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【やさしい仕返し】道を譲らなかった男

誰かに譲ってもらった時、

自分がちゃんと「ありがとう」って言えていたか──

そんな記憶が、ふと蘇ることがあります。


はじまりの一編として、静かな風のような仕返しをどうぞ。


すべての物語は、風のように始まり、そして煙のように消えていく。




あの町には、少しだけ変な風が吹いていた。


それは、人に気づかれないほど、やさしい風。


誰かの首筋を、そっと撫でるように通りすぎる。

干してあった洗濯物が、一枚だけ風と戯れる。

誰の目にも留まらず、それでも世界の片隅で、確かに起きている“ゆらぎ”。


それが、すべての始まりだった。


***


その日、男は道を譲らなかった。

いや、譲られたのに、礼を言わなかったのだ。


軽自動車が脇に寄り、右折しやすいように道を空けた。

けれど、彼は無言でハンドルを切り、そのまま通り過ぎた。


──何かをしたわけじゃない。

──何も、しなかっただけ。


ただ、それだけのこと。


信号で止まった瞬間だった。

男は、バックミラーに映る車のライトに、ほんの一瞬、違和感を覚えた。

片方だけ、光っていた。さっきまで点いていなかった方だ。


不意に、胸のあたりが、ざらりとした。

それは風ではない。寒気でもない。


……誰かに、見られている。


そう思った次の瞬間、助手席に置いていた紙袋が、カサリと音を立てた。

何もしていないのに。


“やさしい仕返し”は、もう始まっていた。


***


翌朝、男は普段どおりに出勤した。

いつも通りの時間、いつも通りの道。

けれど、交差点に差し掛かった瞬間、思わずブレーキを踏んだ。


昨日と同じように、軽自動車が道を譲っていた。

だが、その運転席を見て、男の背筋が一瞬だけ凍った。


──あれは、俺だ。


姿形がそっくりだった。髪型も、ジャケットの色も、ナンバープレートさえ。

男は急いでアクセルを踏み、すり抜けるようにその車を追い越した。


バックミラーに映ったその車は、少しだけ動いて、また停まった。

まるで、最初からそこに“いただけ”のように。


昼。

職場での会議が終わり、男はひとり休憩室にいた。

自販機で買った缶コーヒーを開けようとすると、手が滑った。

床に落ち、転がった缶は、奇妙な音を立てながら止まった。


缶の文字が、逆さまになっていた。


『ARIGATOU』


そんなブランド名、あっただろうか。

見たことのないロゴに、一瞬戸惑ったが、手に取ると確かに「ありがとう」と読める。


蓋を開けると、中は空っぽだった。


ポトリ、と、胸の奥に何かが落ちたような気がした。


***


帰り道、男はコンビニに立ち寄った。

会計を終え、レジ横で誰かが手にしていた傘が目に入った。


それは、彼が半年前に電車に置き忘れた、白いビニール傘によく似ていた。

持ち手に巻かれた黒いテープまで、まったく同じ。


見知らぬ少年がそれを持っていた。

男は思わず声をかけたが、言葉にならなかった。


──なぜ、俺はあの時、「ありがとう」と言えなかったのか。


頭の中で、誰かがそうつぶやいた。


少年は傘をくるりと回し、外へ出て行った。

その直後、店内のBGMが止まり、風の音が小さく流れ込んできた。


風は、やさしく男の背中を押した。


***


帰宅した男は、ようやく気づいた。


部屋の壁に貼ったポストカードが、一枚だけ逆さまになっていた。

「THANK YOU」と書かれたそれは、まるで彼を責めるように見えた。


静かに、それを剥がして、裏返した。


裏には、手書きのような文字があった。


 「次は、あなたが“譲る”番です。」


男は思わず、部屋の隅を見た。

誰もいない。音もしない。ただ、窓から風だけが吹き込んでいた。


それは、誰かの祈りのようだった。


***


──やさしい仕返しは、誰かを裁くためのものじゃない。


ただ、忘れてしまった気持ちを、少しだけ思い出させるために。




語り手:詠実えみ


礼を言うのは、決して義務ではありません。

けれど、それがなかったことで生まれる“空白”は、意外と長く残るものです。


風がそっと、背中を押してくれるまで。


最後までお読みいただきありがとうございました。


「仕返し」と聞くと強い言葉のようですが、

この物語では、“忘れかけていた気持ち”をそっと返すような、

そんなやさしさを描けたらと思っています。


今後も、日常の中にある小さな棘と静かな因果を、

少しずつ綴っていきます。


よろしければ、次の物語も風のように訪れてください。

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