表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

契約婚約したはずなのに、将軍閣下は“私が嘘をつくと分かる体質”らしい

作者: 百鬼清風

 クララ・ヴェルナーが初めて辺境将軍ミラン・ルジナと対面したのは、秋の冷たい風が王都に降りてきた日のことだった。

 王城の奥に設えられた応接室は静まり返り、磨き上げられた大理石の床には二人の影だけが細く伸びていた。


 クララは深呼吸し、丁寧に腰を折った。

 伯爵家の娘としての礼儀ではなく、自分の運命を飲み込むための呼吸だった。


「……クララ・ヴェルナーです。本日より、契約婚約の件で参りました」


 顔を上げた瞬間、視線が正面の男とぶつかった。

 黒に近い濃紺の軍服。鋼のように硬い目。

 噂にたがわぬ冷徹さ――だが、その奥に、どこか疲れた影が潜んでいるように見えた。


 ミラン・ルジナ将軍。

 国境線の戦乱を十年支え続け、無敗を貫いた男。

 “嘘を見抜く体質”を持つという、軍ではよく知られた奇妙な噂の持ち主でもあった。


「ヴェルナー伯爵令嬢、遠路ご苦労だった」


 低く、よく通る声。

 感情はほとんど表に出ていないのに、妙に耳に残る。


「契約内容は事前に聞いている。こちらにも不利益はない。……一年間、形式上のみの婚約。それでよかったな?」


「はい」


 クララは用意してきた契約文書を差し出す。

 “互いの領地に干渉しないこと”“情的関係は求めないこと”“一年満了時に自動解消”

 冷たく合理的な文言が並ぶ。


「嘘をついた場合は罰金を支払う――。この条項は必要だったか?」


「将軍閣下にご迷惑をかけないための保証です。私は……誠実であることしか取り柄がありませんので」


 ミランの視線がわずかに揺れた。

 わずか一瞬の、気配の変化。それだけで胸の奥をざわつかせる。


「……今の言葉、嘘ではないな」


「え?」


「誠実であろうとする、それは君の本質だ。声がそう告げている」


 クララは思わず唇を結んだ。

 “声が告げている”という表現は、この将軍に特有のものだと聞いている。

 戦場で敵の虚言を一瞬で見抜き、部隊を何度も救ったという逸話もある。


「私の声が、何か……?」


「気にするな。特異な体質だ。説明するほどのものではない」


 ミランは契約書に目を通し、一つひとつ確認していく。

 室内の空気は張りつめていたが、不思議とクララは息苦しさを感じなかった。


「では、これより一年。形式的とはいえ、私と君は婚約者だ。……頼む」


 ミランが契約書に署名した。

 その筆跡は、戦場で鍛えられた男らしい、力強さを帯びている。


 クララも静かに署名する。


「本日をもって契約は成立だ」


 ミランが立ち上がり、彼女へと手を差し出す。

 握手を求めているのだと気づくまでに、わずかな間があった。


 その手は大きく、硬い。

 だが、握られる瞬間、指先だけが妙に優しく触れたような気がした。


「……一年だけですから。ご迷惑はおかけしません」


「君は、自分のことを過小評価する傾向が強いな」


「そんなことは……」


「いや、嘘ではない。今のは、ほんのわずかに声が揺れた」


 クララは頬が熱くなるのを感じた。

 自分でも気づけない心の揺れを見透かされることが、こんなにもくすぐったいものなのか。


「私は軍人だ。嘘や欺瞞には敏感だが……君の言葉は、いつも澄んでいる」


「私の……?」


「不思議なことに、君の声だけはすぐ分かる。嘘をつかない声だ。……それが理由だろうな。私は契約婚約を受け入れた」


 クララは息をのんだ。

 冷酷と噂される将軍が、自分にだけこんな風に言葉を落とす理由を理解できなかった。


「……ありがとうございます」


「礼は不要だ。互いに利益のある契約だ」


 ミランはそう言いながらも、どこか視線をそらすような仕草を見せた。

 まるで何かを隠しているかのように。


 その瞬間、クララの胸に、名もなき違和感が生まれる。

 契約婚約であるはずなのに、この男は――

 なぜか、自分に期待しているような気さえしたのだ。


 婚約成立の場を後にし、王城の廊下を歩きながら、クララは自分の心のざわめきを必死で押し込めた。


(これは契約のため……一年だけの形式。お互いの利のためだけの関係。それ以上の感情を持ってはいけない)


 自分に言い聞かせるように、胸の奥で呟く。

 それは嘘ではない――そう思った。


 だが、背後から静かに告げられた声が、足を止めさせた。


「クララ」


 ミランだった。

 振り返ると、いつもの無表情ではなく、少しだけ柔らかな光を帯びた目でクララを見ていた。


「一年後……本当に解消するつもりなのか?」


「え……?」


「今、ほんの少しだけ声が揺れた。……迷っているのか?」


 クララは気づかぬうちに息を飲み、胸が跳ねる。

 そんなはずはない。迷う理由など、どこにもない。

 けれど、言葉が出てこなかった。


「……答えづらいならいい。無理に言わなくていい」


 ミランは短くそれだけを残し、彼女の横を静かに歩き去った。

 その背には、戦場に立つ男の強さとは異なる、どこか孤独な影が差していた。


(……あの人は、私をどう見ているのだろう)


