに留めた。それが礼儀であり、爵位持ちとそうでない者の距離感であり、法廷に座る者に必要な慎みだと考えているからだ。


 事件記録が閉じ、控訴期間が過ぎ、判決が確定し、私がリーヴェルト家関連事件の担当から外れることが正式に記録されてから、さらにひと月後。


 王立高等裁判所の執務室に、セレスティア・フォン・リーヴェルト嬢が訪ねてきた。


「クロフォード判事。この度はお時間をいただき、ありがとうございます」


「こちらこそ。なお、念のため申し上げますが、あなたが当事者であった事件はすでに確定しています。私は今後、リーヴェルト家に関する事件を担当しません」


「存じております」


 彼女は微笑んだ。


「その確認を、あなたなら最初になさると思っておりました」


「職業病です」


「素敵な病ですね」


「初めてそう言われました」


 執務室には、法典と記録棚と、書きかけの判決草案しかない。夜会のような音楽も、法廷のような緊張もない。窓から午後の光が差し込み、机の上に置かれた天秤型の文鎮を照らしていた。


 ところで、この度は何用でここに参ったのだろうか。


「本日は、訴訟ではありません」


「では、何かしらのご相談ですか?」


「はい。私事です」


「私事?」


 私は羽ペンを置いた。法廷では、たいていの発言に対応できる。虚偽の証言、怒号、泣き落とし、そして王族の不満。しかし、私事という言葉には、どうも判例が足りない。


 セレスティア嬢は、まっすぐに私を見た。


「私、不幸にも婚約が御破算になりまして。今、婚約者を探しております」


「それは、婚姻部の管轄ではありません」


「ええ、存じております」


「貴族間婚約の契約書作成であれば、どなたか書記官に紹介状を……」


「いいえ」


 彼女は少し笑った。裁判の日には見せなかった、美しい笑いだった。


「今日は、裁判官としてのあなたではなく、エリオット様にお尋ねに参りました」


 私は思わず沈黙した。沈黙したのは、あれこれと言葉を選んだからではない。単純に言葉が出てこなかったからである。


「私と、婚約していただけませんか」


 私は、何度も王族を黙らせたこの口をもってしても、しばらく何も言えなかった。


 そんな様子を気にせず、彼女は続ける。


「あなたは、私を哀れみませんでした」


「当然です。法に携わる者として、そのつもりはありませんでした」


「はい。だから、嬉しかったのです」


 セレスティア嬢は、静かに言った。


「あの夜、私は傷ついていました。けれど、あなたは私を『かわいそうな令嬢』として扱わなかった。私に権利があること、反論する場があること、名誉を回復する手段があることを、当然のように示してくださいました」


「それは、法がそう定めているからです」


「そうですね」


 彼女は頷いた。


「私も嗜みとして法を学ぶ者です。その理由は十分に理解できます。ただし、あの夜のあなたは、本当に格好良かったのです……」


 胸の奥が、じんわりと熱くなった。法廷では味わわない種類の熱だ。


「念のため確認します」


 私はようやく声を出した。


「それは、正式な婚約申込みと理解してよろしいでしょうか」


「はい」


「口頭での申込みも意思表示としては有効ですが、後日の紛争防止のため、書面化を推奨します」


「まあ」


 セレスティア嬢は、楽しそうに目を細めた。


「では、書面は後ほど。まずは、お返事を」


 逃げ道はない。ここで断れば、男が……廃るか……?まあ、元より逃げるつもりもなかったが。


 私は立ち上がり、彼女に向き直る。


 法廷で判決を読むときのように背筋を伸ばした。私自身の意思で、だ。


「謹んで、お受けいたします」


 セレスティア嬢の表情が、柔らかくほどけた。その笑顔を見た瞬間、私は少しだけ理解した。正しい選択をしたな、と。


「では、婚約契約書の作成は」


「エリオット様」


「はい」


「今日だけは、少しだけ法から離れてくださいませ」


 私は真剣に考えた。


「そうですね、努力します」


「そこは即答ではないのですね」


「不確実なことを断言するのは、職業倫理に反します」


 彼女は声を立てて笑った。


 王宮の夜会で向けられた視線にも、法廷で読み上げられた判決にも負けなかった人が、私の執務室で、ようやく年相応に笑っていた。


 もっとも、翌週にはセレスティア嬢から、完璧に整えられた婚約契約書案が届いた。


 条項は全二十七条。


 秘密保持、財産管理、相互尊重、将来の居住地、仕事継続の確認まで、一寸の隙がなかった。


 末尾には、美しい筆跡で一文が添えられていた。


「後日の紛争防止のため、書面化いたしました」


 私はその書面を読み、しばらく天井を見上げた。


 どうやら私は、法廷では王子に勝ったが、婚約者には勝てないらしい。当然、異議を申し立てるつもりはないが。


 後に彼女の父、つまりお義父さんに呼び出され、酒宴に付き合いながら過去の婚姻についての愚痴を小一時間聞かされた上、何かあったら捻り切ると言われたことをここに追記しておこう。

 公爵家令嬢と爵位無しではどう足掻いても禁断の恋なので、これまでの各種功績が認められ、特例としてその婚姻を認められた、ってところですかね。


 本当にそんなのがありなのかは分かりませんが、アリということにしておきます。

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