第8話【脱皮《モルティング》・前編】
───深夜3時3分。場所は同じくして、『土鳥邸』
三階へ続く階段。
「─────『勝てない相手』……かぁ。」
その言葉を、階段を駆け上がりながら、綃斗はぽつりと呟いた。
右手には携帯音楽プレーヤーの『Driver』。
左手は、首元を軽くさする────
つい先ほどまで、一階での戦闘の気配があった。───走吾、コードネーム『百足』が「任せろ」と言ってくれたのはいいが────
(……『お前じゃ勝てない』って……なんスかそれ。)
綃斗は眉をひそめ、少しだけ唇を尖らせた。
ダクト臭の残る屋敷の空気の中、二階から三階への階段は妙に長く感じた。
「確かに、アイツ……殺気はヤバかったけど……。」
息が上がるほどではない。
カポエイラで鍛えた彼の脚は、ただ駆けるだけなら『迅速』に、いくらでも動ける。
だが、そのステップは、どこかいつもより『鈍って』いた。
綃斗は階段を駆け上がりながら、脳裏の奥に微かな『悔しさ』を抱えていた。
軽口を叩きながらも、走吾が本気で『動きが掴めなかった』その相手。
─────それが七節だ。
(……あんな化け物と、ムカデ先輩ひとりでやってるんスか……?)
少しだけ、心配になった。
だが、その感情を打ち消すように、綃斗は自分に言い聞かせる。
「まぁ俺は俺で……ちゃんと結果出してやりますよ。」
そう言って、最後の段差を踏み越えた。
──────────
────三階……『土鳥邸』最上階。
そこは、他の階と違って、奇っ怪なほど『白い』空間だった。
廊下も、扉も、床のカーペットも、統一された純白。
まるで病院の個室のように、静かで冷たい。
ただし、どこか『甘ったるい香水』の匂いが漂っている。
綃斗は鼻をひくつかせる。
「スンスン……────なんスかこの匂い……
相当体臭がキツイんスかね?」
不穏な冗談を飛ばすが、その声すらも吸い込まれるかのような静寂が広がっている。
廊下の突き当たりには、大きな白い扉───
まるで洋館のチャペルのような、仰々しい二枚扉が、閉ざされていた。
綃斗は、その扉の前で小さく息を吐く。
「……さて、ここに政治家さんが『おねんね中』ってワケかな……。」
軽く首を回し、イヤホンを耳に差し直す。
そこには、『お気に入りのベストヒッツ』が、再生された。
《─────ようこそジャングルへ〜ゲームだってあるんだぜ〜♪》
ズンチャズンチャと、歌詞が電子ビートに乗って鳴り始める。
彼の『戦闘開始』の合図と同時に、『切り札』でもある。
「よし……いっちょ、殺りますか。」
そのまま、ドアノブに手をかけ、無造作に扉を開き始める──────しかし、
「あれ、階段の上は寝室って……。」
扉を開けた瞬間、綃斗は一瞬、足を止めた。
そこにあったのは、寝室────ではなかった。
目の前に広がるのは──────広大な『バルコニー』だった。
三階全面を使った、異様に広いバルコニーが、夜空の下に広がっていた。
天井のないその空間は、月明かりを正面から浴びている。
床は高級タイル敷き、欄干は金属と強化ガラスのフレーム。
中央にはソファベッド、ワインテーブル、観葉植物、虫除けの青いランタン──────
『戦闘用』に広く改築したのか、綃斗の持っている事前情報とはかなり違っている。
「───なにこれ〜……高級ホテルのルーフラウンジじゃないスか……!!!」
綃斗は思わず言葉を漏らした。
だが──その中心。ソファベッドに横たわる『肉塊』が、綃斗の視線を奪う。
2mは超える巨躯──────
肌は脂ぎって光り、髪は短く刈られ、顔の輪郭は脂肪で埋もれている。
そして上半身は何も着ていない。
「────ングォガァァァァァア……ズズズ……。」
重低音のようないびきを響かせ、仰向けに寝ていた。
(……え、まさかアレが標的? あのデブなの?)