 クララは胸に手を当て、わずかに震える心拍を落ち着かせようとした。

 契約婚約――それだけのはずだったのに。


 このとき彼女はまだ知らなかった。

 この一年の契約が、すべての運命を反転させる始まりにすぎないことを。



 クララ・ヴェルナーが王城の大広間に招かれた日、王都は久しぶりに晴れ渡っていた。

 だが陽光の温かさとは反対に、空気には妙なざわめきがあった。

 何かが起こる前触れ――そんな予感が、クララの胸を重くする。


 大広間では上流貴族が集まり、華やかな音楽が満ちていた。

 しかし、今日は彼女の社交デビューのためではない。

 “契約婚約を結んだ将軍閣下とのお披露目”が目的だと聞かされている。

 クララは思わず胸元のブローチを指先で確かめた。

 控えめで、それでも品格のある銀の飾り。

 緊張を押し殺しながら周囲の視線を受け止める。


(どうか、この日が穏やかに終わりますように)


 祈るような思いを抱いたその瞬間、背後から低い声が聞こえた。


「クララ」


 振り返ると、そこにはミラン・ルジナ将軍が立っていた。

 軍服姿の彼は、他の華麗な貴族たちとは明らかに異質で、

 しかし視線はどこか彼女を気づかうように柔らいでいた。


「緊張しているのか?」


「……少しだけ、ですわ」


「声が揺れていない。嘘ではないようだな」


 その言葉にクララは苦笑をもらしてしまった。

 彼の体質は奇妙だが、どこか安心感があった。

 この場で唯一、彼女の“本心”に触れられる存在なのだと思えてしまう。


「将軍閣下、今日はどうか……」


「安心していい。形式的な挨拶だけだ。すぐに終わる」


 ミランはクララに手を差し出し、大広間の中心へと導いた。

 その周囲で、数人の貴族たちが囁き合っているのが耳に入る。


「辺境の将軍と伯爵令嬢? 妙な組み合わせだな」


「聞いたか? あの娘は欲深いらしい。契約婚約を利用して出世を狙っていると」


「やはり噂は本当なのかしら。純潔を装っているだけの……」


 クララは足を止めそうになった。

 だが、ミランの手が動かぬよう支えてくれた。


「気にするな。噂は噂だ」


 その低い声に励まされ、クララは姿勢を正した。

 噂がどこから出て、なぜ自分に向けられているのか、それは分からない。

 だが――今ここで怯むわけにはいかない。


 大広間の中心で、司会役の侍従が声を張り上げた。


「ただいまより、辺境将軍ミラン・ルジナ閣下と、クララ・ヴェルナー令嬢の婚約披露を……」


 その瞬間、場に鋭い声が割り込んだ。


「その必要はない!」


 クララは息をのむ。

 視線の先に立っていたのは、

 金髪に薄い笑みを浮かべた男――


ハルトムート・クロイツァー。


 かつてクララの元婚約者だった侯爵家の放蕩息子。

 彼は、まるでこの瞬間を待ちわびていたかのように、ゆっくりと歩み寄る。


「ヴェルナー令嬢との婚約披露など、茶番にすぎぬ」


 ざわめきが大広間を駆け抜ける。

 クララは震える手を押さえ、ミランにすがるような視線を送った。

 だが将軍は表情一つ変えず、じっとハルトムートを見据えていた。


「クロイツァー侯爵家次男。発言の意図を問いたい」


 ミランが静かに言う。

 その声は剣の刃のように冷たい。


「意図? 簡単なことだ、将軍閣下」

 ハルトムートは唇の端を吊り上げた。


「クララ・ヴェルナーは“不誠実な女”です。

 契約婚約を利用し、貴殿の名声に寄りかかろうとした。

 あちこちで噂が立っていますよ。お分かりでしょう?」


 クララは心臓が凍りつく思いがした。

 周囲の視線が一斉に集まってくる。

 耳を刺すような囁き声が広がっていく。


「やはりそうだったのか……」


「将軍閣下、騙されたのでは」


「悪女め……」


(違う……私はそんなこと……)


 喉が詰まり、声が出ない。

 一方、ミランの表情は微動だにしなかった。


「それで、君は何を主張したい? 婚約披露に異議があるのか」


「ええ、もちろんですとも」

 ハルトムートは笑みを深める。


「クララ・ヴェルナーは“嘘をつく”。

 将軍閣下、あなたの体質を欺いたのです」


 その言葉は大広間の中央で、まるで刃を振るうように響いた。


(私……嘘なんて……)


 クララは一歩後ずさった。

 それに合わせるように、ミランが前に立ち、彼女を庇う。


「……彼女の声は、嘘をつく時は揺れない。私は知っている」


「それは彼女が巧妙だからですよ」

 ハルトムートの声は滑らかだった。


「私と婚約していた頃から、彼女はそういう“二面性”を持っていたのです。

 あなたも、そろそろ気づくべきでしょう?」


 その瞬間、クララはミランの横顔の変化を見た。

 彼の眉がわずかに動いた。

 彼が迷っている――そう感じた。


(……どうして?)


