褐色の豹 悲劇のヘビー級強打者 ハリー・ウィルス(1889-1958)
ウィルスは”無冠の帝王”ラングフォードに勝ち越している実力を考えると、体格でやや劣り年齢も十歳ほど年上のジャック・ジョンソンのチャンピオン時代の晩年に激突していれば、勝つチャンスは十分にあっただろう。時代は違うがルイスと全盛同士で対決しても、スピードは互角、パンチ力はルイス、打たれ強さはウィルスでどう転んだかわからない。
かのジャック・デンプシーが、その全盛期において最も対戦を恐れたといわれるのが、一九二〇年代最強の黒人ボクサー、ハリー・ウィルスである。
ウィルスがデビューした一九一〇年当時、世界ヘビー級王座に君臨していたのは、黒人初のヘビー級王者ジャック・ジョンソンだった。王座に就いてからのジョンソンは、黒人の強豪選手との対戦は避け、イージーな白人相手の防衛戦に終始していたため、かえって黒人は世界挑戦のチャンスが閉ざされ、ジョンソンとって最大のライバルと言われたサム・サングフォードも「無冠の帝王」の尊称のもと、長らく不遇をかこっていた。
ウィルスはジョンソンと違って「来る者は拒まず」をモットーに戦っていた事実上のヘビー級ナンバー2のラングフォードの胸を借りながら腕を上げていった。
一八八cm九十二kgという当時としては恵まれた体格を誇るウィルスは、スピードとパワーを兼ね備えた理想的なヘビーウェイトで、デビュー以来圧倒的な強さで勝ち進んでいたが、ラングフォードの壁はなかなか破れなかった。
一九一四年五月の初対決ではかろうじて引き分けたものの、同年十一月の二度目の対決では二回りも小柄な「無冠の帝王」にKOで沈められている。
平素がライトヘビー級程度のウエートしかないラングフォードは、鈍重な大男揃いの当時のヘビー級にあって、フットワークの速さは群を抜いていた。そのうえ“ゴリラ”と綽名されたとおり、一七〇cmの短躯にもかかわらずリーチの長さはヘビー級並みで、ピンポイントを打ち抜く技術も一級品とくれば、世界チャンピオンのジョンソンを除けば、一線級のヘビー級でも歯が立つ相手ではなかった。
ところがウィルスの凄いところは、この強敵と実に十七度も戦い、その都度成長していったことだ。一九一六年二月以降は負けなくなり、一九一八年四月にはついにラングフォードをKOで仕留め、すでに落ち目のジョンソンに代わって黒人ヘビー級最強の男となった。
ウィルスの強打の秘密は、故郷のニューオルレアンの波止場で沖仲士をしていた頃に鍛えられた背筋の強さにある。
シルヴェイ・バーンズという人気プロモーターの葬式に参列した時のこと。バーンズの友人たちが遺体の収まった棺を霊柩車に運ぼうとしたところ、踊り場が狭いためニ人や三人がかりでは重い棺をドアから階段に出すことすら出来なかった。
そこでその中の一人が力自慢のウィルスに頼んでみると、六百ポンド(二七〇kg)はあろうかという棺を肩と背中で支えると、三階から狭い階段を一人で担いで下りたという。
ウィルスのトレーニングシーンは、古い記録フィルムに残っているが、発達した背筋といい、しなやかで均整の取れた体型といい実に見事なもので、ラングフォードを倒した頃の彼ならば、全盛期のジャック・ジョンソンでも危なかっただろう。ボクシングの巧さこそジョンソンに分があるが、スピードは互角で、ジョンソンよりも大柄なぶんパワーとタフネスはウィルスが勝っているように思われるからだ。
それにしてもこれだけの体格と筋力に恵まれたウィルスが、スポーツで身を立てようと思った最初が競馬の騎手だったというのは面白い。少年時代はニューオルレアンの競馬場の柵の間からレースを見ながら、騎手になる夢に胸膨らませていたウィルスも、体が大きくなりすぎて騎手は断念せざるを得なくなった。
ボクシングとの出会いは、ニューオルレアンからオーストラリアまでの定期船の機関室で働いていた頃、長旅の暇つぶしに船員たちが甲板でボクシングに興じていたのに釣られて、自分もグローブを手にするようになったことがきっかけである。そのうち自らの腕力に目覚めたウィルスはプロを目指し、本格的なトレーニングに打ち込み始めた。
ウィルスがひとたびカラード・ヘビー級タイトル(有色人種間の世界タイトル)を奪取すると、マネージャーのパディ・マリンズはこれまでの方針とは一転して対戦相手を慎重に選ぶようになった。これは機が熟するまでウィルスをじっくりと育てながら、将来のために蓄財しておくという目的によるものだ。
