『とことん女運の悪い男とストーカー女』…最終章・偽りの幸福
咲美が行方不明になってから、義彦と明日香の生活はようやく落ち着きを取り戻した。
彼女の影はすっかり無くなり、警察からは「斎藤咲美の行方は依然として不明」との連絡があったが、義彦はそれ以上深く考えなかった。何故急に消えたのかは解らないし気になるが、今は明日香と生まれてくる子供の事に集中したかった。
やがて、明日香は無事に子供を産んだ。小さな手が義彦の指を握り、彼は心から幸福を感じた。名前は「春子」と名付けられた。春の訪れのように温かく、穏やかな子だと思った。義彦は明日香と春子と過ごす日々に、ようやく平穏が訪れたと信じていた。
「明日香、俺達…やっと家族になれたな」
ある夜、春子を寝かしつけた後、義彦はそう呟いた。明日香は穏やかに微笑み、「そうね」とだけ答えた。だが、その瞳の奥には冷たい光が宿っていた。盲目的な義彦には決して見えない、彼女の恐ろしい本心だった。明日香にとって、この家庭は任務の為の道具にすぎず、義彦の愛も、自分がお腹を痛めて生んだ春子の存在も、計画の一部でしかない。だが、義彦と生まれて間も無い春子がその真実に気づくことは無かった。
――――――
一方、咲美は遠い異国の地で耐え難い苦痛の日々を送っていた。彼女が閉じ込められている部屋は無機質で冷たい空間だった。白い壁に簡素なベッド、食事を提供するだけの小さな窓。監視カメラの赤い光が24時間常に彼女を見つめ、外界との繋がりは完全に断たれていた。長期間閉じ込められ、咲美は気が狂いそうだった。最初は叫び、何度も壁を叩き、脱出を試みたが、やがて力尽きて虚ろな目で天井を見つめるだけの日々が続いた。
そんな中で、咲美はここに至るまでの事を振り返っていた。義彦を恨み、明日香に嫉妬して憎悪し、ストーカーとして彼らに付きまとった…あの頃はただ義彦を取り戻したい一心だったが、今ならわかる。自分がどれだけ愚かだったか。感情に任せて暴走し、その結果、明日香の計画を成就させてしまったのだ。
咲美は悔やんだ。義彦へ強い想いを抱いたことは今も後悔していない。あの純粋な気持ちは彼女の大切な一部だった。でも、その想いがこんな形で歪み、最悪の事態に結実してしまったことは一生の不覚だった。
いずれ自分は女に生まれてきたことを後悔する様な目に遭わされる…望まぬ相手の子を孕まされ…しかもその子は人間らしい生き方をすることは無い…、義彦と明日香との間に出来た子と同じく。
咲美は悲しみと恐怖に震えていた。
「私の愚かさが…全てを壊したのね…」
涙が咲美の頬を伝った――一体、自分はどこで間違えてしまったのだろうか。今頃、義彦は自分は幸福になれたと信じているだろう。明日香と彼女が生んだ子供に囲まれ、平和で穏やかな家庭を築けたと喜んでいるに違いない。だが、彼は何も知らない。明日香が自分を愛してなどいないことも彼女に掌で踊らされていることも。そして、歪んではいても自分を本当に愛していた女は咲美だったということも。
あまりにも皮肉だった。咲美は義彦を取り戻そうとして全てを失い、冷酷な明日香は目的を達成し、義彦は何も知らずに偽りの幸福に浸っている。自分たちの恋の破局がこんな無惨な末路へ繋がるなんて、想像もしていなかった。
――――――
そんな咲美の嘆きなど知らない義彦は春子を抱きながら、窓の外に広がる穏やかな夜空を見上げた。
「これからも、ずっとこうやって暮らしていこうな、明日香」
「ええ…勿論よ、義彦」
彼の隣に立つ明日香は声こそ優しげだったが、その心は氷のように冷え切っていた。
――――――
「義彦…ごめんなさい…。こんなことになるなんて…私がストーカーになんかならなければ…」
咲美は膝を抱え、ただただ泣くしかなかった。涙が床に落ち、静かな部屋に悲しみに満ちた音を響かせた。だが、その後悔と絶望は誰にも届かない。彼女は遠く離れた異国の地で、永遠に閉じ込められたままであり、義彦も偽物の世界に閉じ込められたまま終わるのだった。
終。
これで最初の話は終わりです。次は再び修司のいる本屋になります。