 ミランはクララに視線を落とす。

 彼の瞳に、苦悩の影があった。


「……クララ」


 その呼び声に、クララの胸が痛む。


「質問する。お前は……噂のような行いをしたのか?」


 問われた言葉は淡々としていた。

 だが、それはクララの胸を深く裂く刃だった。


(私を……疑っている?)


 喉の奥が震えた。

 だけど、言わなければならない。


「……私は――」


 クララは顔を上げ、震える唇を必死に制した。


「私は、あなたに嘘などついていません」


 その声は細く、それでも真っ直ぐだった。


 大広間が静まり返る。

 誰もが、ミランの反応を待っていた。


 彼は目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。

 声の揺らぎを感じとるための、いつもの仕草だ。


 そして――


「……クララ。今の言葉は本物だ」


 ミランの言葉に、クララはわずかに息をついた。

 だが、それで状況が覆るわけではなかった。


「しかし……」


 ミランは苦しげに続けた。


「私は軍の立場上、お前にかけられた噂を無視できない。

 政治的な圧力がかかっている。……クララ、契約婚約は――」


 大広間の静寂、無数の視線、冷たい光。


 ミランの口から告げられたのは、

 クララの未来を断ち切る残酷な宣告だった。


「――解消する。今日をもって」


 空気が揺れ、音が消える。


 契約婚約の破棄。

 まさにその場で、衆人の前で。


(……嘘……でしょう?)


 クララの視界が揺らぎ、足元から力が抜けていく。

 ミランの瞳の奥には、迷いと痛みがあった。

 それは彼が決して望んでいない決断だと伝えていた。


 しかし――宣告は覆らない。


 クララは息を吸い、震える声で、それでも最後の誠実を絞り出した。


「私は……あなたに嘘をついていません。

 ずっと、ずっと――」


 ミランの目が痛むように細められた。

 彼は手を伸ばしそうになり、しかし途中で止めた。


「……すまない」


 その一言が、クララの心を完全に砕いた。


 華やかな大広間の中心で、

 彼女の一年間の契約は、こうして無惨に終わりを告げた。



 婚約破棄が宣告された日の夕刻、王都には雨が降り始めていた。

 昼間あれほど晴れ渡っていた空はいつの間にか厚い雲に覆われ、石畳を叩く雨粒は容赦なく冷たい。

 クララ・ヴェルナーは傘も持たず、大広間を後にしてからずっと歩き続けていた。


(どうして……こんなことに)


 破棄の瞬間の光景が脳裏に焼きついて離れない。

 ミランの迷う瞳。

 ハルトムートの薄ら笑い。

 周囲の冷ややかな視線。


(私は……嘘なんてついていないのに)


 雨で髪が重く垂れ、視界を覆う。

 それでもクララは歩みを止められなかった。

 帰るべき実家ヴェルナー伯爵家にこのまま戻れば、父母の落胆は目に見えている。

 社交界は今日の事件を瞬時に噂話として広め、

 明日には「不誠実な令嬢」が街中に知れ渡るだろう。


 心の奥で、小さく軋むような痛みがした。


 と、そのとき。


 どこかで布が揺れる気配がした。

 雨音の向こう、石畳に不自然な水しぶき。


(……ついてきている?)


 クララは足を止めた。

 背筋が冷たくなる。

 王都の路地裏は、昼間でも陰が濃い。夕刻ならなおさらだ。


 ふいに、背後から足音が迫った。


「――っ!」


 振り返る間もなく、腕を強く掴まれ、クララは引き倒されそうになった。

 力任せの動き。貴族の礼儀とは無縁の、粗野な手つき。


「離して……っ!」


 叫ぼうとした瞬間、口元を布で覆われる。


「悪いが、お嬢さん。少し黙っててもらうぜ」


(誰……この人たち……?)


 暗がりに、男が二人。

 顔には布を巻き、素性を隠している。

 雨に濡れた短剣がきらりと光った。


(どうして私が――)


 喉が凍りつく。

 恐怖が骨まで染み込むようだった。


「手間かけさせやがって……! さっさと連れていけ! “あの方”がお待ちだ」


 “あの方”?