マリンズが時の世界チャンピオン、ジャック・デンプシーとの対戦を画策したのは、ウィルスが「ラングフォードをKOした男」として売り出し中のフレッド・フルトンにKO勝ちして一躍脚光を浴びるようになった一九二〇年の夏から一九二六年の秋までだが、その間はウィルスのキャリアに黒星がつかないよう、また怪我でキャリアを棒に振らないよう、マッチメイキングには細心の注意を払っていた。
おかげで、ウィルスは連勝街道を突き進み、世論も彼こそ最強のチャレンジャーであると認識するようになったのである。
一方のデンプシーは強すぎて不人気なチャンピオンだった。それでも切れ者マネージャーのドク・カーンズや大物プロモーターのテックス・リカードが企画したビッグマッチのおかげで巨万の富を手にしていた。
その代わり観客の声援の大半は挑戦者に送られ、チャンピオンは常にヒール(悪役)だった。
しかし、ヨーロッパ随一の人気ボクサー、ジョルジュ・カルパンティエ、南米の強打者ルイス・フィルポをKOで一蹴してしまうと、デンプシーにはいよいよ対戦相手がいなくなった。そこで浮上したのがハリー・ウィルスとの一戦である。
ジャック・ジョンソンが一九〇八年十二月にトミー・バーンズから世界ヘビー級タイトルを奪取して以来、白人ボクシングファンのストレスは溜まる一方だった。一九一〇年の独立記念日(七月四日)には、無敗で引退した元王者ジム・ジェフリーズまで引っ張り出しながら軽くあしらわれ、白人の黒人ボクサーに対する憎悪はピークに達した。
一九一五年四月にジェス・ウィラードがジョンソンをKOし、ようやく溜飲を下げた白人は二度と同じようなことが起こらないよう、白人対黒人のヘビー級タイトルマッチを阻止してきた。
黒人差別の風潮のおかげで、ウィラードもデンプシーもラングフォードのような危険な黒人強豪との対戦を回避し、長期政権を築くことが出来たが、真のボクシングファンであれば本当の世界一がどちらであるかに強い関心を持つようになるのは必然である。
一九二三年九月以来、試合から遠ざかっているデンプシーは、映画出演などで小銭は稼いでいたものの、一試合数十万ドルの報酬が見込める世界戦に比べれば全く問題にならない。確かにハリー・ウィルスは強敵かもしれないが、デンプシーの強さなら十分勝算があると踏んだのだろう。カーンズはウィルス戦に向けて動き始めた。
ウィルスの強さを誇示し、デンプシーがウィルスを怖がっていると吹聴してきたマリンズの努力がようやく実ったのだ。
両者の対戦は仮契約の段階まで進み、「一九二四年九月六日ジャージーシティ」と日付の入ったチケットも刷り上った。デンプシー対ウィルスのスペシャルカードなら観客動員はフィルポ戦の七万人を超える公算が高い。プロモーターのリカードもほくそ笑んでいたところ、何と政界上層部から横やりが入り、試合は中止となってしまった。
公民権法が成立する四十年も前の時代である。ヘビー級史上最強と謳われボクシング界の頂点に君臨する男が、万が一有色人種に敗れるようなことがあれば、その衝撃はスポーツというカテゴリーに留まらず、政治・経済の分野にまで波及効果が及ぶ可能性すら十分考えられる。したがって経済発展著しいアメリカにおいて、南北戦争時のような内部対立が繁栄に水を差すようなことがあってはならないという政治判断によって、このような超法規的措置が取られたのだ。
やむなくリカードは対戦相手を変更し、ウィルスは前年にデンプシーと倒し合いの名勝負を演じたルイス・フィルポと戦うことになった。
一九二四年九月一日、ジャージーシティ郊外の屋外特設リングには、代行カードにもかかわらず七万人の大観衆が集まった。これまで日陰に甘んじていたウィルスにとっては過去最高の晴れ舞台である。報酬の方も十二万ドルと世界戦並みで、これも過去の黒人ボクサーの中では最高額であった。
フィルポはウィルスよりもさらに大柄な強打者だったが、ウィルスのスピードについてゆけず、ほとんどのパンチが空を切った。逆にウィルスは二ラウンドにクリンチの離れ際に右ショートでダウンを奪うなど試合をコントロールしたが、「パンパの猛牛」のプレッシャーにKOパンチは不発のまま十二ラウンド無判定に終わった。