と、思ったその瞬間────男が、唐突に目を開いた。
「……ふあぁ〜〜……うぅん……殺気漏らしちゃだめよぉ……眠れないじゃなぁい……♡」
その声は、奇妙なまでに艶っぽく、湿り気を帯びていた。
しかし、明らかな男の声……仕草は乙女。
「……あんた誰スか……政治家には見えないスけど───。」
綃斗が低く問う。
相手は『むくり』と起き上がり、横に置いていた『金属球の付いた棒』を引きずりながら立ち上がる。
「アタシの事かしら……可愛いお兄ちゃんに免じて答えてあげるわね……♡」
金属球には痛々しい『金属の棘』……巨大な中世の武器『モーニングスター』である。
その凶器には、刻まれたような傷と、乾いた血がこびりついていた。
男は、にゅるっと気色悪く笑いながら、ゆったりと自己紹介を口にする。
「アタシ……『蛞蝓』って呼ばれてるの♡
『舐句 二郎』がホントのお名前よ……覚えておいてね♡」
「ここ政治家……ホント殺し屋の趣味が悪ぃよ……。」
──────蛞蝓は微笑む。
「お兄ちゃん……『格闘技』で殺すタイプなんだ〜……でもさ──────」
ズルッと、蛞蝓の太い右足が……ゆっくりと床を擦る。
その動きだけで床が『軋む』……靴底に足が『沈み込む』……─────
「君のちっちゃな『足』じゃ……この肉は貫けないのよね♡」
開戦の合図は突然だった。
──────────
─────綃斗の足が飛ぶように跳ねた。
アクロバティックなスピンと共に宙を舞ったかと思えば、右脚が蛞蝓の首筋を狙うように伸びる。
空中で披露する、『回転蹴り』……。
「空中回転蹴り────『施条銃弾』!!!」
しかし、──その蹴りの衝撃は無効化される。
「……なっ?」
脚が沈んだ感触。
まるで──粘土へ蹴りを入れたかのような。
ぶつかるのではなく、『飲み込まれる』感覚だった。
拳をぬか床に突っ込んだような鈍さ。
表面張力を持つスライムに埋もれていくような、摩擦も反発もない違和感。
「ヌヒヒ……いい蹴り♡ でも、効かないんだなぁ♡」
蛞蝓の太い首───そこの『肉襦袢のような脂肪』が、全てを包み込み、防ぎきっている。
蹴りが返されない───だから、反撃の準備もできない。
「離せよっ……!」
脚を取り込まれ動けない綃斗。
しかしその刹那、蛞蝓の左腕が唸りを上げる。
持ち手の着いた鉄球……モーニングスターが弧を描き、綃斗の胴へ向けて薙ぎ払う──────
「──────バヒュン……ッ!!!」
しかし紙一重。
綃斗は後方宙返りし、勢いで脚を離してギリギリで回避。
鉄球は床に着弾し、「ズドンッッ!!!」という鈍い音と共に、大理石が割れた。
「うわ……これ、当たったらシャレにならねぇな……!」
バランスを取りつつ、再度間合いを詰める。
(駄目だ、蹴りが通じない。筋肉じゃない……“脂肪”が、クッションの役割してる……)
蛞蝓は笑う。
首を傾げ、気持ち悪い愛嬌を残して。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん……可愛いけど、細すぎない?……折れちゃいそう♡」
「だったら、試してみなよ───折れるのはどっちかってな!!」
その言葉と同時に、綃斗が『テコンドー』のような、体を反らした回転蹴り。
「────『飛去来器』!!」
床すれすれを滑るように、踵が蛞蝓の膝に命中────した、かに見えたが、
「─────グニェッ……」
またも吸収……太ももの脂肪に防がれる。
今度は更に、綃斗の足先、全体がめり込んだ。
「──チッ!!」
引き抜こうとする刹那、またもや蛞蝓の手がモーニングスターを振り上げる。
「お返しだよ、お兄ちゃん♡」
──────振り下ろされる鉄球。
綃斗は咄嗟に床へ倒れ込むように体を沈める、地面を転がる。
鉄球は空振り……破砕音が空気を割り、砕けた石片が飛び散った。
綃斗は距離を取り、息を整える。
(一発でも食らったら、即終了だ……。)
──────────
─────綃斗の戦い方は、『重さ』の否定に近い。
地面を蹴り、音に合わせ、重力すらも軽視するスタイル。
カポエイラは『自由のため』に生まれた、『舞踏武術』……。
だが、蛞蝓は違う。
地面に根を下ろした樹木のように動かない。
この対比が、戦場を塗り替えるのだ。
「シャーナナナーナナ!!────喰らえ『断頭台』!!!」
綃斗が空中からの踵落とし────
跳ね回るようなトリッキーな軌道で攻撃を仕掛ける。
だが、その衝撃全てが、蛞蝓の脂肪に「ズボッ」と吸い込まれては弾かれる。
その様は、まるで水風船を拳で叩くような感触。
──入っても、通らない。
──打っても、傷つかない。
「お兄ちゃん、そろそろ疲れたでしょ?……踊るの、やめな?」
そして次の瞬間、蛞蝓が真正面からタックルしてきた。
「うわっ……!」
─────直線的で、鈍重なはずなのに、速い。
2m越えの巨体が突進してくる様は、まるで崩れかけたビルの外壁のようだった。
綃斗はなんとか横に跳ねる。
だが───奇しくも避けることは出来なかった
「な……ッ!」
床には蛞蝓の汗と皮脂が「ベッタリ」とこびりついていた。
靴裏の摩擦が逃げ、滑ってバランスが崩れた。
「もらったわよ〜♡」
蛞蝓の丸太のような拳が、綃斗の顔面へ─────────
「──────ドガアッ!!」
──────────
─────綃斗の体が、ふわりと浮いた。
抵抗虚しく、吹き飛ばされソファの背へ激突。
衝撃で背面が折れ、綃斗の身体が地面を転がる。
音楽プレーヤーのイヤホンが耳から外れる。
「────しまった……!」
彼にとっての『音楽』は『殺し方』である。
それが途切れることは、殺しの感覚そのものを失うに等しい。
「うわー……壊れちゃった?」
スラッグが舌なめずりするように笑う。
「ようやく、止まったねぇ♡
うるさい男の子は苦手だったんだぁ……♡」
綃斗は、血が滲む唇で、うつ伏せのまま笑った。
「……へへ……やっぱ……アンタ、気持ち悪いわ。」
この瞬間、空気が沈む。
死が、足音を立てて近づく感覚を覚える。
今回は、天井から鎌を投擲してくれる者は居ない。
綃斗は、肩で息をしながら、ゆっくりと立ち上がる。
「でも、まだ本気出してないんでね────」
目に宿る光は────まだ、消えていない。
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