 意味が掴めないまま、クララは引きずられるように歩かされる。

 足元がおぼつかず、転びそうになるたびに肩を荒く押され、痛みが走った。


 雨音が激しくなる。

 王都の喧噪が遠のき、人気のない下町へと向かっているのが分かった。


(誰か……誰か、助けて――)


 その刹那。


 どこからか、鋭い破裂音が響いた。

 空気を裂くような、重い衝撃。


 次の瞬間、目の前の男が仰け反った。


「ぐっ……な、何だ……!」


 もう一人の男が振り返る。

 クララの腕を離し、慌てて短剣を構えた。


 雨の帳の向こうから、黒い影が歩み出てくる。


「……クララ」


 その低い声は、聞き間違えようがなかった。


「ミラン……将軍閣下……!」


「遅くなった。追跡を撒くのに手間取った」


 ミランは濡れた軍服のまま、迷いなく前へ踏み出した。

 その背中は、戦場で数千の兵を率いる将軍そのものだった。


「何者だ、お前!」


 男が叫び、短剣を突き出す。

 だがミランはその手首を捉え、瞬く間に地面へねじ伏せた。

 雨水が跳ね上がり、男の悲鳴が響く。


「答えろ。クララを連れ去ってどこへ行くつもりだった」


「し、知らねぇ! 指示されただけで――!」


「……嘘だな」


 ミランの声が低く沈む。

 その瞬間、男の顔色が変わった。


「ひっ……!」


 ミランは指先で男の顎を押さえ、目を逸らさずに言った。


「声が揺れた。お前は恐怖しているが、嘘も混じっている。……真実を言え」


「い、言えねぇ! 本当に言えねぇんだよ……!」


「なら、ここで倒れていろ」


 ミランが手を離した瞬間、男は気を失った。

 あたりに残るのは雨音と、クララの荒い呼吸だけだった。


「クララ、歩けるか?」


「は、はい……」


 震える手を差し伸べると、ミランが支えてくれた。

 その掌は冷たい雨に濡れていたが、驚くほど力強かった。


「すまない。……今日の破棄は、俺の判断が甘かった」


「ミラン閣下……?」


「お前に危険が及ぶと分かっていなかった。

 いや、分かっていなかったわけではない。……認めたくなかっただけだ」


 クララは言葉を失った。

 ミランの声には、隠そうとしても隠しきれない苦悩と後悔が滲んでいた。


「噂が流れた時点で、俺は政治的に追いつめられていた。

 だが、破棄を選んだのは……お前を巻き込みたくなかったからだ」


「でも……破棄した結果、私は……」


「だから、俺の判断は誤りだった」


 ミランの目は、雨の闇の中でも確かな意思を宿していた。

 その視線に射抜かれ、クララは胸を押さえる。


(この人は……私を護るために?)


 心臓が痛いほどに高鳴る。

 だが、ミランは静かに続けた。


「クララ。……お前の声は、嘘をつかない。

 戦場で多くの虚言を聞いてきた俺が、初めて“安心できる声”だと思った」


「安心……?」


「お前の声には、奇妙な揺らぎがある。

 それは、真実を告げる時にだけ強まる。……他の誰にもない響きだ」


(私の声が……?)


 クララは自分の喉に触れた。

 そんな力があるなど、一度も考えたことがなかった。


「俺が破棄を告げた瞬間……お前が『嘘をついていない』と言った時、

 その揺らぎが一番強かった。……俺は、それを信じたかった」


 雨音の中、ミランは静かに息を吐く。


「だが、信じるだけでは守れなかった。……すまない」


 その謝罪は、彼がこれまで誰にも向けてこなかった種類の言葉だった。

 戦場で命を背負う男が、たった一人の令嬢のために悔恨を抱いている――

 それがどれほど重い意味を持つのか、クララには分かりすぎるほど分かった。


「……ミラン閣下。私は……」


 言いかけた時だった。


 ミランの表情が急に険しくなった。


「下がれ、クララ」


「え……?」


 次の瞬間、闇の奥からさらに数名の影が現れた。

 短剣と棍棒を構え、こちらを狙ってくる。


「やはり、これで終わりではなかったか」


 ミランが前に立ち、クララを背に庇う。

 雨に濡れた軍服越しに、彼の体温が微かに伝わる。


「クララ。俺の後ろから離れるな」


「は、はい……!」


 影たちが一斉に襲いかかってきた。


 次の瞬間、戦場の将軍が姿を現した。


 ミランの剣が雨を裂き、闇の中で鋭く閃く。

 影たちは次々と倒れ、呻き声が静寂を破る。


 圧倒的な力。

 だが、それ以上に――


(私を……守っている)


 クララは震える手で胸を押さえた。


 戦いが終わり、ミランは剣を納めた。

 雨の中でも彼の呼吸はブレていない。

 その静かな強さが胸を打った。


「……全員捕縛した。後は騎士団に引き渡す」


「どうして……ここまでしてくださるのですか」


 クララの問いに、ミランは一瞬だけ言葉を探すように黙り――

 やがて、静かに告げた。


「――お前を手放すべきではなかった。それだけだ」


 雨の帳の中で、クララは息を止める。

 胸が痛いほど熱くなる。


(手放すべきじゃなかった……)