フィルポとの激闘で白人の間でも人気が高まったウィルスは、一九二五年七月二日、フィルポとジャック・シャーキーを連破したばかりのチャーリー・ウェイナートをニューヨークでKOし、世論は再びデンプシーとの対戦を渇望するようになった。なお、この試合のウィルスの報酬四万ドルは、軽量級世界チャンピオンのそれに匹敵する高額だった。
世論の後押しもあってようやくニューヨーク州が白人対黒人の試合を解禁し、デンプシー対ウィルス戦がいよいよ実現の運びとなった頃、新たなチャレンジャー候補が出現した。
「戦う海兵」のニックネームで人気急上昇中のハンサムな白人ジーン・タニーは、ミドル級の「人間風車」ハリー・グレブとの連戦で揉まれて一流のテクニックを身につけたアウトボクサーである。
直近の試合では、デンプシーが十五ラウンドかかって判定にしか持ち込めなかったトミー・ギボンズを十二ラウンドでKOしており、ブランクのあるデンプシーの方が不利という予想も少なくなかった。
そこでリカードはまずウィルスとタニーによる王座挑戦者決定戦を企画したが、ウィルス側が要求する試合報酬が高額過ぎたため、改めてデンプシー対タニー戦の実現に着手することになった。ここがウィルスの運命の分かれ道だった。
かつてラングフォードは無報酬でもジョンソンと戦いたいと言って拒まれ続けたが、ウィルスはファイトマネーが高額になるにつれ、チャンスよりも金に執着するようになったのだ。おそらくウィルス本人の意志ではなく、したたかなマリンズの意向だったに違いないが、ウィルスはタニー戦を優先することでデンプシーが供託した五万ドルを労せずして懐に入れた代わりに、世界戦のチャンスを永久に失った。
デンプシーがタニーに敗れたことで目標を失ったウィルスは、失意のまま臨んだジャック・シャーキー戦を反則負けで落としてからというもの、めっきり老け込んでしまった。
一九二六年の時点でウィルスは公称三十四歳だったが、これはマリンズがウィルスをオールドタイマーと見くびられないよう三歳サバを読んでいたからで、実年齢は三十七歳だった。幸い黒人は顔つきから年齢の判断がつきにくいうえ、ウィルスの鍛え抜かれた体は見るからに若々しかったため、それほど歳を取っているようには思われなかった。
しかし、気持ちに張りがなくなったことで、パワー、スピードともに急激に衰えたウィルスは、一九二七年七月のパウリノ・ウズクダン戦で、七ラウンドにバスクの若き英雄の右フックでダウンを奪われると、立ち上がったところを滅多打ちにされ、夢の道程にピリオドが打たれた。
もしこの試合に勝てば、二ヶ月後にタニー対デンプシーの再戦が予定されていただけに、場合によっては王座復帰を果たしたデンプシーと改めて対戦するという可能性もわずかに残されていたが、ウィルスの時代が終わったことは誰の目にも明らかだった。
夢の対決は実現しなかったが、実際にデンプシーとウィルスが戦っていたとしたらどのような結果になっていただろうか。
デンプシーの強みは同時代のボクサーの中では攻撃のスピードが速く、スムーズな体重移動による腰の入った強いパンチが打てたことだが、ラングフォードと幾度もグローブを交えているだけあってウィルスもスピードとパワーでは引けを取らない。
ディフェンスに関しては足を使うタイプのウィルスとクラウチングスタイルにローリングを交えたデンプシーではスタイルが異なるが、鋼鉄の顎を持つと言われるデンプシーは不意打ちによるKO負けが一度あるだけなのに対し、ウィルスは二度ラングフォードの強打に屈しており、タフネス面では一歩譲らざるをえない。
したがって打撃戦になれば早いラウンドでデンプシー、長丁場になれば判定でウィルスというのが妥当な線ではないだろうか。
試合報酬にこだわりすぎてタニーとの対戦を拒んだことが、“時間”というボクサーの身体を蝕む最凶の病原菌の増殖を招いたことをウィルスは次のように述懐している。
「ボクサーとして長くリングに留まっていると、彼が相手を負かしてきたのと同様に年齢が彼を負かしてしまうのだ。チャンピオンでも同じだ。老いという白髪の老人こそ真のチャンピオンなのだ。老いはいかなる名選手も負かしてしまうし、老いとの勝負には引き分けなんてないのだ」
ウィルスは昔のフィルムを見る限りバランスの取れた理想的なヘビー級で、デンプシーにとってはタニー以上の強敵になっていたことは間違いない。タニーのパンチではデンプシーをKOするのは不可能だが、全盛期のウィルスのパンチ力はフィルポと互角かそれ以上だけに、ダウン応酬の素晴らしい打撃戦が期待できたはずだ。




