第2話【羽化《イクロージョン》】
────彼には、名前がなかった。
記憶もなかった。
自分がどこで生まれ、何者だったのか。
両親が誰だったのかすら、思い出せなかった。
目を覚ましたときには、すでにあの孤児院にいた。
東京の郊外。
山と森に囲まれた場所に建つ、灰色の建物。
鉄と消毒液の匂いが混ざった、どこか病院じみた施設だった。
年季の入った壁。軋む床。味のない食事。擦り切れた布団。
そこは確かに『生きる場所』ではあったが、『生きている実感』は一切なかった。
名前のない彼は、職員たちから『ナナシ』と呼ばれていた。
名ではない、ただの『記号』。
存在の代わりに貼られた、仮のラベル。
当時14歳の彼は、他の子供たちとほとんど話さなかった。
感情も表に出さず、常に無表情だった。
よく言えば冷静、悪く言えば無機質。まるで機械。
だが、不思議と誰も彼をいじめることはなかった。
──ナナシは、観ていたからだ。
人の動きの予兆を、表情の陰りを、感情の波を。
それが目に見えるかのように理解できた。
手が動けば、その前に回避できた。
物を投げようとすれば、放物線の先を読むことが出来た。
それが本能なのか、どこかで受けた訓練の記憶なのか。
彼自身にも、それはわからない。
ただ、ひとつだけ確信があった。
──彼はすでに、『殺す』ためのシステムを持っていた。
──────────
────それは、ある冬の日だった。
孤児院に政府の人間が来た。
黒い背広の男と、真紅のスーツを身にまとった赤毛の女。
その後ろには、無言のまま立つ全身黒ずくめの男たちがいた。
空気が、変わった。
その場にいるだけで、何か『殺人』の匂いを感じさせる集団だった。
背広の男は、淡々とこう告げた。
「全国の孤児院を対象に、選抜試験を実施する。」
「才能のある恵まれた子供には、『新しい人生』を与える。」
「質問は──受け付けない。」
職員たちは顔をこわばらせた。
だが、「口外すれば施設ごと解体する」という一言で、誰も声を上げなくなった。
試験は翌日、施設の裏庭に組まれた即席の試験場で行われた。
鉄柵に囲まれ、砂利が敷き詰められた仮設の訓練区画。
その中に、何十人もの子供たちが並ばされた。
指示は簡潔だった。
───ナイフを的に投げろ。
───目隠しをして逃げろ。
───模擬戦を行え。
───部屋にある武器で敵を倒せ。
それは『テスト』と呼ぶには、あまりにも異質なものだった。
だが、ナナシ──少年は、何も疑問に思うこと無く、ただ、黙って従った。
何故なら─────
「テストに合格すれば、孤児院に居なくて済むかも。」
「孤児院から出れば、自分の過去を探しに行けるかも。」
彼の心は、これらの『希望』に溢れていたからだ。
この希望が彼の背中を押し、生き残るための『選択』だと直感していたのだ。
そして、全ての課題を最速で、正確に、無表情でこなした。
────模擬戦。
相手は、政府の訓練員。
大柄で、全身が筋肉で固められた『戦うための人間』。
周囲の子供たちが震え上がる中、ナナシは静かに前へ出た。
──「……始め」
その合図とともに、彼は間合いを詰める。
低く、鋭く、ほとんど『音』のない動きだった。
膝裏を蹴り、肘を打ち、訓練員の体勢が崩れた瞬間──
右手の指先を槍のように突き出し、鳩尾に打ち込んだ。
「──ゴキリッ……」
音がした。
肋骨が折れた音だった。
訓練員がうめき声を漏らすより早く、ナナシは一歩下がり、無表情で整列に戻った。
採点官の黒い背広の男は、それを見て口元を歪めた。
まさに、サイコパス的なニヤケ顔。
「……これは使えるな。感情が希薄、動きに無駄がない。」
「記憶喪失というのも好都合だ。『過去』がなければ、何でも上書きできる。」
赤毛の女の方も、艶やかな唇を歪めて微笑んだ。
「……育て甲斐がありそうね」
──────────
───その夜。ナナシの部屋に、その赤毛の女が現れた。
妖艶な香水の香りと、胸元が開いた赤のスーツ。
彼女の姿は、子供が目にするにはあまりに大人で、艶やかだった。
左手には、分厚いファイルが抱えられている。
「アナタ、名前が無いのよね。──じゃあ、明日から使う『名前』、あげるわ」
彼女は机に座り、書類を差し出した。
『鎌日部 灯郎』
意味は聞かされなかった。
だが、それでよかった。
「これはアナタの『記憶』。『存在証明』のためのラベルよ。」
「意味なんていらないわ。これがアナタ。明日からはそれで生きるの。」
──『名前』が、できた。
ほんの一瞬だけ、彼の中に何かが灯った気がした。
それは喜びではない。
けれど、『ここにいてもいい』という──仮の居場所のような感覚だった。
その日を境に、彼は「鎌日部 灯郎」として政府の訓練施設に移された。
眠る場所が変わった。
食事が変わった。
命令の内容が変わった。
そして数年後。
その名は、別の呼び名とともに、再び世界に現れる。
──【殺し屋蟷螂】
日本政府が認可した、|日本政府公認暗殺者組織。
その中でも最年少で、確実に殺すと評された存在。
血の滲むような静寂の中から生まれた、『死神』
その始まりが、
名もなき少年の──《羽化》だった。
読んでいただきありがとうございます!
過去編と言いますか、キル・マンティスがどういう人間かを説明したくて入れました!
改善点やブックマーク、感想等お待ちしておりますm(_ _)m