 その言葉が、雨音よりも深く、心に溶けていった。



 クララ・ヴェルナーが襲撃から一夜を過ごした翌朝、王都は昨晩の雨が嘘のように晴れていた。

 だが、彼女の胸に残るざらついた痛みは、まだ消えていない。


 王城の近衛詰所。

 ミラン・ルジナ将軍は、朝の冷たい空気の中で、並べられた書類を静かに見つめていた。

 捕縛した襲撃者たちの取り調べ記録。その全てに、ある名が浮上している。


「……クロイツァー家の者が裏で金を流していた。予想どおりか」


 彼の声は低く、怒りを押し殺した色が滲む。


 クララは同席することを願い出た。

 彼女自身が巻き込まれた事件だ。真実を見届けなければならない。


「ミラン閣下……私が聞いても、よろしいのですか?」


「当然だ。これはクララに対する攻撃だ。……最後まで見届けてほしい」


 ミランはそう言い、隣の椅子を引いた。

 クララは深く腰を下ろす。

 胸の奥ではまだ“破棄された痛み”が残っていたが、彼の言葉はその痛みを少しだけ和らげた。


 詰所の奥の扉が開き、側近のレオポルト・シュタインが入ってくる。

 落ち着いた灰色の瞳をしているが、その表情は硬かった。


「将軍閣下、証言に重大な一致がありました。……例の二名、そして別件で拘束していた者も、すべて“同じ名前”を口にしています」


「クロイツァー家か」


「いえ……クロイツァーも関わっていますが、黒幕は別にいます」


 ミランの視線が鋭くなる。


「誰だ」


「――イグナツ・ヴァルテンベルク卿です」


 クララは息を呑んだ。

 ヴァルテンベルク――王宮内で大きな影響力を持つ、強大な貴族派閥の長。

 クロイツァー家が“駒”にすぎないことは、周知の事実でもある。


(私の婚約破棄に……こんな勢力が?)


 クララは頭が回らなかった。


「動機は?」


「将軍閣下の失脚です。……閣下が国境線での軍備権を握り続ければ、貴族派の利権が脅かされる。そのため“将軍の権威を揺るがす事件”をでっち上げる必要があった、と」


 ミランは拳を握り、机に置かれた書類を押しつけた。


「――クララを標的にしたのはなぜだ」


「それは……“将軍閣下が信頼する唯一の声”を断つため、だと」


 クララの胸に、ひやりとしたものが走る。


(私……? 私の声が……標的に?)


 ミランは静かにクララを見た。

 その瞳には、申し訳なさと怒りが同時に宿っている。


「クララ。お前は、俺を支える唯一の存在だと敵は判断した。

 嘘を見抜ける体質の俺が唯一“揺らぐ声”を持つ者……それがお前だ」


「そんな……私はただ……」


「誠実であろうとする。それが、お前の声に宿っている。……それが、敵には邪魔だったのだ」


 クララの喉が震える。


「私の……せいで……?」


「違う。クララのせいではない。……俺が守れなかっただけだ」


 ミランの言葉は、まるで自らを責める刃のようだった。


「……レオポルト。例の男たちは“誰の指示”だと言っていた?」


「クロイツァー家を通し、ヴァルテンベルク卿の密命だと」


「そうか」


 ミランはゆっくりと椅子から立ち上がった。


「これ以上、好きにはさせん。……クララ、来てくれ」


 クララは息を整え、立ち上がった。


「これからどちらへ?」


「ヴァルテンベルク派の証人を確保し、噂を完全に潰す。

 お前に貼り付けられた“悪評”は、今日中に消す」


 クララの心臓が跳ねた。

 破棄の痛みはまだ残っている。

 だが、それよりも強い衝動が胸に生まれた。


(……一緒に戦える。私も)


「ミラン閣下……私も、お側にいてよろしいのですか?」


 ミランはわずかに目を見開き、そのあと柔らかく答えた。


「もちろんだ。……お前の声が必要だ」


 胸の奥が熱くなる。

 その瞬間、クララは自分がわずかに震えたことを自覚したが、

 それを隠すように軽く息をついた。


 王城の尋問室。

 拘束された証人が一人、荒い呼吸で椅子に縛りつけられていた。

 その顔は恐怖で蒼白になっている。


「クララ。お前の役割は一つ。……嘘を言わせないよう、真実を引き出すことだ」


「私に……できるかしら」


「お前の声は、真実と嘘を揺らがせる。……俺にはそれが分かる」


 ミランは尋問室の中央に立ち、軽く顎をしゃくった。

 クララは一歩前に出る。


「あなた……教えてください。

 誰が私を襲うよう命じたのですか?」


 男の顔が強張る。

 しかし、声は弱々しい。


「そ、それは……」


 クララはさらに静かに言葉を重ねた。


「嘘をつく必要はありません。私はあなたを責めませんわ。

 本当のことだけ、教えてください」


 その声音は、驚くほど穏やかだった。

 だが、尋問室の空気が変わる。


 ミランが横から静かに呟いた。


「……揺れた。今の男の声は、嘘をつく前の怯えだ」


「本当のことを……教えて」


 クララの問いに押されるように、男はついに口を開いた。


「ヴァルテンベルク卿だ! あんたを消せって……

 将軍が“嘘を見抜く体質”で信用を集めているから、その……邪魔だったんだ!」


 クララは息を飲む。

 だが、次の瞬間、ミランが短く命じた。


「確認する。……クララ」


「はい。彼は今、本当に……真実を言っています」


 その言葉を受け、ミランの表情が決定的に変わった。


「……これで終わりだ。クララの名誉は今日で回復される。

 クロイツァーを含む貴族派全員に、罪を償わせる」


 クララは胸に手を当てた。


(終わる……? 本当に?)


 だが、終わるのは単なる“悪評”だけではなかった。

 ミランの眼差しは、かつて破棄を告げた時とは違う。


(私と閣下の関係も……変わってしまうのかしら)


 その疑念が胸を焦がす。


 正午。

 王の前で行われた緊急審問は、劇的な結果を迎えた。


 ハルトムート・クロイツァーは証拠と証言によって完全に追い詰められた。

 クララを嘲笑し、婚約破棄へと追いやった張本人は、真っ青な顔で膝をつく。


「ち、違うんだ……! 私はただ……!」


 クララは静かに彼を見つめていた。


(あなたが流した噂で、私は……全てを失いかけた)


 だが、彼女は復讐の言葉を口にしなかった。

 その沈黙は、ハルトムートにとって何よりも重かった。


「あ、あの時の破棄は……ッ!」


「もういい」


 ミランが冷たく言い放つ。


「お前の声は、嘘しか響かない」


 その一言で、ハルトムートは崩れ落ちた。

 これが、クララに対する“ざまぁ”であり、反転の瞬間だった。


 王の判決は速やかに下される。


「クロイツァー家次男、ハルトムート・クロイツァー。

 その罪状により、領地没収の上、辺境への追放とする」


 大広間にざわめきが走る。

 クララはゆっくりと息をついた。


(終わった……)


 そう思った瞬間、隣にいたミランが小さく囁いた。


「……クララ。これでようやく、お前の誠実さが証明された」


 その声音は、破棄を告げた日の冷たさとは別物だった。


「ありがとう。……俺は、お前を失うところだった」


 クララは目を閉じて、胸の奥が熱く満ちるのを感じた。


(どうして、こんな言葉を……)


 ミランの声には、嘘が一切なかった。



 ハルトムート・クロイツァーへの判決が下された翌日、王城は妙な静けさに包まれていた。

 大広間で起こった出来事は瞬く間に城下へ広まり、クララ・ヴェルナーの名誉は回復した。

 だが――本当の脅威はまだ終わっていない。


 ミラン・ルジナ将軍は、城の執務室で報告書に目を走らせていた。

 机上には散乱した地図や文書が重なり、その表情は険しい。


「……ヴァルテンベルク卿は姿をくらましたか」


「はい、将軍閣下。屋敷ももぬけの殻で、配下の者たちも行方不明です」

 側近レオポルトが淡々と答える。


「逃げるということは、まだ企みを続けるつもりだろう。……クララを狙う可能性もある」


 その言葉に、執務室の隅で控えていたクララが小さく息をのんだ。

 ミランの視線がすぐに彼女へ移る。


「恐がらせたか?」


「いいえ……でも、私は……」


「クララ、遠慮は要らん。言え」


 クララは胸の前で指を絡め、俯きかけてから顔を上げた。


「私のせいで、閣下に……ご負担をおかけしているのではと……」


 その声は震えていた。

 ミランの表情がわずかに変わる。


「……今の言葉は、ほんの少しだけ嘘だな」


 クララは目を見開いた。


「嘘……?」


「“私のせい”というのは違う。お前は自分を責めているが……その責任は俺にある。

 お前の声は正しい。揺らぎがそう告げている」


 嘘でも皮肉でもない。

 ミランの言葉は真っ直ぐで、胸を穿つ。


「クララ。……お前を守るのは俺の義務だ。契約であろうと、そうでなくとも」


 クララの心臓が跳ねた。

 その瞬間、ミランが視線を逸らすようにわずかに横を向いた。


(どうして……こんなに誠実でいられるのだろう)


 胸の奥がじんわりと熱を帯び、彼を見つめるだけで喉が震えそうになる。


 だがそのときだった。


 部屋の外から、騒々しい足音が廊下を駆け抜け、扉が叩かれた。


「将軍閣下! 緊急事態です! 至急、謁見の間へ!」


 ミランが振り返る。


「何があった」


「クララ・ヴェルナー様が……!」


「クララがどうした?」


「……誘拐されました!」


 クララ自身がそこにいるというのに、兵士の言葉は混乱を招いた。

 しかし、次の瞬間理解した。


(私……? 誘拐……?)


 ミランの眼が鋭く細められた。


「……“もう一人のクララ”だな」


「どういう……?」


「ヴァルテンベルク卿は、偽のクララを使って攪乱している。真の目的は別にあるはずだ」


 だが兵士は震える声で否定した。


「い、いえ閣下……攫われたのは……!」


 兵士が恐る恐る指差した先――

 クララは自分の背後で、何か重い気配に気づいた。


 冷たい布が彼女の口を塞ぐ。


「――っ!」


「クララ!」


 ミランが叫ぶより早く、黒い外套をまとった影がクララの腕を引き、窓から飛び降りた。

 悲鳴にも似た空気の断裂音。

 落下と同時に、地面に仕込まれた魔法陣が淡く発光する。


(転移……!)


 視界が白く染まり、クララの意識は一瞬途切れた。


 次に目を開けた時、そこは薄暗い石造りの部屋だった。

 蝋燭の火が揺れ、荒々しい影を壁に投げかけている。


(どこ……ここは……)


 手首には縄。

 足元にも鎖。

 完全に拘束されていた。


 扉が軋み、外套姿の男たちが数名入ってくる。

 その中心に立っていたのは――


 イグナツ・ヴァルテンベルク卿。


「……会えて嬉しいよ、クララ・ヴェルナー嬢」


 その嗄れた声は、蛇のように耳にまとわりついた。


「なぜ私を……? あなたに恨まれる覚えなど……」


「恨み? いいや、違う。君は“危険”なのだよ」


 男の目が狂気じみて光る。


「将軍ルジナの嘘見抜き体質を揺らがせる――“真実の声”。

 君の喉には、古代から伝わる魔力が宿っている。

 その力は、軍の象徴である将軍を強化してしまう。……貴族派にとって、それは邪魔なんだ」


 クララは唖然とした。


(私の……声が……?)


「君さえいなければ、将軍の勢力は弱まる。

 だから、君を消す。……ゆっくり、確実に」


「……ミラン閣下は、すぐに来ますわ」


 口の中が乾いていたが、それでも言葉を絞り出す。

 ヴァルテンベルクが嘲るように笑った。


「それは困る。だから、“嘘のクララ”を囮にしたのさ。

 将軍はそちらへ向かっている。君を救う暇はない」


(違う……ミラン閣下は、私の声を聞けば……)


 その瞬間、クララの胸に強く響いた。


(――私の心の声は、彼に届く)


 だが鎖は固い。

 逃げる術もない。


「最後に聞いておこう。……君の声は、不思議だ。

 嘘をつかず、真実にだけ反応するという。

 本当かい?」


 クララは息を吸い、小さく笑った。


「本当です。……ただし」


「ただし?」


「あなたには、聞こえない真実ですわ」


 ヴァルテンベルク卿の眉が跳ねた瞬間――


 扉が轟音とともに吹き飛んだ。


「クララ――!!」


 雨のように破片が散り、黒い軍服が現れる。

 剣を握り締め、燃えるような眼差しで部屋を見渡すその姿。


 ミラン・ルジナだった。


「な……なぜここが……! 囮を向かわせたはず……!」


「声が聞こえた」


 ミランが低く告げる。


「クララの声が――『嘘だ』と」


 その言葉は、胸を撃ち抜くような衝撃を持っていた。

 ミランは迷うことなくクララのもとへ駆け寄り、縄を切り落とす。


「遅くなった……!」


「ミラン閣下……っ、どうして……」


「お前の心が嘘を叫んでいた。“囮は偽物だ”と」


 ヴァルテンベルク卿が怒りに震える。


「なぜだ! なぜ分かる! 奴は声を発していないはずだ!」


「声は音だけではない。……クララが側にいると、俺の体質は“心の揺れ”にも反応する。それを理解していなかったのは、お前の致命的な誤算だ」


 ミランの言葉は静かな怒りに満ちていた。


「クララを傷つける者を――俺は許さない」


 その瞬間、ミランが剣を抜き放つ。

 ヴァルテンベルク卿の護衛が一斉に飛びかかる。

 だが、ミランの剣は雨のように速く、鋭く、誰ひとり彼に近づけない。


 圧倒的な力。

 クララは震える手で胸を押さえ、息を呑んだ。


(この人は……私のために、ここまで……)


 護衛たちが倒れ、ミランはヴァルテンベルク卿の目の前に立つ。


「クララを囮にし、国を乱し、軍を陥れようとした罪……覚悟はできているな」


「ま、待て……私は……!」


「嘘だ」


 ミランが一歩だけ前へ進む。

 その声には揺らぎがなかった。


「お前の声には“本心”がない。ただの保身と恐怖だ。――聞く価値もない」


 ヴァルテンベルク卿は崩れ落ちた。


 全てが終わった。



 ヴァルテンベルク卿が拘束され、護衛たちがすべて排除された後の石造りの部屋には、ようやく静寂が戻った。

 乱れた空気の中で、クララ・ヴェルナーはしばらく動けなかった。

 縄が切れた両手は自由を取り戻しているのに、胸の奥はまだ激しく脈打っていた。


 ミラン・ルジナ将軍は剣を下ろし、ゆっくりクララの前に膝をついた。


「……ケガはないか」


「はい……大丈夫です」


 震えを残す声でそう答えた瞬間、ミランの眉がわずかに寄る。

 彼はクララの手に触れ、冷たさに気づいたように指先で覆った。


「嘘ではないようだな。しかし……随分、無理をした」


「私はただ……閣下を信じていただけです」


 その言葉に、ミランの目が大きく揺れた。

 彼の体質は、クララの声の真実を明瞭に見抜く。


「君の声は……本当に強い」


「強い、でしょうか。私は、ずっと自分が弱いと思っていました」


「いや、違う。……俺は“心の嘘”を感じ取れる体質だが、

 君の声だけは、いつも澄んでいて、揺らいだとしても迷いの形が分かる。

 どれほど恐怖していても、真実を隠さない。それは、強さだ」


 クララの胸に熱が広がった。

 彼は、彼女自身でも気づかない部分を見ている。その視線がたまらなく優しい。


「……ミラン閣下。

 どうして、私を……こんなにも必死に助けてくださったのですか」


 それは問いであり、願いであり、恐れでもあった。

 ミランは一瞬目を閉じ、深く息をついた。


「――俺は、お前を失いたくなかった」


 石室の空気がぴたりと止まる。


「契約婚約を結んだ時は、互いの利のためだけだと思っていた。

 しかし……日を追うごとに、俺は気づいていた。

 お前の声が、俺にとって“唯一の真実”だと」


 クララの喉が震える。


「将軍閣下……それは……」


「違う、クララ。これは言葉の綾ではない。

 お前といると、俺の体質は安定する。嘘の気配が消え、心が静まる。

 戦場でどれほどの混乱があっても、君の声だけが揺らがず俺を導く。

 ……そんな存在は、生涯で一人しかいない」


 胸の奥がきゅっと締めつけられ、クララは目を伏せた。


(……私なんて、ただの伯爵令嬢なのに)


 でも、それでも。


(この人は……私を必要としてくれている)


 それは、どんな宝石よりも重い言葉だった。


 クララはゆっくりと立ち上がり、まだ不安定な足取りでミランに向き直った。

 縄の痕が残る手首を隠すように握りしめ、勇気を集める。


「ミラン閣下……少し、お伺いしてもよろしいでしょうか」


「何でも言え」


「私たちの契約婚約は……一年で終わるはずでした。

 それを、破棄したのは……閣下でした。

 でも、今……こうして助けに来てくださったのは、契約とは関係ない……

 そう、おっしゃるのですか?」


 ミランは静かに近づき、クララの腕をそっと支えた。

 彼の手は冷たいはずなのに、触れられた場所は熱くなる。


「――契約はもう、関係ない」


 クララの心臓が高鳴る。


「君を助けたのは、責任ではなく……俺自身の意志だ。

 契約ではなく、俺は……クララ・ヴェルナーという人間を、守りたいと思った」


 言葉に偽りはなく、揺らぎもない。

 彼自身の“本心”がそのまま声に宿っていた。


 クララは喉に手を当てた。


(この声は……彼に届いてしまう。嘘は、つけない)


 だからこそ、逃げることもできなかった。


「では……私が、ここで閣下のことを……」


「……クララ?」


「……好きだと、言ったら。

 閣下は、それを……“嘘だ”と言うでしょうか?」


 ミランの息が止まった。


 クララの声は震えていて、それでも芯があった。

 心の奥底から絞り出した、真実そのもの。


「クララ……今、揺れていない。

 その言葉は……間違いなく、本物だ」


 クララの頬に熱が差す。

 ミランの表情は、戦場でどれほどの混乱に立ち向かった時よりも、深い衝撃を抱いていた。


「俺も……同じだ。

 クララ。お前を愛している」


 その言葉を聞いた瞬間、クララの目に涙が溢れた。

 驚きでも、恐怖でもない。

 ただ、温かい喜びだった。


 その後、王城に戻り、ヴァルテンベルク卿は正式に拘束された。

 王国は混乱の収束に向けて動き出し、ミランの行動は広く称賛された。


 だが――問題は、クララとミランの“契約婚約”がどうなるかだった。


 王城の庭園。

 冬の冷気の中で、ミランは白い吐息を漏らしながら、クララの前に立っていた。


「クララ。……これを返そうと思っていた」


 ミランの手には、一枚の厚い羊皮紙――

 破棄されたはずの契約書。


 だが、そこには破かれた痕がない。


「……どうして、無事なのですか?」


「契約書には隠し条項があった。

 “どちらか一方が契約を一方的に破棄した場合、

  もう一方を保護する義務が発生する”」


 クララは息をのんだ。


「つまり……閣下は……」


「俺は“お前を守る義務”を負った。

 破棄した瞬間に、法的にも、お前から離れられなくなった」


「……そんな……」


「皮肉だろう。

 だが、その義務すら……今の俺には、もうどうでもいい」


 ミランは契約書をゆっくりと手で破った。

 破り捨てられた羊皮紙が風に揺れる。


「クララ。今度は契約ではなく……お前自身の意志が欲しい」


 クララは胸の奥に手を当てる。

 涙がこぼれそうなのを必死に堪えながら言った。


「なら……聞いてください。

 私の声は、嘘をつけません。

 私は、あなたと共に生きたい。

 あなたのそばで、あなたの声を支えたい。

 それが……私の真実です」


 ミランは微笑み、クララの掌を静かに取る。


「その心は、本物だ」


 そして、彼はクララの額にそっと唇を触れさせた。


「――俺と、正式に婚約してくれ。

 契約ではなく、愛によって」


 クララは迷いなく頷いた。


「はい。……ミラン」


 庭園に冬の光が差し込み、二人の影をひとつに結んだ。


 嘘を見抜く将軍が、生涯でただ一人信じた令嬢――

 その物語は、ここに本当の始まりを迎えた。

よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